M2_灰区
半年で、世界はすっかり様変わりしていた。
鈴野のあった場所には、もう猫の屋根も梨の山もない。ねじくれた鋼の塔の根もとに、崩れた異種族の家々が継ぎはぎに積み重なって、ひとつの薄汚れた街になっていた。誰が呼びはじめたのか、そこは灰区と呼ばれている。塔の煙突が吐く煤が、いつも空を低く曇らせていた。雨は降れば黒く濁り、地面はぬかるんで、どこを歩いても靴底が鉛のように重くなる。猫も犬も兎も、見たこともない遠い世界の獣人も、肩を寄せあって、灰みたいな顔で日々をやり過ごしていた。
ミューは、その街で、生き延びていた。
半年のあいだに見たものが、彼女の目つきを変えていた。配給に群がる手。横取りされて泣く子。奪い返そうとして、棒で頭を割られる男。誰も助けない。助ければ自分の取り分が減る、それだけの街だった。梨を野良の子に放ってやった、あの軽やかな泥棒猫はもういない。盗みはもう情ではなかった。生きるための牙だ。誰かに分けてやる余裕など、とうに落としてきた。
その日も、ミューは屋根のない街路を、影だけを選んで歩いていた。
配給所のまわりは、いつものように殺気立っている。乏しいパンの山に、瘦せた手が何十も伸びる。役人めいた男が棒を振りまわし、列が崩れ、誰かが転んで踏まれる。ミューはそんな喧騒に近づかない。混乱の縁を、するりと回り込む。怒鳴り声と押しあいに気を取られた役人の懐から、配給札を二枚、音もなく抜き取った。盗られたことにすら、男は気づかない。慣れたものだ。鈴野の市で梨を抜いていたあの指は、いまや、人の命綱を抜く指になっていた。生きるためなら、誰の懐へでも手は伸びる。後ろめたさは、半年前にどこかへ捨てた。
抜き取った札で、硬いパンを二つ、手に入れた。それを懐に押し込んで、ねぐらへ帰ろうとした、そのときだった。
裏路地の、崩れた壁の陰。
ちいさな影が、二つ、うずくまっていた。
*
雨をしのぐ廃材の下に、幼い難民が身を寄せあっていた。
ひとりは兎の獣人の女の子。垂れた耳が泥で汚れ、頬はこけて、落ちくぼんだ目をしている。まだほんの幼子だ。痩せた手首は小枝のように細く、あと幾日もつのか、ひと目でわかってしまうほどだった。もうひとりは、それより少し年上の犬の獣人の少年。同じくぼろを着て、骨ばった肩をしている。それでも、女の子を背にかばうように前へ立っていた。守るものを持つ者の、立ちかただった。
ミューが足を止めると、犬の少年はびくりと身をこわばらせた。さっと、落ちていた木の棒を拾い、こちらへ向ける。
「……来るな」
声は、震えていた。けれど目だけは、必死に睨んでいた。
「あっち行け。ぼくらは、なんも持ってない」
ミューはその棒の先を、冷めた目で眺めた。
(……他人の子なんか)
関わるつもりはなかった。半年前のミューなら、迷わず手を差しのべたかもしれない。けれど、いまは違う。自分が食べるだけで精一杯だ。情に流されて分けてやれば、その分、自分が飢える。それをこの半年で、いやというほど思い知った。
「邪魔」
そう吐き捨てて、ミューは背を向けた。さっさと路地を抜けて、ねぐらへ帰ればいい。あんな子ら、いくらでもいる。いちいち拾っていたら、身がもたない。
そう、思っていた。
*
なのに、足が、止まった。
数歩いったところで、ミューはちっと立ち止まった。振り向きたくなどない。なのに、首だけが、勝手にうしろを向く。
廃材の陰で、兎の女の子がこちらを見ていた。
ねだるでもなく、すがるでもなく。ただ落ちくぼんだ目で、じっと。その目に、覚えがあった。半年前、塀の影で梨を見ていた野良の子。あるいは——崩れる瓦礫の向こうへ、伸ばした手が届かなかった、あの兎の子。あの日、ほんの指一本ぶん届かずに、見えなくなった子。重なって、胸の奥がぎゅっと軋んだ。
奪われたものは、戻らない。それは、いやというほど知っている。けれど、いま、目の前のこの子は——まだ、間に合う。手を伸ばせば、まだ、届く距離にいる。それを見過ごして去るには、ミューは自分で思っていたほど薄情になりきれていなかった。
ミューは、空を仰いだ。灰色の、なんの慰めもない空を。
「……っ、もう」
懐に手を突っ込む。さっき盗ったばかりの、硬いパン。二つあった。その両方を引っぱり出して、二人の足元へ、ぽいと放った。自分の取り分は、結局、何も残らなかった。けれど、手は、勝手に動いていた。
「ほら。あたしは、もう一個盗ればいいだけだし」
半年前と、同じ台詞だった。
