M3_家
崩れ家の朝は、すっかり騒がしくなった。
数ヶ月のあいだに、ミューの「家族」は増えていた。チイとノブのほかにも、行き場をなくした子が、いつのまにか二人、三人。誰に頼まれたわけでもない。ただ、路地の隅でうずくまる小さいのを見つけるたび、ミューの足は勝手に止まってしまう。気づけば傾いだ天井の下は、寝床の取りあいでいっぱいになっていた。
「ほら、順番。ちびから先」
ぼろ布の上に、その日の食い物を並べてやる。硬いパンの欠片、ひびの入った干し果。いちばん小さい子に大きいのを。次に小さい子へ、その次を。ノブはいつも最後でいいと言い張るし、ミュー自身の取り分は、とうにあってないようなものだった。
子らは痩せた手で受け取った欠片を、いとおしむように齧る。あっという間に食べ終えて、それでもまだ足りない目で、ぼろ布の上を見まわす。何も残っていない。いちばん小さい子が、ミューの空っぽの手のひらをじっと見上げた。
「……ん、あたしはいいの。さっき、つまみ食いしたから」
嘘だった。けれどミューは、こともなげに笑ってみせる。子の頭をくしゃりと撫でてやって。
腹は、いつも鳴っている。なのに、不思議と惨めではなかった。膝のまわりで小さな口がもぐもぐ動くのを見ているだけで、空きっ腹のことなど、どうでもよくなる。鈴野を失ってからの長い空白が、この子らの体温で、少しずつ埋まっていく。それは盗んだどんな宝より、ミューには値打ちがあった。
——でも。
そのもぐもぐが、足りていない。
それも、ミューにはわかっていた。子が一人増えるたび、要る糧も増える。市の隅で財布を抜く、その程度のこそ泥稼ぎでは、もう追いつかなくなっていた。育ち盛りの腹は底なしだ。今日かき集めた干し果も、明日にはもう、ない。あさってのことは、考えるのもこわかった。
「……もっと、稼がなきゃ」
ミューは、自分の細い指をじっと見つめた。果実を抜き、財布を抜いてきた、この指で。どこまで、この子らを食わせていけるだろう。
*
その日、ミューは灰区いちばんの市で、大きな仕事を打った。
狙いは、武装した隊商が運ぶ食料袋。塩漬けの肉や、豆や、粉。子らが何日も食いつなげる量だ。けれど、護衛が幾人もついている。こそ泥の指では、とても届かない獲物だった。
だから、別の手を使う。
ミューは雑踏のなかで、ぱちん、と指を鳴らした。
——揺らぐ。
ミューの姿が、空気のなかでぶれて、ひとり、ふたり、と分かれていく。そっくり同じ黒いフリルの猫娘が、四人。それぞれ違う方向へ、ぱっと駆けだした。
「おい、泥棒だ——!」「待て、そっちだ!」「いや、あっちにもいるぞ!」
護衛たちの目が、いっせいに散る。四つの影を追って、右へ左へ走りまわる。どれが本物か、見分けがつかない。幻はどれも涼しい顔で角を曲がり、ふっと霧みたいに消えていく。
そのあいだに——本物のミューは、もう、荷の真横にいた。
「すみませーん、そこの荷、落ちかけてますよ」
通りすがりのふりで、残った見張りにひと声。男が荷台を振り返った、その一瞬。ミューの手が、音もなく食料袋を抜き取った。重さを感じさせない身のこなしで、ひょいと肩に担ぎ、人混みに溶ける。
騒ぎが収まったころには、猫娘の姿も、袋も、どこにもなかった。鮮やかなものだった。誰一人、ミューの顔すら、覚えていない。
*
「いい腕だ」
仕事を終えて裏路地へ抜けたミューの前に、男が一人、音もなく立っていた。
胡散臭い人間の男だった。もじゃもじゃに伸びた髪。丸い色眼鏡が、両目を覆い隠している。何を考えているのか、まるで読めない。にやにやと、口元だけで笑っていた。
「あんたの幻、護衛十人ぶんを、まんまと手玉に取ってたよ。たいしたもんだ」
「……誰」
ミューは、すっと身構えた。袋を抱えなおし、いつでも逃げられる体勢を取る。
「蛇の目、と呼ばれてる。この灰区の、裏のことなら、たいてい仕切ってる男さ」
蛇の目。その丸い眼鏡の奥が、どんな目をしているのか、ミューには見えなかった。けれど、ただ者でないことだけは、肌でわかった。盗みの勘が、ちりちりと、警鐘を鳴らしている。
「ずっと見てたんだ、あんたの仕事。——こそ泥で終わらせるにゃ、惜しい腕だと思ってね」
蛇の目は、もじゃもじゃの頭をかきながら、すり寄るように言った。
