N4_罅
隣国の城に、不穏な動きがあるという。
その一報を受け、私とシオンは、夜陰に紛れて城内へ忍びこんでいた。狙いは、城主の周辺で交わされている密談の中身を探ること。それだけが任務だった。
天井裏の狭い空間を、息を殺して伝う。埃と、古い木材の匂い。梁の隙間から、下の広間を見下ろす。灯りに照らされた家臣たちが、何やら地図を広げて話しこんでいた。低い声で交わされる言葉は、ここまで届かない。
「……あっちの通路から」
シオンが、指先だけで方向を示す。私はうなずき、音もなく後を追った。梁から梁へ、天井板の継ぎ目を選んで渡り、広間の真上へ、少しずつ近づいていく。床板の軋む位置、灯りの死角。この数年で、体に染みついた技術が、迷いなく足を運ばせる。ようやく密談の声が拾える位置まで達すると、天井裏の隅にある明かり取りの格子窓が、外の月明かりをうっすらと差し入れていた。
梁から梁へ渡るその足取りだけで、二人の呼吸は、いつしか、ひとつのもののように重なっていた。言葉を交わさなくても、次にどちらへ動くか、互いにわかる。こういう任務のときだけは、姉と妹の差など、どこにもなかった。
——ただの、二人一組の忍びだった。
任務の合間、狭い天井裏で身を寄せ合いながら、シオンが、そっと耳打ちしてきた。
「終わったら、また町、行こうね。今度こそ、あの櫛」
「……いつの話」
「気が向いたら」
くすりと笑う気配が伝わってくる。こんな緊張の最中でさえ、いつもの調子を崩さない。それが、シオンらしさだった。私も、つられて、小さく口の端を上げた。まさか、これが最後の軽口になるとは、そのときの私には、知る由もなかった。
*
異変は、前触れもなく訪れた。
城の外で、地鳴りのような轟音が響く。天井裏の私たちは、揃って身をこわばらせた。すぐそばの格子窓から外を覗くと——夜空に、見たこともない裂け目が走っていた。星をまとめて断ち切るように、まっすぐな一筋。その線が、みるみる幅を広げていく。裂け目の先から、見知らぬ光景が滲み出している。鋼の塔。歪んだ地平。異形の軍勢めいた影。夜気が、金属の焼けたような嗅いだことのない匂いに塗り替わっていく。
「……なに、あれ」
答えを持つ者は、誰もいなかった。
裂け目が、大きく口をあける。轟音とともに、何もかもがなだれ込んでくる。城そのものが軋みながら傾いだ。倒れた灯りから、あちこちで火の手があがる。悲鳴と怒号が、下の広間から突きあげてくる。
「行くよ、ネオン」
シオンの声に、迷いはなかった。私たちは、天井裏を蹴破って飛び降りる。着地した床は、すでに斜めに傾いでいた。壁に亀裂が走り、そこから、赤い光が漏れている。任務も、隠密も、もう意味を持たなかった。ただ、この崩れゆく城から、生きて出ること。それだけが目的になっていた。
*
廊下は、すでに地獄だった。
崩れた梁が、通路の半分を塞いでいる。逃げ惑う家臣たちの怒号。焦げた木の匂いと、噎せ返るような煙。足もとの床板が、熱でじわりと歪んでいく。ふたりで、出口を求めて駆けた。この道が駄目なら、あの道。あの道も崩れていれば、また別の道。途中、力尽きて座りこむ老いた家臣を、シオンが肩を貸して立たせ、開いていた脇道へ押し出した。私も泣きじゃくる子どもの手を引いて、火の届かない一角まで連れていった。助けられる者は、助けながら進む。それでも、火の回りは速く、行く手は何度も阻まれた。
ようやく見つけた、まだ火のまわっていない通路。そこへ、飛びこもうとした、その時だった。
頭上で、割れるような音がした。
見上げる暇もなかった。巨大な梁が、天井ごと私の真上へ落ちてくる。体が動かない。逃げなければ、と頭ではわかっているのに、足が根を張ったように動かなかった。
——どん、と。
強い力に体を突き飛ばされた。視界が大きく回る。次に見えたのは、床に転がった自分の姿と——梁の下敷きになった、シオンの姿だった。
「シオン……ッ!」
駆け寄る。声が震えた。太い梁が、シオンの下半身を押し潰している。動かそうとしても、びくともしない。素手で瓦礫の端を掴んで引く。爪が割れても構わなかった。血が滲むのもかまわず引き続けた。
「やめて」
かすれた声。シオンが、私の手を弱々しく押しとどめる。その手には、もういつもの力強さがなかった。
「もう、いいから」
「なに言ってるの。いい、わけない」
私は、なおも瓦礫にしがみついた。ほんの少しでも動けば、あるいは。そう信じたかった。けれど、指先から伝わる感触は絶望的なほど重く、びくともしなかった。
「じゃあ、あたしも、ここに」
言葉が、勝手にこぼれた。ひとりで生き延びることなど、考えられなかった。
