M5_闇の底
街が、裁かれていた。
顔のない影が天から降りてこのかた、人々にできるのは、逃げ惑うことだけだった。影が腕を振るう。すると天から、まばゆい雷が落ちる。罪ある者を狙いあやまたず、撃ち据えるように。悲鳴も、命乞いも、その大きなものには届かない。何ひとつ聞いてはいなかった。ただ淡々と、ものを量るように、街の罪を裁いていく。
ミューは子らをかき抱いて走った。
すぐ横で、逃げ遅れた男が影に指さされた。悲鳴をあげる間もなかった。天から一条の雷が、まっすぐ男へ落ちる。白い閃光。目を灼く光が消えたときには、男は、その場に崩れ伏していた。ぴくりとも動かない。ミューは、とっさに子らの目を手でふさいだ。見せてはいけない。あんなものを、この子らに。
賑わっていた市場は、もう見る影もなかった。転がる果実を踏み、逃げまどう人波にもまれながら、ミューは子らを抱えて必死に駆けた。人の流れに乗って、少しでも遠くへ。けれど、市場を抜けた先に待っていたのは、広くひらけた場所だった。石畳を敷きつめた、大きな広場。身を隠せる物陰など、どこにもない。頭上には、あの裂けた空が、遮るものもなく広がっていた。
「はっ……はっ……だいじょうぶ。だいじょうぶだからね」
言い聞かせる声のほうが、よほど震えていた。チイがしゃくりあげ、いちばん小さい子は声も出せずに固まっている。ノブだけが青ざめた顔で、それでも気丈に弟妹をかばおうとしていた。ミューは、その全員を自分の体の内へ抱きこむ。
逃げ場をさがして、ミューは目を走らせた。——どこにも、なかった。ひらけた広場の、ただなか。天からは、何もかもが、まる見えだった。
そのとき。頭上が、ふっと翳った。
*
見上げる。
それは、もう、すぐそこに在った。
塔のように高い。顔も、声も、何ひとつ見さだめられない。ただそこに在るというだけで、逆らうことなど許されない、絶対のなにか。片手に提げた天秤が、ゆらりと揺れていた。その皿のひとつが、ミューたちのほうへ、ゆっくりと沈みはじめている。
ミューは、とっさに子らを背へ庇った。広場のただなかで、両手をいっぱいに広げて。心臓が、痛いほど早鐘を打っている。背中に、子らのすすり泣きと、体の震えが伝わってきた。ちいさな手が、ミューの服の裾を、きつく握りしめている。——だいじょうぶ。あたしがいる。声にならない言葉を、ミューは、腹の底で繰り返した。
影のような腕が、もたげられる。そして、その指がさした。
——ミューを、ではなかった。
その足もとで身を寄せあう、ちいさな子らのほうを。罪の、根源として。
ミューの息が、止まった。
この大きなものには、見えているのだ。ミューが何のために盗んできたのか。誰のために手を汚してきたのか。だからいま、盗みの源そのものを、断とうとしている。この、子らを。
——ちがう。
胸の奥で、なにかが熱く燃えあがった。この子らが生きていることが、罪だとでもいうのか。そんなはずが、あるものか。腹の底から、ミューは、そう叫びだしたかった。
*
けれど、叫んだところで、この大きなものには届かない。それも、わかっていた。
だから、ミューは別の手を打つ。生き延びるために、いつもそうしてきたように。
広げた両手に力をこめ、子らを一歩うしろへ押しやった。それから、顔のない影を、まっすぐ睨みあげる。
「……この子たちは、なんにもしてないよ」
震える声を、奥歯を噛んで押しとどめた。
そうして——ミューは、笑ってみせた。いつもの、人を食ったような、腹黒い泥棒猫の顔で。
「盗んだのは、あたし。あたしが盗みたくて盗んでた、それだけのこと。こいつらとは、なーんの関係もないわ」
嘘だった。
口にした瞬間、胸が引きちぎれそうに痛んだ。関係ない、だなんて。この子らのためでなければ、あたしは、こんなに必死に生きてなどこなかった。鈴野で空っぽになった手を、もう一度満たしてくれたのは、この子らだ。それなのに、いま。守るために、その絆を、自分の口で否まなければならない。
——ごめん。心のなかだけで、詫びた。ほんとは、大好きなのに。
それから、ちらりとうしろを振り返る。いちばん年長のノブを見た。できるだけ早口で、小さく。
「ノブ。強く生きるの。諦めちゃ、だめだよ。チイと、みんなを、頼んだからね」
ノブの目が見ひらかれた。「ミュー……なにを」と、唇がわななく。ミューは、それ以上言わせなかった。にっ、と笑ってみせる。だいじょうぶ、とでもいうように。
そうして、ふたたび影へ向きなおった。
「ぜんぶ、あたしが勝手にやったこと。——だから」