「どうだい。おれの下で、ひとつ大きいのを打たないか。隊商の財宝、役人の蔵。あんたの幻があれば、楽なもんだ。見返りは——いまのこそ泥の、桁ちがいさ。腹を空かせたガキどもに、毎日、白いパンを食わせてやれる」
*
ミューは、すぐには答えなかった。
うまい話には裏がある。それくらい、灰区で生き抜いた猫にはわかる。蛇の目の儲け仕事に深入りすれば、いつか抜けられなくなる。足がつく。狙う獲物が大きくなれば、追ってくる手も大きくなる。——やめておけ、と。勘が、はっきりそう告げていた。
「……気が向いたらね」
そう、はぐらかして、ミューはその場を立ち去った。
崩れ家へ帰ると、子らが腹を空かせて待っていた。担いできた食料袋を見て、わっと歓声があがる。チイが垂れた耳をぴんと立て、いちばん小さい子が足にしがみつく。ノブが、めずらしく、ほっとした顔をした。
その晩は、ひさしぶりに、みんなが腹いっぱい食べた。
けれど、袋の中身は、いつかは尽きる。また明日、明後日と、この笑顔を守りつづけられるだろうか。
ミューは、眠る子らの寝顔を、じっと見つめた。寝乱れた毛布をかけ直してやりながら。チイの細い手首。ノブの、眠っていてさえ弟妹をかばうように丸めた背中。この子らを、もう二度と、あの落ちくぼんだ目に戻したくない。飢えて、こちらを見上げる、あの目に。
胸の奥で、勘が、まだ小さく鳴っていた。やめておけ、と。深入りすれば、いつか手痛いしっぺ返しが来る、と。——わかっている。わかっているけど。
守るための牙。あの夜、半年ぶりに取り戻した、その理由が、いま、ひとつ先へ進もうとしていた。生きるための牙から、守るための牙へ。そして今度は——奪われないために、もっと奪う牙へ。
危なくても。足がついても。この子らのためなら。
ミューは、立ちあがった。迷いを振り切るように、尻尾の先を、ぴんと立てて。
*
翌朝、ミューは蛇の目のもとを、自分から訪ねた。
「取引、乗る」
丸い眼鏡の男は、にやりと口の端を上げた。「そうこなくっちゃ」。
「ただし」
ミューは、ぴしゃりと釘を刺した。爪の先を、男の鼻先へ突きつけて。
「あたしのやり方で、やる。汚れ仕事や、人を傷つける役は、お断り。あたしは盗むだけ。——それと、うちの子らには、指一本、触れさせない。約束できないなら、この話はなし」
蛇の目は、肩をすくめて、両手を上げた。「おお、こわ。いいとも、いいとも」。
——けれど。丸い眼鏡の奥で、その目がどんなふうに笑ったのか。約束を守る気が、ほんとうにあるのか。ミューには、とうとう見えなかった。読めない相手と手を組むのは、危ない。それくらい、わかっている。それでも、いまは、この胡散臭い手にすがるしかなかった。
その日から、ミューの仕事は変わった。隊商の財宝。役人の蔵。狙う獲物は、ひとまわりもふたまわりも大きくなった。そのたびにミューの幻は、より多く鮮やかに、追っ手を翻弄した。捕まりそうになったことは、一度もない。——一度も、なかった。それが、かえって彼女を大胆にさせていった。
*
蛇の目の仕事は、実入りが良かった。
崩れ家の食卓は、少しずつ豊かになった。白いパン。新しい毛布。子らの頬に、肉がついていく。傾いだ天井の下に、笑い声が増えた。ミューは、その輪の真ん中で得意げに鼻を鳴らす。——けれど、その横顔は、どこか張りつめてもいた。
大きく動けば、目立つ。それくらい、わかっていた。
灰区の市には、いつしか噂が立ちはじめていた。「灰区に、捕まらない泥棒猫がいる」「どんな護衛も、幻で手玉に取るらしい」と。はじめは、面白半分の噂話だった。獲物を横取りされた隊商が、悔しまぎれに語る、武勇伝の裏返し。
けれど、噂というのは、勝手に大きくなる。尾ひれがつき、伝わるうちに、ただの泥棒が、神出鬼没の怪物めいて語られていく。そして——その噂が、やがて面白半分では済まない、狩る側の耳にまで届くことを。
そのときのミューは、まだ知らなかった。盗みを重ねるたび、自分の影が、少しずつ、灰区の上に長く伸びていることを。その影を、上から、じっと見おろす目があることを。
豊かになった食卓で、ミューはいちばん良い肉のひと切れを、当然のようにチイの皿へ置いた。チイがうれしそうに笑う。その笑顔だけが、いまのミューの、すべてだった。