犬の少年が、警戒を解かないまま、二つのパンを拾いあげた。そして、その一つを、まず先に兎の子へ手渡す。自分が食べるより、先に。兎の子がおそるおそる受け取り、ちいさな歯で夢中で齧りつく。それを見届けてから、少年はようやく、残りの一つに口をつけた。守る者の順番が、その小さな手に、すっかり染みついていた。
その姿を見て、ミューは——今度は、背を向けて、去れなかった。
半年前は、礼を言われる前に角を曲がれた。なのに今日は、足が、根が生えたみたいに、動かない。齧りつく音を、ただ、聞いている。
*
「……あんたたち、親は」
ミューが訊くと、犬の少年——ノブと名乗った——は、口を引き結んだ。
「空が裂けた、あの日に。はぐれて、それきり」
短く、それだけ言った。兎の子のほうは、まだうまく喋れないらしい。ノブが「チイ」と呼ぶと、こくりとうなずく。それが、名前なのだとわかった。
二人とも、ミューと同じだった。あの日、空が裂けて、何もかもを奪われた。家も、親も、馴染んだ世界も。違うのは、この子らには、奪い返すための牙すらない、ということだ。
放っておけば、長くはもたない。
それくらい、ミューにはわかった。配給の列に、この子らが割り込めるはずもない。盗みもできない。ただ、寒さと飢えに、すり減っていくだけ。——半年前の自分なら、目をそらせただろうか。いや。どのみち、無理だった。奪われてばかりのこの半年で、すり減ったと思っていた何かが、まだ、ちゃんと胸の奥に残っていた。
それが、ぐっと、裏返る。
奪われるのは、もう、たくさんだ。
「……ついてきな」
ミューは、ぶっきらぼうに言った。二人に背を向けて、歩きだしながら。
「あたしのねぐら、隙間風はひどいけど。雨はしのげる。——食うもんは、あたしが、なんとかする」
ノブが、棒を握ったまま、目をみはった。チイが、ノブの袖を、きゅっと引く。
「……なんで」
ノブの問いに、ミューは振り向かなかった。
「さあね。気まぐれ」
ほんとうは、わかっていた。故郷も家も馴染みの顔も、ぜんぶ失って。それでも手の中に、最後にひとつだけ、誰かに渡したかったものが残っていた——あの感覚。あれを、もう一度味わいたいのかもしれない。口には、しなかったけれど。
ノブは、しばらくその場を動かなかった。それからチイの手を引き、用心深い距離を保ったまま、ミューの後ろをついてきた。棒は、まだ握ったままだった。
灰区の路地を、三つの影が縫っていく。崩れた壁を回り、瓦礫の山を越え、煤けた水たまりを避けて。途中、ミューは何度か振り返って、二人がはぐれていないかを確かめた。チイの足が遅れれば、歩調をゆるめる。そのたびに、ノブが訝しげな目を向けてきた。なぜ、こんな見ず知らずの泥棒猫が、と。ミュー自身、うまく答えられなかった。ただ、背中に小さな足音が二つついてくるのが——いやでは、なかった。
*
崩れ家の、傾いだ天井の下。
その晩、ミューは盗ってきた乏しい食い物を、二人に分けた。チイに大きいほうを。ノブに、その次を。自分は、いちばん最後の、ひと口だけ。腹は鳴ったが、不思議と、惨めではなかった。
寝床がわりのぼろ布に、子ら二人を並べて寝かせる。チイはすぐに寝入った。ノブは、最後まで棒を手放さず、ミューを警戒していたが、やがて、こてりと眠りに落ちた。
ふたりの寝息が、すうすうと、暗がりに重なる。
ミューは膝を抱えて、自分の爪を眺めた。盗みで磨いた、しなやかな爪を。鈴野の市では、遊びのように果実を抜いた爪。灰区では、人の命綱を抜いてきた爪。
——これからは、この子らの分まで奪ってやる。
牙の理由が、半年ぶりに戻ってきた気がした。生きるためだけの牙ではない。守るための牙だ。故郷を奪われたあの日から、ずっと空っぽだった手のひらに、いま、ちゃんと、抱えるものがある。それは思いのほか、あたたかかった。同時に、ひどく、こわかった。一度抱えてしまえば、もう、奪われるのが怖くなる。半年かけてすり減らした弱さが、たった一日で、戻ってきてしまった。
それでも、いい。ミューは、そう思った。
奪われるのを恐れるくらい大切なものが、ある。それは、空っぽよりは、ずっとましだ。
ミューは、自分がいつも使っている毛布を、そっと、眠る子らの上にかけてやった。お世辞にも上等とはいえない、すり切れて端のほつれた一枚。それでも、ないよりはずっとましだ。自分は丸めた膝小僧を抱いて、夜の寒さをしのげばいい。慣れている。チイが寝言をこぼし、ノブが眉を寄せて寝返りを打つ。その他愛もない気配が、崩れ家の暗がりを、ほんの少しだけ、あたためていた。
灰色の街に、夜が更けていく。
奪われてばかりだった猫は、その夜はじめて、自分から何かを抱きしめる側になった。