シオンが、初めて、はっきりと首を振った。
「だめ」
「なんでよ」
「なんでも」
*
炎が、じりじりと迫ってくる。煙が、視界を灰色に染めていく。それでも私は、瓦礫を掴む手を止めなかった。指の感覚が、とうになくなっていた。
「ネオン」
呼びかけたきり、シオンは、しばらく言葉を継がなかった。浅く、短い呼吸を、何度も繰り返している。整えようとしているのだと、ようやく気づいた。
「私は」
ひと息、ついで。
「普通の女の子として、生きたかった」
声は、まだ穏やかだった。けれど、途中で一度、詰まった。息を吸いなおして、続ける。
「ネオンも、そうでしょう?」
——息が、止まった。
「……どうして、それを」
「おねえちゃんだからね」
シオンが、笑った。血の気の失せた唇の端を、わずかに持ちあげて。いつもの笑い方のはずなのに、頬の筋肉に、力が入りきっていないのがわかった。
「あのね、ネオン」
言葉と言葉のあいだが、少しずつ、長くなっていく。
「私たちは、ここで、死んだの」
胸が、浅く上下するだけになっていた。声量は、もう、囁きに近い。
「あなたは、逃げなさい」
一度、言葉が途切れる。私の手を握る指先から、力が抜けていくのがわかった。それでも、シオンは、続けようとした。
「里を、捨てて」
息継ぎのたび、喉の奥で、かすかに音が鳴る。
「普通の女の子として、生きて、いいの」
「そんな……」
「……影は」
声が、ほとんど聞き取れないほど、細くなっていた。私は、耳を近づけた。
「闇に、死すべし……よ」
掟の言葉を、シオンは、それでも、祝福のように紡いだ。里の誰もが重く、息苦しく背負ってきたその言葉を、こんなにも柔らかく響かせられるのは、きっとシオンだけだった。
「さぁ……はやく……」
唇が、そこで、もう動かなくなった。目だけが、まだ、私を見ていた。
「行き、な……さ……」
最後の音は、声にすらならなかった。ただ、唇のかたちだけが、そう動いた。
その瞬間を最後に、シオンの瞳から光が消えた。差しのべていた手が、ゆっくりと力なく床へ落ちる。呼びかけても、揺すっても、二度と応えは返らなかった。頬に触れても、いつもの温かさはもう感じられない。ついさっきまで、たしかにそこにあった何かが、音もなく消え失せていた。
*
どれくらい、そうしていたのかわからない。
炎が、すぐそばまで迫っていた。熱が頬を炙る。それでも私は、瓦礫にすがりついたまま動けなかった。指の下に、まだシオンの手のひらがある。冷えていくその感触だけを、確かめ続けていた。
——さぁ……はやく……行き、な……さ……。
声にならなかった続きを、私は、耳の奥で、何度も勝手に補っていた。行けるはずがない。ここに、シオンを置いていくなんて。それでは、私だけが、また、庇われて生き残ることになる。いつも、そうだった。庇われるたび、素直に受け取れなかった自分が、今度ばかりは、それを受け取らずにいられない。
けれど、崩れ落ちる天井の破片が、すぐ横に落ちてきたとき。体は、頭よりも先に動いた。長年、忍びとして叩きこまれた、生きるための反射。私は、瓦礫から引き剥がされるように、その場を離れていた。
自分の意志ではなかった。ただ、体が、生きようとしていた。
*
燃え崩れる城を、私はひとりで抜け出した。
外に広がっていたのは、もはや見知った世界ではなかった。空は至るところで裂け、地平は歪み、鋼の塔がそびえ立っている。遠くの山がぐにゃりと形を変え、あるはずのない場所に浮かんでいた。城の惨状は、この一角だけの出来事ではない。同じ崩壊が見渡す限り、どこまでも続いていた。悲鳴と炎が、地平の果てまで絶え間なく続いている。
——里へ、戻らなければ。
そう思う足が、途中で止まった。
里を捨てて、と。シオンの最後の言葉が、耳の奥に残っている。それに、この惨状を見れば、里が無事だという保証は、どこにもなかった。あの霧深い山あいも、いまごろ、同じように引き裂かれているのかもしれない。黒鵺も、共に育った同期たちも、あの隠し場所の窪地さえも、もう、元のままではないのかもしれない。
戻ったところで、待っているのは、確かめようのない喪失だけかもしれなかった。それなら、せめて、最後に託された言葉のとおりに。
私は、来た道を、振り返らなかった。
崩れた城壁の外れに立ち尽くし、煤にまみれた自分の頬に、そっと手を触れる。さっき、シオンに突き飛ばされたときの、あの手の感触が、まだそこに残っている気がした。
——普通の女の子として、生きていいの。
その言葉だけを、たったひとつの荷物として。私は、頬に触れた手を、しばらく、そこから離せずにいた。背後で、燃える城が、音を立てて崩れていく。




