M4_亀裂
しあわせな日々には、名前のつけようがない。
蛇の目の仕事は、相変わらず実入りが良かった。崩れ家の食卓には、白いパンと、ときどき肉。子らは頬がふっくらして、よく笑うようになった。チイは言葉が増え、舌足らずに「ミュー、ミュー」と呼んでまとわりつく。ノブは背が伸びて、いっちょ前に弟妹の面倒をみる。傾いだ天井の下は、いつも誰かの笑い声でいっぱいだった。
ミューは、その輪の真ん中で、そっと目を細める。鈴野を失って、灰区に流れ着いてから——もう、幾度も季節が巡った。空が裂けたあの日の冷たさも、いまでは、遠い昔のことのようだ。空っぽになったはずの手のひらが、いまはこんなにも満ちている。
——でも、ふとした拍子に、こわくなる。
これだけ抱えてしまったら。もし、また、ぜんぶ奪われたら。そのときあたしは、もう一度立ちあがれるだろうか。あの日の冷たい風を思い出すと、背筋がすうっと冷えた。幸福は重い。重いぶんだけ、失うのがこわい。
「……ばか。考えすぎ」
ミューは、自分の頬をぴしゃりと叩いた。いまは、ただこの笑い声を守ればいい。それだけだ。
*
その大仕事の話を、蛇の目が持ちこんだのは、よく晴れた昼下がりだった。
「こいつは、これまでとは桁がちがう」
丸い色眼鏡の男は、もじゃもじゃの頭をかきながら、にやにやと言った。狙いは、灰区を遠く離れた別の街。そこに眠る、相当な獲物。何日も家を空ける、遠出の仕事だという。
「あんたの腕なら、楽なもんさ。実入りは——そうさな、半年は遊んで暮らせる」
どこか胡散臭い匂いはした。この男の話には、いつも裏がある。それくらい、わかっている。——それに、ミューには、薄々察しがついていた。近ごろ、灰区での自分の名は、目立ちすぎている。「捕まらない泥棒猫」の噂は、もう蛇の目にとっても、厄介の種なのだろう。だから遠くの大仕事にかこつけて、しばらくこの街から遠ざけておきたい。この男の親切には、いつだって、そういう裏がある。
それでも。半年ぶんの、白いパン。子らの、何ヶ月もの腹を満たせる蓄え。——その重さの前では、勘の警鐘も、かすんで聞こえた。利用されるくらい、どうということはない。子らの腹が満ちるなら、それでいい。
「……わかった。やる」
ミューは、うなずいた。
*
問題は、子らだった。
何日も、子らだけを灰区に残していく。——それを思っただけで、ミューの胸はざわついた。守る者のいない崩れ家など、灰区ではただの餌だ。食い物を奪われ、寝床を追われ、悪い大人に攫われる。下手をすれば、帰ってきたとき、誰もいないかもしれない。
あの、落ちくぼんだ目に。もう二度と戻したくない。
その晩、ミューは眠る子らの寝顔を、長いこと見ていた。寝返りを打つチイ。弟妹を抱えこむように丸まったノブ。この温もりを、たった数日でも手放すのはできそうになかった。——なら、連れていけばいい。危ないのは承知のうえ。それでも、目の届かない場所で気を揉むより、そばに置いておくほうがずっといい。
迷いは、ひと晩で消えていた。
「——みんな、聞いて」
翌朝、ミューは子らを集めて、できるだけ明るく言った。
「あたし、ちょっと遠くまで、お出かけする。でね。せっかくだから、みんなも、いっしょに連れていってあげる。どう、うれしい?」
子らが、きょとんと顔を見あわせる。それから、わっと沸いた。チイが垂れた耳をぴんと立て、いちばん小さい子が飛び跳ねる。灰区から出たことなど一度もない子らだ。「旅」という響きだけで、目を輝かせていた。
ノブだけが、少し心配そうに、ミューを見上げた。「……だいじょうぶなの」。
「だいじょうぶ。あたしがいる」
ミューは、にっと笑ってみせた。危ない賭けだ。それくらい、自分がいちばんわかっている。でも、離れているより、ずっといい。この子らが、手の届くところにいてくれるなら。それだけで、ミューは、どんな遠出だってこわくなかった。
*
灰区を出る道を歩くのは、ミューにとっても、ひさしぶりだった。
崩れた街並みが、うしろへ遠ざかっていく。煤けた空気が薄れ、かわりに土と草の匂いが鼻をくすぐった。荒れた野がどこまでも広がり、灰区しか知らない子らの前に、見たこともない景色が開けていく。風が思いきり吹き渡る。頭上には、煙突の煤に濁らないほんとうの空の色があった。
「うわ、なにあれ!」「おっきい鳥だ!」「ねえ、あの山、知ってる?」
