05_砂漠の水族館
丘を下りてから、どれだけの距離を歩いただろう。
ラヴィとピキピキは、ただ前へ、前へと進んでいた。
景色は、歩くほどに移り変わっていく。石造りの古い村のとなりに、錆びた高架の橋脚が立ち、その向こうに、見たこともない形の塔がそびえる。まるで、たくさんの違う世界の切れ端を、むりやり一枚の布に縫い合わせたような眺めだった。
崩れていく景色にも、ラヴィはもう、驚かなくなっていた。
表面の色や模様がはがれ落ちて、のっぺりとした地面。宙でふつりと途切れた道。そういう壊れ方を、ラヴィは淡々と受け止めて歩く。世界とは、こういうものだ。そう思えるくらいには、もう、いろいろなものを見てきた。
——と。
足元の砂が、さわ、と動いた。
黒い小さな虫が、数匹。地面から湧くように現れて、ちらちらと明滅しながら、こちらへ寄ってくる。世界をかじる、あの虫たちだ。
ラヴィは、迷わなかった。
「ピキピキ、おいで」
両腕を広げると、ピキピキはすぐに意味を察して、ふわりとその胸に飛び込んできた。小さな体を、しっかりと抱き込む。そして、軽く地を蹴った。
胸に浮かぶのは、もう慣れたあの言葉——脱兎。
体がふわりと加速して、風になる。虫の群れが、あっというまに後ろへ流れ去っていく。この速さでは、小さなピキピキは、とても飛んでついてこられない。だから、こうして抱きかかえて走るのが、いつのまにかふたりのやり方になっていた。
数歩で、虫たちはもう、はるか後ろの砂に取り残されていた。
ラヴィは速度をゆるめ、足を止める。それから、腕の中をそっとのぞきこんだ。
「……だいじょうぶ? 苦しくなかった?」
ピキピキは、平気平気、とでもいうように、腕の中からひょいと飛び上がり、宙でくるりと一回転してみせた。ラヴィは、ほっと頬をゆるめる。
ふう、と息をついた。
初めてあの大きな怪物に追われたときは、生きた心地もしなかった。それが今は、こうして小さな群れくらいなら、落ち着いてかわせる。
——でも。
ラヴィは、ちらりと思う。自分にできるのは、結局、逃げることと、癒やすことだけだ。襲ってくるものに、立ち向かうことも、抗うことも、できない。ただ逃げて、それから、傷を癒やす。それだけ。
それを物足りないと思うべきなのかは、まだ、わからなかった。
やがて、行く手に、大きな街が見えてきた。
砂に、半分沈んだ街だった。
かつては、異国の市場だったのだろう。広い石畳の広場や、まっすぐ伸びる大通りの名残が、わずかに見てとれる。けれど、その大半は、うねる砂の下に呑み込まれていた。立ち並んでいたはずの建物も、いまは深く砂に沈み、屋根や塔の先だけが、砂の海に浮かぶ小島のように、点々と顔を出している。
そして、その砂の街の中心に——ひときわ、奇妙なものが立っていた。
ガラス張りの、大きな建物。
傾いて、半ば砂に埋もれている。けれど、割れたガラスの壁の向こうで、何かが、青く、ゆらゆらと光っていた。乾ききった砂漠のただなかで、そこだけが、ひんやりとした水の色をたたえている。
「……なんだろう、あれ」
ラヴィは、吸い寄せられるように、割れたガラスのすきまから、そっと中へ入った。
そして、息をのんだ。
薄暗がりの中に、見上げるほど大きな水槽が、いくつも並んでいた。そのどれもが、青い光をたたえ、まるで生きているみたいに、ゆれている。
——魚が、いた。
色とりどりの魚が、水槽の中を、ゆったりと泳いでいた。ひらひらと尾をなびかせ、群れをなして、いっせいに向きを変える。崩れかけた、死んだように静かな世界で、そこだけが、信じられないくらい、あざやかで、いきいきとしていた。
きれいだ、とラヴィは思った。
けれど、近づいてみて、ラヴィは、なんだか奇妙な気持ちになった。
魚たちは、こちらに、まるで気づかない。ガラスにそっと手を当てても、すぐ目の前を、素知らぬ顔で横切っていくだけ。じっと見ていると、同じ魚が、同じ軌道を、同じ動きで、なんどもなんども、くりかえし泳いでいた。疲れもせず、よそ見もせず。まるで、よくできた絵が、ただ動いているだけのように。
水のはずなのに、ガラス越しの手のひらには、つめたさも、ぬくもりも、何も伝わってこない。
——生きて、いない。
そう気づいたとき、ラヴィの胸を、説明のつかない感情が、すうっと撫でていった。