だから。この子らには、指一本、触れさせない。
顔のない影は、しばし動かなかった。ミューの言葉を、量っているようだった。——やがて。子らへ向けられていた影の指が、ゆっくりと、ミューひとりのほうへ向きを変える。子らの側へ傾いていた天秤の皿が、すうっと戻り、かわりに、ミューの側が重く沈みはじめた。
通じた。ミューは、ちいさく息を吐いた。
これでいい。崩れた街の、薄汚れた泥棒猫が一匹、消えるだけ。それで、この子らが助かるのなら——安いものだ。
*
天秤の皿が、ミューのほうへ、ぐっと沈みきった。
空の高みで、まばゆい光がふくれあがっていく。さっき男を撃ったものより、ずっと大きい。ずっと、強い。ミューひとりの罪を、量りきった証のように。
——来る。
もう、逃げなかった。逃げれば、これが子らへ向く。それだけは、させない。ミューは、その場に踏みとどまった。
そして、最後の力をふりしぼる。背中の子らを、両腕で、思いきりうしろへ突き飛ばした。少しでも遠くへ。この身から、離れた場所へ。
——あの日。鈴野が割れた朝。伸ばしても伸ばしても届かなかった、あの手。崩れる瓦礫の向こうへ消えていった、小さな手。
今度は。届いた。
子らが、もつれあってうしろへ転がる。その刹那。
天が、割れた。
まばゆい一条の雷が、まっすぐミューへ落ちる。世界が真っ白に灼けた。その凄まじい力は、地面をも打ち砕く。ミューの足もとに、底の見えない縦穴が、ぽっかりと口をあけた。
支えを失った小さな体が、ぐらりと傾ぐ。暗い底へ、吸いこまれるように。
落ちながら、ミューは、ふしぎとこわくなかった。あの日の冷たい風の記憶も、いまは遠い。腕の中は、からっぽだ。けれど、それでよかった。この手から、もう、誰もこぼれ落ちはしない。ぜんぶ、うしろの安全な場所へ、押しやりきったのだから。
薄れゆく視界の、いちばん最後に。ミューの目に映ったのは、泣きじゃくる子らの顔だった。チイ。いちばん小さい子。そして、縁から身を乗り出し、必死に手をのばす、ノブ。
その手を、ミューは取らなかった。取れば、ノブまで、いっしょに引きずりこんでしまう。それだけは、できない。
かわりに、ミューは——笑った。
奪われてばかりだった猫が。最後の最後に、いちばん大切なものを、その手で守りきった、満ち足りた顔で。
「……諦めないで。強く、生きて」
声が届いたかどうかは、わからない。
暗い穴の底へ。ミューの姿は、すうっとのまれて、消えた。
*
裁きが、終わった。
顔のない影は、何事もなかったように、天へ還っていく。街を満たしていた絶対の気配が、すうっと薄れた。あとには、しんとした静けさだけが残る。
広場に、子らだけが取り残された。
ノブは、縁から身を乗り出したまま、まだ手をのばしていた。ミューが消えた、暗い底へ向かって。けれど、そこは暗いばかりで、何も見えない。どれだけ呼んでも、あの声は、もう返ってこなかった。差しのべた手が、ゆっくりと、力なく垂れる。
チイが、わっと声をあげて泣きだした。
ノブは、唇をきつく噛んだ。それから足もとの小さな石を、ひとつ拾いあげる。そして、縦穴の縁へ、そっと置いた。
ひとつ。また、ひとつ。
何のためか、ノブ自身にも、わからなかったのかもしれない。ただ、このまま立ち去ることが、どうしても、できなかった。ミューが、たしかに、ここにいた。その証だけでも、この世に残しておきたかった。
チイも、泣きながら石を拾った。いちばん小さい子も、それをまねて、ちいさな手で石を運ぶ。
ひとつ、ひとつ。子らの手で、石が積まれていく。
やがて縦穴の縁に、いびつな、けれど精いっぱいの、ささやかな石積みができあがった。
名も知らぬ街の、ひらけた広場の片隅。ぽつんと遺された、たったひとつの墓標。
強欲で、情に厚くて、奪われてばかりで、それでも最後にすべてを守りきった——ひとりの泥棒猫が、この世に確かに在った、ただひとつのしるしだった。
ノブは、いちばん上の石を、そっと置いた。まだ、手が震えている。——強く、生きるの。諦めちゃ、だめ。耳の奥で、あの声が、まだ響いていた。その言葉の重さを、幼いノブに、ぜんぶは受け止めきれない。それでも、これだけは、わかった気がした。この石を積んだように。ミューが遺してくれたものを抱えて、生きていくしかないのだと。それが、あの人への、たったひとつの返事になるのだと。
灰色の風が、吹き抜けていく。
子らは、ただ寄り添って。いつまでも、その小さな石の山のそばを、離れられずにいた。