子らは、はしゃぎどおしだった。疲れたチイをミューが背に負い、ノブが先導役を気取って道を選ぶ。いちばん小さい子は、道ばたの石ころひとつ、名も知らぬ花ひとつに、いちいち歓声をあげた。崩れ家の暗がりでは、決して聞けなかった声だ。
ミューは、その背中のぬくもりとはしゃぐ声を聞きながら思った。
——連れてきて、よかった。
この子らにも、こんなふうに笑える場所が、世界にはちゃんとあったのだ。灰区の路地裏と、奪いあいの市場。それだけが世界のぜんぶじゃない。たとえ盗みで食いつなぐ暮らしでも、連れて歩けるかぎりは、見せてやりたい。きれいなものを、ひとつでも多く。腹いっぱいの飯と、安心して眠れる夜と、それから——こんな、どこまでも青い空を。
ふと、ミューは空を見上げた。
その、高みに。
——一筋の、線が、走っていた。
ひどく細い、まっすぐな裂け目。星のない昼の空を断ち切るように。その向こう側だけ、空の色が、わずかにちがって見える。
ミューの足が、ぴたりと止まった。
知っている。この線を、知っている。鈴野を、ひと朝で割った——あの、線だ。背筋を、冷たいものが這いのぼった。けれど、はしゃぐ子らの声に、その感覚はすぐにかき消された。気のせいだ。きっと、気のせい。ミューは、強いてそう思いこんだ。
*
たどり着いた街は、灰区とは、まるでちがっていた。
崩れてはいる。けれど、灰区ほどではない。建物の多くは形を保ち、屋根の下には、まだ人の暮らしの匂いがあった。通りには品を並べた店がいくつも開き、行きかう人々の顔に、灰区のような飢えの影は薄い。子どもが親に手を引かれて笑っている。それだけのことが、ミューにはひどく眩しく見えた。暮らし向きは、あきらかにこちらのほうが上だった。
市場には、見たこともない果実や焼き菓子が、惜しげもなく積まれていた。甘い匂いが、通りいっぱいに漂っている。
「ミュー、あれ、なに?」
チイが、色とりどりの飴の山を指さして、目を丸くした。垂れた耳が、ぴくぴくと動いている。ミューは、その頭を撫でた。「あとで、買ってあげる。仕事が終わったらね」。約束だ、と胸の内でつけ足す。今日くらいは、盗んだのじゃない、ちゃんと銭を払った飴を、この子らに握らせてやりたかった。
仕事は——あっけないほど、滞りなく済んだ。
人混みのなかで、ぱちん、と指を鳴らす。揺らめく幻がいくつも駆けだし、見張りの目を散らす。そのあいだに、本物のミューが、するりと獲物を抜く。鮮やかなものだった。誰一人、気づきもしない。子らを物陰で待たせて、ほんの、またたく間の出来事だった。
懐は、ずっしりと重くなった。半年ぶんの、暮らし。これで、しばらくは安泰だ。約束どおり、子らに飴を買って帰ろう。——ミューは、軽い足取りで、子らのもとへ駆け戻った。
そのときだった。
街の空の、あの線が。
ぐわり、と、音もなく押し開かれた。
細い裂け目が、大きく口をあける。鈴野のときのように、別の世界が雪崩れ込んでくるのではなかった。今度のそれは、もっと静かで、もっと巨大だった。裂け目の奥から、ゆっくりと降りてくるものがある。光が強すぎて、輪郭しか見えない。けれど、ただ天から在るというだけで、街じゅうの音が、すうっと吸いとられていった。鳥の声も、風も、人のざわめきも。世界が、息を止めたみたいに。
それは、何かを手にしていた。片方の手に、長い剣。もう片方に、ゆらりと揺れる天秤のようなもの。
——裁きが、来た。
理屈ではなかった。肌が、骨が、そう告げていた。逃げろ、と。あの夜、鈴野の空を見上げたときと、同じ警鐘。けれど、今度は、それよりも、ずっと深く、ずっと冷たい。
市場のざわめきが、悲鳴に変わる。積まれた果実が転がり、人々がいっせいに逃げ惑いはじめた。甘い匂いのなかを、恐怖が波のように走り抜ける。
「……っ、なに、あれ」
ミューは、とっさに、子らを抱き寄せた。チイを、ノブを、小さいのを、その腕いっぱいにかき集めて。背中に、子らの心臓の音が、とくとくと伝わってくる。守らなきゃ。考えるより先に、体がそう動いていた。
けれど、どこへ逃げればいい。
ついさっきまで、飴の山に目を輝かせていた、この明るい街が。——名も知らぬ、この街が。自分の死地になるとも、知らずに。ミューは、ただ、腕の中の温もりを、強く強く、抱きしめた。




