N3_日々
任務から戻った朝は、決まって二人で炊事場に立った。
竈にくべた薪が、ぱちりと爆ぜる。大鍋に粥を仕込みながら、シオンが、味見の匙を口に運ぶ。湯気に前髪が湿って、額に貼りついていた。
「……ちょっと薄い。今日、ネオンの担当だったっけ」
「悪かったね、味付け下手で」
「下手とは言ってない。薄いって言った」
「同じでしょ、それ」
軽口を交わしながら、塩をひとつまみ足す。里の共同炊事場には、他の家族も何組か立ち働いていて、湯気と話し声が入り混じっていた。誰かの子が泣きだし、あやす声が聞こえる。忍びの朝は静かなものだと思われがちだが、こういう時間は、案外にぎやかだった。
「シオンは、何にでも甘いもの入れすぎ」
「甘いは正義」
言い切るシオンに、私は思わず噴き出した。里随一と呼ばれる腕を持ちながら、味の好みだけは、いつまでも子どもっぽい。仕上げに、シオンがこっそり蜂蜜を垂らそうとするのを、私は匙で手を叩いて止めた。「粥に蜂蜜はやめて」「まろやかになるのに」「ならない」。そんなやり取りをしながら、二人分の椀に粥をよそう。
*
昼、任務の合間、必需品の買い出しに、二人そろって里の外の小さな町へ出た。
祭りが近いのか、通りには晴れ着の反物を並べた店が軒を連ねている。色とりどりの布地。装飾用の櫛や簪を並べた小間物屋。焼き団子の匂いが、風に乗って漂ってくる。年頃の娘たちが、はしゃぎながら品定めをしていた。誰かが誰かの袖を引いて、笑い声があがる。
町の人々は、私たちの顔をよく知っている。魚屋の親父が「今日も別嬪さんが二人揃って」と冷やかし、油を量る店主が「いつもの量でいいか」と、聞くまでもなさそうに手を動かす。通りがかりの子どもが、シオンの袖をつかんで駄菓子をねだり、シオンは苦笑いしながら、懐から小銭をひとつ渡してやった。忍びとは無縁の、ありふれた町の空気の中を、私たちは連れ立って歩いた。
反物の店先を通りかかったとき、私はつい、足を止めてしまった。
淡い桃色に、白い小花を散らした一反。店主が客の相手をする合間、風に揺れて、その色柄がひらりと翻る。手に取ったわけでもないのに、目が離せなかった。近くでは、同じ年頃らしい娘が、店主に反物を体へ当ててもらい、連れの友人に「似合う?」と、はにかみながら尋ねていた。友人が、大きくうなずく。それだけのやり取りに、なぜか胸の奥が、きゅっと締めつけられた。
「……見てたね、いま」
シオンの声に、はっと我に返る。
「べつに。ただ、目に入っただけ」
「ふうん」
シオンは、それ以上追及してこなかった。にやにやと笑いながら、隣を歩いていく。誤魔化せたのか、見逃してくれたのか、わからないまま、私は歩調を合わせた。
*
——普通の女の子に、なれたら。
胸の内で、そっと願いが疼く。あの反物を纏って、髪を結い、誰かに「似合う?」と尋ねながら、はしゃいで祭りを歩く。そんな自分を、一瞬だけ思い描いてみる。
けれど、すぐに、自分でその願いを畳んでしまう。忍びとして育ち、忍びとしてしか生きる術を知らない。里の外へ出ても、身についた足運びも、研ぎ澄まされた気配の消し方も、抜けはしない。とっさに気配を殺そうとする癖も、隙をうかがう目つきも、きっと一生ついて回る。この体つきも、この生業も、あの晴れやかさとは、はなから縁がない。
——どうせ、私には、無理だ。
そう思うたび、胸の奥が、少しだけ重くなる。願いを見ないふりですませるのは、もう、慣れたはずだった。それでも、ふとした拍子に、こうして疼く。何度畳んでも、消えてはくれない。
隣を歩くシオンには、この気持ちを話せない。里随一と嘱望される姉には、拓かれた道がある。頭領からの覚えもめでたく、いずれは重い役目を任されるだろうと、誰もが口を揃える。もし私が「里を出たい」などと言えば、優しいシオンのことだ、迷わずその道を捨てて、私に付き合おうとするだろう。——そんなことは、させられない。私のために、シオンの未来を、棒に振らせるわけにはいかない。それだけは、私にとって、譲れない一線だった。
だから私は、いつも通りの顔で、話をはぐらかす。
「なんでもない。それより、今日は何を買うんだっけ」
