M1_鈴野
朝の鈴野は、匂いから目を覚ます。
焼きたての雑穀パン。串に刺した川魚。どこかの軒先で煮詰まる果実の蜜。それがいちどに立ちのぼって、薄い霧みたいに路地を満たしていく。猫の獣人が大あくびをして、犬の獣人が荷車を軋ませ、兎の子が寝間着のまま坂を駆けおりる。石畳に沿って屋台と露店がびっしりと肩を寄せあう——それが、この下町の市だった。
その喧騒を、ミューは屋根の上から見おろしていた。
黒いフリルの裾を膝に畳み、猫の尻尾をゆらりと垂らして。背は低い。市のどの子どもよりちんちくりんなくらいだ。けれど金色の目だけは、誰よりも遠くまで届いていた。
(あのへんの梨が、いちばん熟れてる)
軒先に積まれた山に目をつける。店主は客の相手で背を向けていた。ミューは音もなく庇を伝い、影から影へ滑りおりる。指がひとつ、するりと伸びた。山の天辺から、ちょうどよく色づいた一玉だけが、ふっと消える。
「こらァッ、泥棒猫——!」
怒声が飛んだ。けれどミューはもう三軒先の路地へ駆け込んでいる。尻尾の先で挨拶を返すみたいにひと振りして、笑った。追っ手の足音は、坂の途中であきらめたように散っていった。
本気で追う者など、いやしない。盗られた店主も、どこか笑っている。「またあの猫か」と。鈴野では、ミューの手癖の悪さは、もう名物のようなものだった。叱るのも、逃がすのも、ぜんぶ顔なじみ同士の、ちょっとした遊びのようなもので。今日の梨も、どうせ夕方には、ミューが別の店から余りものを運んでやって、ちゃらになる。みんな、それを知っていた。
慣れたものだ。鈴野の市で、彼女の手から逃げきれる獲物はそう多くない。逃げきられても、誰も本気では怒らない。
裏路地の塀に背を預けて、ひと息つく。盗った梨を袖でこすって、さあかぶりつこうとして——ミューの手が、止まった。
塀の影に、痩せた野良の子がうずくまっていた。犬の獣人の、まだ乳離れもあやしいくらいの小さいのが。落ちくぼんだ目で、じっと梨を見ている。物欲しげに、けれどねだる気力もなさそうに。
「…………」
ミューは梨と、子どもとを、何度か見くらべた。それから、ちっと舌打ちをひとつ。
「ほら」
梨を、子どもの膝に放ってやる。「あたしは、もう一個盗ればいいだけだし」。そう言い捨てて、さっさと背を向けた。礼を言われる前に、角を曲がってしまう。背後で、小さく齧りつく音がした。それを聞きながら、ミューは唇をへの字に曲げる。
——強欲なくせに。奪ったそばから、手放してしまう。
自分でも、よくわからない性分だった。
「またおまえか、この手癖の悪いの」
市の中ほどまで戻ると、青物を商うガマ爺がじろりと睨んできた。蛙の獣人の老人で、しわがれた声と、底の知れない笑い皺を持っている。
「人聞きの悪いこと言わないでよ、ガマ爺。あたしはただ、熟れすぎて売れ残るのを、もったいないから先に片づけてあげてるだけ」
「ぬけぬけと」
ガマ爺は呆れたように鼻を鳴らし、それでも籠の隅から不格好な芋をひとつ、ミューの手に握らせた。「ほれ。盗まんでも、これくらいはくれてやるわ」。皺だらけの手は、ごつごつとあたたかい。
ミューは芋を受け取って、ふん、と鼻を鳴らした。礼は言わない。けれど坂をおりるとき、その足取りは、来たときより少しだけ軽かった。
坂の上のほうへ目をやれば、瓦屋根のあちこちで、猫の獣人たちが日向ぼっこをしていた。ミューと同じ、猫の獣人たち。けれどミューには、同じ血筋だからどうこう、という気持ちはあまりなかった。一族の掟だの、群れの繋がりだのは、性に合わない。それより、幼いころ、いちばん高い棟木の上で梁渡りを教えてくれた年寄りの猫。今日も同じ場所で丸くなって、片目だけでこちらを見ている。叱るでもなく、褒めるでもなく。ただ、いる。ミューにとって大事なのは、血のつながりより、そういう、ひとつひとつの顔だった。
雑多で、騒がしくて、誰もかれもがお節介で。盗っても、結局はどこかへ巡ってしまう街。ミューにとって鈴野は、家のかわりだった。血のつながりなんてなくても、馴染みの顔ぜんぶが、家族みたいなものだった。屋根のうえには、いつも自分の居場所がある。それが、ずっと続くものだと——疑いもしていなかった。
*
異変は、その日の夕暮れから囁かれはじめた。
「なあ、聞いたか。東の郷が、ひと晩で消えたって話」
「消えたって、どういうこった」
「だから、消えたんだとさ。家も、畑も、人も。朝になったら、ただ、何もない平らな地面だけが残ってたと」
井戸端で、大人たちが声をひそめている。ミューは塀の上で耳をそばだてながら、ちぇっ、と肩をすくめた。
「どうせ、誰かの作り話でしょ。郷がまるごと消えるなんて、そんなの」
笑い飛ばして、塒へ帰る。けれどその夜、ひとり屋根のてっぺんで膝を抱えたとき。ミューはふと、空を見上げて——息を、のんだ。
夜空に、一筋の線が走っていた。
ひどく細い、まっすぐな裂け目だった。星をふたつに断ち切るように、空の高みを横切っている。その線の向こう側だけ、夜の色がわずかにちがって見えた。見慣れた紺青ではない、どこか毒々しい、見たこともない藍。
