N1_霧隠
朝の霧隠は、霧の底に沈んでいる。
山あいの盆地に張りついた里。杉の木立の隙間から、いつも白い霧がゆっくりと流れ落ちてくる。石を組んだ低い塀。板葺きの家々。木々のあいだに張られた縄と、歯車仕掛けの古びた見張り櫓が、きしむ音を立てて、ゆっくりと首を巡らせる。人の声より、木々の葉擦れと、遠くの滝の音のほうが大きい。物音を殺すことに慣れた里は、朝でさえ静かだった。
修練場は、里のはずれの杉林にある。地面には、無数の足跡が幾重にも刻まれていた。丸太を組んだ跳躍台。的の並ぶ土壁。木々のあいだに張られた縄が、朝の湿気を吸って、鈍く光っている。
「——ネオン、足の運びが遅い」
低い声が飛ぶ。私は跳んだ姿勢のまま、着地でよろけた。踏みしめた土が、ぼふ、と小さく音を立てる。隣で同じ動きをしていたシオンは、音も立てず影のように地に降り立っていた。手裏剣を三本、続けざまに的へ打ちこむ。狙いはすべて寸分たがわず中心を捉えていた。目を離した、ほんの一瞬。次に見たとき、シオンはもう的の裏側に立っていた。動いた気配も、足音も、何ひとつ感じ取れないまま。
同じ日に生まれた、双子。まだ十にも満たない、幼い体つき。顔立ちは鏡合わせのようによく似ている。なのに、動きはまるで違う。隠形の稽古では、木立の陰にひそんで気配を絶つ。私は藪に身を寄せたところで喉の奥がむずがゆくなり、こらえきれずに小さくくしゃみをしてしまった。近くにいた兄弟子が、噴き出すように笑う。頬が、かっと熱くなった。シオンが隠れると、同じ兄弟子たちが何度も見落として通り過ぎていった。まるで、そこにいないみたいに。稽古の終わりに姿を現したシオンを見て、私は悔しさと同時に素直な誇らしさも覚えた。——すごいな、シオンは。これは正真正銘、本心だった。
手裏剣の的当て。隠形の練習。木立の中を音もなく駆け抜ける、抜き足の稽古。何をやらせても、シオンが先だった。私は、いつもその半歩うしろ。悔しいとは思う。けれど、悔しさよりも先に、諦めに似た感情のほうが、いつも早く胸を占めてしまう。
*
昼前、頭領の黒鵺が、修練場を見回りに来た。
がっしりとした体つきの、しわの深い男だった。里の誰もが恐れる立場のはずなのに、その目はいつも穏やかで、子どもらの頭を気安く撫でていく。転んで泣きだした幼子には稽古の手を止めて、懐から干し柿をひとつ取り出してやる。厳しい掟を背負ってなお人の情を忘れない頭領だと、大人たちがよく話していた。私も、それは本当だと思う。黒鵺が誰かを見捨てるところなど見たことがない。
「シオン。今日の隠形、見事だった。里随一になるぞ、お前は」
黒鵺の声には、素直な喜びがあった。シオンは、小さく頭を下げる。表情は変えないが、耳の先が、ほんのりと赤い。
黒鵺の目が、こちらへ向いた。
「ネオン」
「……はい」
「まだ、足の運びが硬い。だが、半年前よりは、よほど良くなった。慌てるな。お前はお前の速さで、伸びていけばいい」
それは悪い言葉ではなかった。むしろ、ちゃんと見てくれている言葉だった。あとになって思えば、そうわかる。けれどそのときの私には、シオンへの称賛と自分への言葉の重さの違いだけが、やけにくっきりと聞こえてしまった。
——結局、いまはまだ、なんにも、なれていない。
黒鵺は、それ以上何も言わず、鼻歌でもうたいだしそうな上機嫌な足取りで、次の組へと歩いていった。
同期の子らが、道具を片づけながら口々にシオンを褒めそやす。「シオンはすごいなあ」「うちの姉さんより、よっぽど筋がいい」。誰も悪気があって言っているわけではない。ただ、素直な感嘆だった。
「ネオンも、シオンの妹なんだから、いずれは」
そう続けられた言葉は、褒め言葉のはずだった。けれど私の耳には、姉と並べられて足りない自分を、そのまま映す鏡のようにしか響かなかった。愛想笑いを返しながら、私は道具箱の紐を、必要以上に固く結んだ。
*
修練が終わったあと、二人だけで杉林の奥へ入る。倒木を跨ぎ、苔むした岩を回りこんだ先の、小さな窪地。ここへ来る道は忍びの足でなければ辿れない。里の誰も来ない、私たちだけの場所だった。
シオンが懐から、そっと何かを取り出す。古い経本のあいだに挟んでおいた、薄い紙包み。それをそっと開くと、押し花が現れた。淡い紫の野花を何日もかけて乾かし、押しつぶして作ったものだ。