これは、生きている魚じゃない。それなのに、こんなにもきれいに、いきいきと泳いでいる。もう、だれもいない、こわれかけた世界で。見てくれる人なんて、どこにもいないのに。ずっと、ずっと、泳ぎつづけている。
なんのために。だれのために。
その姿は、どこか、さびしかった。あの光の声たちと、似ていた。もう、だれもいないのに、楽しげな気配だけが、いつまでも、その場に残っている。動いて、輝いて、それでも——からっぽ。
ラヴィは、しばらくのあいだ、その光る魚たちを、じっと見つめていた。
それから、水槽の前にぽつんと置かれたベンチに、そっと腰を下ろす。ようやく、ひと息ついた。
すぐそばを、光がひとつ、ゆっくりと漂っていく。
ラヴィは、手を伸ばして、それに触れた。
《このイベント、神回だったよな》《わかる、あの子の最後のシーン、ここで泣いた》《何回見ても泣ける》《この水族館、いい思い出だわ》
声が、流れ込んでくる。
ここで、何かがあったのだ。この水族館で、誰かが、誰かのために、心を動かすような出来事が。声たちは、その「誰か」を惜しみ、たたえていた。名前まではわからない。けれど、たしかに、ここには物語があった。
別の光に、触れる。また別の光にも。
触れるたびに、わかってくる。この世界には、ちゃんと歴史があったのだ。たくさんの誰かが、ここで生きて、笑って、泣いて、何かを大切にしていた。死んだように静かな今の姿からは、想像もつかないくらい、にぎやかな時間が、確かに流れていた。
——けれど。
光を重ねるうちに、ラヴィは、ひとつ、奇妙なことに気づきはじめていた。
声たちは、どこか、遠いのだ。
すぐそばで聞こえているのに、彼らのいる場所は、ここではない気がする。なんと言えばいいだろう。どの声も、いつも、この世界の出来事を、少し高いところから眺めているような話し方をする。中にいる者の言葉ではなく、外から見ている者の言葉。まるで、この世界そのものを、どこかずっと高い場所から、のぞきこんでいるような——。
うまく言葉にはできない。確かなことなんて、何もわからない。
ただ、ラヴィは、ぼんやりと感じた。自分のいるこの場所と、あの声たちのいる場所は、たぶん、違う。
その「気配の差」が、胸の奥に、小さなひっかかりとして残った。
ラヴィは、青くゆれる水槽を見上げながら、少しのあいだ、考えた。光る魚たちは、あいかわらず、同じ軌道を泳ぎつづけている。
目を覚ましたばかりのころは、本当に、何も知らなかった。自分の名前も、自分の顔も、ここがどこかも、何ひとつ。からっぽの胸で、ただ立ち尽くしていた。
それが今は、どうだろう。
自分の名前を知った。鏡で、自分の顔を見た。甘いものが好きで、にがいものが苦手だと知った。この世界には、たくさんの誰かの歴史があったと知った。そして——その歴史を、どこか高いところから見ている誰かが、いるのかもしれない。そんなふうに、感じはじめている。
それに——考えてみれば、不思議なことがある。
自分のことは何ひとつ思い出せないのに、目に映るものの名前は、自然と胸に浮かんでくるのだ。この場所も、ひと目見たときから「水族館だ」とわかっていた。鏡も、市場も、人参も、見れば、その名を知っている。自分が何者かは、からっぽのまま。それなのに、ものの名前だけは、はじめから、ちゃんとそなわっていた。
ひとつ、またひとつ。
何も知らなかった自分に、わかることが、確かに増えていく。
その手応えは、不思議と、あたたかかった。すべての答えには、まだ遠い。けれど、こうして一歩ずつ近づいているのだという感覚が、ラヴィの胸を、静かに満たした。
「……もうちょっと、行ってみよう」
ピキピキが、ぴょこんと宙で頷くように揺れる。
ラヴィは、ベンチから立ち上がった。
最後にもう一度、青くゆれる水槽を振り返る。光る魚たちは、こちらを気にもとめず、それでも、どこまでもあざやかに泳いでいた。生きていないとわかっていても——この静かな世界で、こんなにもきれいなものに出会えたことが、ラヴィには、少しだけ名残惜しかった。
「……ばいばい」
小さく手を振って、水族館をあとにする。あの、高いところから世界を見ている誰かの気配は、小さなひっかかりとなって、まだ胸の隅に残っていた。その正体は、いつか分かるだろうか。——答えを探すように、ふたりは、ふたたび街の奥へと進んでいった。