「…………なに、あれ」
理由もなく、ぞわりと、首のうしろの毛が逆立った。胸の奥が、得体の知れない不安でざわつく。盗みのときに感じる、危ない橋を渡る前のあの勘——それが、けたたましく鳴っていた。
逃げろ、と。
けれど、どこへ。ここは鈴野だ。彼女の、家なのに。
見まわせば、街じゅうの獣がそわついていた。犬がしきりに北を向いて唸り、繋がれた家畜が柵を蹴る。鳥という鳥が、夜だというのに巣を捨てて飛び立っていく。ものを言わぬ獣たちのほうが、ずっと早く、何かを嗅ぎとっているようだった。坂の上の年寄り猫さえ、いつもの棟木で、丸くならずに身を起こしていた。じっと、あの線を見上げて。
ミューは尻尾をきつく巻きつけて、膝のあいだに顔をうずめた。だいじょうぶ。朝になれば、いつもの市が戻ってくる。何度もそう言い聞かせて——けれどその晩は朝まで、ひとつも眠れなかった。
*
裂け目が空をのみこんだのは、翌日の、白々とした明け方だった。
最初は、音だった。世界そのものが軋むような、低い、腹の底に響く軋み。市の鶏が狂ったように鳴きたて、犬が尾を巻いて吠える。ミューが跳ね起きて屋根に立ったとき——空の裂け目は、もう、夜のあの細い線ではなかった。
ぱっくりと口をあけた、巨大な傷だった。
そこから、別の世界が雪崩れ込んできていた。
見たこともない、灰色の塔。鋼でできた、角ばった建物。得体の知れない、奇怪な仕掛けの機械の群れが、鈴野の空の上に、ありえない角度でめり込んでくる。煙突から吐き出される黒い煙と、火薬の焦げたような匂い。獣人の鼻には、毒のように刺さる匂いだった。遠くの山がぐにゃりと歪み、手を伸ばせば届きそうなほど近くに見えた。坂の途中の道が、途中で断ち切れ、何もない虚空へと垂れ下がる。空の高みでは、二つの世界の境い目が、煮えた飴みたいにどろりと混ざりあい、引きちぎれ、また絡まっていた。上も下も、遠いも近いも——何もかもが、まるごと狂っていた。
「……っ、う、わ……ッ」
立っていられない。傾きはじめた屋根から、ミューは街路へ、転がるように飛びおりた。
足もとの石畳が、めきり、と割れる。片側がすうっと持ちあがり、もう片側が沈む。馴染んだ市が、馴染んだ家々が、ぐにゃぐにゃとねじれ、ひしゃげ、原形を失っていく。悲鳴があがった。あちこちで。獣人たちが、転がるように坂を逃げ惑う。荷車がひっくり返り、果実が石畳を跳ねて散らばった。
市の中ほど——青物の屋台が並ぶ一角が、地鳴りとともに、ごっそりと裂け目に呑まれていく。ガマ爺の店も、ちょうど、あのあたりだ。
「ガマ爺っ! ガマ爺、どこ——!」
ミューは人の波に逆らって駆けた。芋をくれた、あのごつごつの手をさがして。坂の上を振り仰げば、梁渡りを教えてくれた年寄りの猫がいたあの棟木は、もう跡形もなかった。屋根ごと、傾いだ地面の裂け目へ滑り落ちていく。あれだけ身軽だった猫たちの影が、つぎつぎと、瓦礫の砂塵にのまれて見えなくなる。押し寄せる群衆に呑まれ、突き飛ばされ、ミューの小さな体は木の葉みたいに流されていく。
「だれか——だれか、その子の手をッ!」
転んだ兎の子に、ミューは手を伸ばした。あと、ほんの少し。指の先が、触れる——その寸前で。ふたりのあいだの地面が、音もなく裂けた。底の見えない断裂が、するりと割って入る。伸ばした手は、空をつかんだ。
子どもの姿は、崩れていく瓦礫の向こうへ、見えなくなった。
「…………」
奪うことには、誰より長けていたはずだった。市のどんな獲物も、彼女の指から逃げきれなかったはずだった。
なのに。
いま、彼女からは、何もかもが奪われていく。家も、街も、馴染みの顔も。伸ばした手が、ひとつとして、何もつかめない。
崩れた塀の隙間に、ミューは小さく身を縮めた。耳を伏せ、尻尾を抱え、ただ嵐が通り過ぎるのを待つ獣のように。地面が揺れるたび、奥歯が鳴った。瓦礫のどこかで、誰かが助けを呼ぶ声がする。それも、だんだんと細くなり、やがて聞こえなくなった。手を出すことも、できなかった。動けば、自分も裂け目に呑まれる。そのことを、盗みで磨いた勘が、冷たく告げていた。やがて軋みが遠ざかり、悲鳴がまばらになり——あたりは、しんと静まった。
おそるおそる、顔をあげる。
空は、もう、見知らぬ藍に塗り替えられていた。ねじくれた鋼の塔が、朝の鈴野があった場所に、墓標みたいに突き立っている。崩れた屋台。割れた瓦。ひっくり返ったまま、もう誰も起こさない荷車。馴染んだ匂いは、焼けた鉄の臭いに塗りつぶされて、ひとつも、しなかった。生きものの気配は、どこにもない。あれほど騒がしかった市が、ひと朝で、声を失っていた。
ミューは、ゆっくりと、自分の手を開いた。
握りしめたままの拳の中に、ガマ爺の芋が、ひとつ。土まみれのまま、つぶれもせず、残っていた。誰かに渡すつもりだったのか、自分でもわからない。ただ、それだけが、昨日までの鈴野から、彼女の手に残ったすべてだった。
冷たい風が、見知らぬ街並みのあいだを吹き抜けていく。
ミューは芋を、そっと胸に抱き寄せた。