「油と、繕い糸。あと、干し魚も買わなきゃ」
シオンが、あっさり話を変えてくれる。それが助かるのか、それとも寂しいのか、自分でもよくわからなかった。
油屋で油を量ってもらい、小間物屋で繕い糸を選ぶ。最後に、干し魚屋の店先で、二人分の焼き団子を買った。串を片手に、通りの端に腰かけて頬張る。甘辛いたれが、指先にべたついた。
「……ん、うまい」
「でしょ。ここの団子、里の外に来たら必ず寄る」
シオンが、団子の欠片を、ひょいと私の口元へ差し出してくる。「ほら」。子ども扱いされているようで少し癪だったが、断る理由もなく、私はそれを黙って口に運んだ。何気ない、いつもの調子で流れていくやり取り。こういう時間があるから、里の外へ出るのも、悪くないと思える。
*
帰り道、髪飾りを扱う小さな露店の前を通った。
木彫りの簪。染め物の紐。安価な品ばかりが並ぶ、小さな台。夕暮れの光を受けて、木肌がほんのりと橙色に染まっている。その中に、控えめな細工を施した櫛が一本、置かれていた。
シオンの足が、ほんの半瞬、鈍った。視線が、その櫛に触れる。
——けれど、それも一瞬のことだった。
「ねえ、ああいうの、ネオン好きなんじゃないの?」
シオンが、こちらを振り返って、いたずらっぽく笑う。
「……別に、好きとかじゃ」
「顔、赤いよ」
「赤くない」
「赤い赤い」
からかわれるまま、私は口をとがらせて、先に歩き出した。シオンが、笑いながら追いついてくる。いつもの、他愛のないやり取り。私は、気にも留めなかった。ただの一瞬として、通り過ぎていった。
*
里へ戻ると、いつもの夕餉だった。
買ってきた干し魚を炙る。皮がぱりっと焼ける匂いが、部屋いっぱいに広がった。朝の粥の残りに、今日買った繕い糸で繕ったばかりの布巾。ささやかな食卓だったが、二人で囲めば、それで十分だった。今日の町での出来事を、他愛もなく語り合いながら箸を進める。「魚屋の親父、また同じことを言ってた」「あの子ども、シオンにばっかり懐くよね」「そりゃ、あたしのほうが優しいから」「それは違うと思う」。
食後、庭先で二人並んでの型稽古をした。夕暮れの薄闇の中、木刀を構え、互いの間合いを計る。私が踏みこめば、シオンがすっと半歩下がってかわす。シオンが仕掛ければ、私は体を開いてやり過ごす。息の合った、気負いのない時間。言葉を交わさなくても、動きだけで、次の一手が伝わってくる。木刀が空を切る音、踏みこむ足が土を鳴らす音。それだけが、静かな庭に響いた。何度も打ち合い、何度も外し合ううちに、汗ばんだ額に、夜風が心地よかった。
一通り終えて、二人並んで縁側に座りこむ。息を整えながら、シオンが、ふと空を見上げた。「今日は星が多いね」。私も釣られて見上げる。答えなくても、それで会話は成り立っていた。木刀を膝に立てかけたまま、しばらく、どちらも口を開かなかった。虫の音が、庭の隅から絶え間なく聞こえてくる。こういう時間の積み重ねが、私とシオンを繋いでいるのだと、あらためて思う。
*
夜、稽古場の片づけをシオンに任せて、私はひとり、杉林の奥の窪地へ足を向けた。木刀を打ち合った汗が、まだ肌に張りついている。
隠し場所を探り、押し花の包みを取り出す。淡い紫の花びらが、今日もそこにあった。かさりと乾いた音を立てる、そのそばに、いつのまにか、真新しい一枚が加わっている。シオンが、まだ知らせていなかった分だろう。
誰もいない静けさの中、昼間に見た反物の色を、ほんの少しだけ、思い出してみる。あの色を纏った自分を、もう一度だけ、胸の中に広げてみる。祭りの晩、誰かに「似合う」と言われて笑う自分。想像だけなら、いくらでも自由だった。
——でも。
すぐに、それを畳んだ。指先で紙包みをそっと閉じ、いつもの場所へ戻す。石を積みなおし、痕跡を残さない。忍びの手癖が、こんなときにも、しっかりと働いてしまう。
願いは、今日も、誰にも渡さないまま、胸の底に沈めておく。私は、乱れた稽古着の紐を、あらためて、きゅっと締め直した。何事もなかったかのように。窪地を出るとき、風が、杉の梢をさわさわと揺らしていった。