「見て、ネオン。うまくできたでしょう」
色は少し褪せていたけれど、花びらの形は、きれいに残っていた。指先で触れると、乾いた花弁が、かさりと小さく鳴る。
「……きれい」
私は思わずそう漏らした。里では、こんなもの誰も褒めない。忍びに花を愛でる暇などない、と。だからシオンは、これを誰にも見せない。私にしか見せない。
窪地の隅には、小さな石を積んだ隠し場所がある。そこに、いくつもの宝物がしまってあった。花びらを写した押し花。行商が置いていった色鮮やかな端切れ。誰かが古道具屋で見つけてきた、姫と騎士の絵物語。始まりは、まだ幼いころ、シオンが道端で拾った一輪の花を、こっそり私にだけ見せてくれたことだった。それから宝物は少しずつ増えていった。里の誰も知らない、姉妹だけの柔らかな時間が、そこには積み重なっていた。
「今度は、赤いのを探そうか」
シオンが、私の顔をのぞきこんで笑う。私も、つられて笑った。こういう時間だけは、優劣も、里の評価も、なんの意味も持たない。ただの、ふたりの女の子でいられる、束の間だった。
シオンが、隠し場所から、あの絵物語を取り出す。表紙の姫は、綺麗なドレスを着て、剣を持つ騎士に手を引かれていた。二人並んで、頁をめくる。絵の色使いや、姫のドレスの細かな刺繍の描写に、いちいち声をあげて見入った。忍びの娘には縁のない、遠い夢物語。けれど、そのあいだだけは、里の掟も評価も、どこか遠くへ追いやることができた。
*
けれど、その柔らかさは、長くは続かなかった。
「今日の隠形、私も最初はよく失敗したよ。すぐ上手になるものじゃないから」
帰り道、シオンがふと、そう言った。慰めるつもりの、優しい嘘だとわかる。シオンが、稽古で失敗したところなど、一度も見たことがない。
わかっているのに、口が勝手に動いた。
「……そんなの、いらない」
シオンが、足を止める。
「お姉ちゃんに、同情されたいわけじゃない」
言った瞬間、しまった、と思った。シオンの顔が、ほんの一瞬、傷ついたようにこわばる。それを見て、私の胸のほうが、ずっと痛くなった。
——なんで、あんなことを言ったんだろう。
優しくされるのが、嫌なわけじゃない。ただ、優しくされるたびに、自分とシオンの差を、思い知らされる気がしてしまう。それが、怖い。怖いから、先に、自分で突き放してしまう。分かっているのに、繰り返してしまう。まるで、自分で自分に、小さな棘を植えつけているみたいに。
シオンは、怒らなかった。ただ困ったように、少し眉を下げて笑うと、私の頭に、そっと手をのせた。その手のひらの温かさが、余計に、胸を締めつける。シオンは、いつもこうだった。突き放されても、言い返してこない。それが、優しさだとわかっているのに、私にはときどき、その優しさこそが、いちばん重かった。
「……ごめんね。余計なこと、言った」
謝る必要なんて、どこにもないのに。謝られると、よけいに、自分の言葉が意地悪だったことが、はっきりしてしまう。
「……別に。シオンが謝ることじゃ、ない」
それだけ言うのが、精一杯だった。
*
夜、二人の部屋。行灯の灯りが、壁に淡い影を落としている。
シオンは、あの押し花を、そっと枕の下にしまいこんだ。それから、こちらを見て、小さく笑う。
「明日も、内緒だよ」
「……うん」
私はうなずいた。布団に横になりながら、頭の中で、今日のことを思い返す。稽古のこと。黒鵺の言葉のこと。そして、自分がシオンに向けた、あの意地悪な一言のこと。ぜんぶ、ぐるぐると巡って、寝つけそうにない。
——ごめんね、って。ちゃんと言えばよかった。
隣の布団のほうへ、そっと顔を向ける。行灯の薄明かりの中、シオンはもう、静かに目を閉じていた。この言葉を、いま言えば、届くだろうか。喉まで出かかって、けれど、結局、声にはならなかった。今度も、また、言えなかった。
——お姉ちゃんは、いつもこう。あんなに優しいのに。私は、どうして、それを素直に受け取れないんだろう。
窓の外では、杉の梢のあいだを、霧がゆっくりと流れていた。里全体が、白く沈んでいく夜。行灯の灯りが、風もないのに、ふ、と揺れる。
やがて、隣の布団から、シオンの静かな寝息が聞こえてきた。少し遅れて、私の呼吸も、それに重なっていく。
霧の底の里で、二つの寝息だけが、いつまでも静かに、寄り添っていた。




