44_提案
手合わせの熱が、すっかり引いたあと。
メゾン・ド・ラヴィの居間は、いつものやわらかな灯りに包まれていた。ラヴィのヒールで、カトレアの擦り傷も、ネオンの打ち身も、もう癒えている。ミューだけは、まだ興奮さめやらぬ様子で、さっきの手合わせの真似をしては、ネオンに小突かれていた。
ラヴィは、丸テーブルの椅子にほっと腰を下ろした。自分の体にも、ようやくヒールをかけて。——けれど、ピアの問いだけは、まだ胸の奥に、しこりのように残っている。
いま、もし。儂が、お主を喰らい尽くしたら。
考えても、答えは出なかった。
ふと、視線を感じて顔を上げる。
居間のすみ。出窓のふちに、パッチが、ぽつんと腰かけていた。手合わせのあいだも、そのあとも。ずっと、輪のなかには入ってこない。膝を抱えて、みんなのことを遠くから眺めている。
その口が、ちいさく動いていた。
「……ステータスが、ずれてる。参照先も、空のままだ」
ぶつぶつと、ラヴィには意味のとれない言葉をつぶやいている。なにかの呪文のような、聞いたことのない響き。
「パッチ?」ラヴィが呼ぶ。
びくり、と、パッチの肩がはねた。——しまった、という顔。
「……なんでもない」
ふい、と目をそらす。けれど、その指は、膝の上で、落ち着きなく、にぎられたり、ひらかれたりしていた。
——思えば。
ラヴィは、ふと思った。この子が来てから——といっても、外の世界では、まだいくらも経っていないのだけれど。ラヴィが内側にいるあいだ、外の刻はほとんど進まない。それでも、こうして内側でともに過ごした時間は、もうずいぶんになる。なのに、パッチは、いつもこうして、すこし離れたところにいる。
無理もないのかもしれない。崩壊の最前線で、消えかけていたこの子を、ラヴィが助けようとした、あのとき。パッチは、最後まで、その手を拒んだ。触るな、と。——その姿を、ネオンもピアも、見ている。きちんと挨拶をする機会もないまま。ずるずると、今に至っている。
ネオンや、ピアや、カトレアとは、わけが違うのだ。あの三人は、もともとラヴィの内側で目を覚ました者たち。気づけば、ここにいた。同じ場所から始まった、という言葉にしない安心が、三人のあいだにはある。——パッチには、それがない。
「ねえ、パッチ」
そこへ、ぴょこんとミューが近づいていった。猫耳を、ぴんと立てて。臆する様子もなく。
「パッチも、ラヴィに助けてもらったんだよね? ——死んじゃう、ってところを」
パッチが、警戒するようにミューを見る。
「あたしも、おんなじなんだ」ミューは、にっこり笑った。「あたしね。外で、もう消えちゃう、ってときに。ラヴィが、たべて——ううん、内側に入れてくれたの。だから、いま、ここにいる。——だからね。パッチも、あたしと、いっしょ」
パッチは、なにも言わなかった。けれど、その目が、すこしだけ揺れたように見えた。
「……いっしょ、じゃ、ないよ」
ぼそり、とパッチが言う。けれど、その声は、さっきまでより、わずかにやわらかかった。
それから、意を決したように。パッチは、顔を上げた。
「ねえ、君。——ラヴィ。さっきから、気になってたんだ。ひとつ、聞いていい?」
ラヴィがうなずく。
パッチは、すうっと目を細めて。ラヴィの、その奥を覗きこむように見た。
「君は、おかしいよ。——君の"なか"と、君自身が。ちゃんと、繋がってない」
「……どういう、こと?」
「うまく、言えないけど」パッチは、言葉を選んだ。ラヴィに伝わるように。「君のなかには、たくさんの人がいるよね。その人たちのことも。君が抱えてる、いろんなことも。——ほんとうは、もっとずっと深く、わかるはずなんだ。手に取るみたいに。でも、その線が、どこかで切れてる。だから、君は——自分のことを、なにも知らないままでいる」
ラヴィの、息が止まった。
——自分のことを、なにも知らない。
それは。この長い旅の、ずっといちばん奥でラヴィが抱えつづけてきた、痛みそのものだった。
「直せるよ。僕なら。……たぶん」
「——待て」
低い声が、割って入った。ピアだ。いつのまにか書物を閉じて、こちらをじっと見ている。深紅の瞳に、鋭い光。
「お前さん。ラヴィに、何をするつもりじゃ」
場の空気が、ぴん、と張りつめる。
「……信用できるのか」ネオンも、腕を組んでパッチを見据えた。「こいつの、言うことが」
カトレアは、なにも言わない。ただ、考えこむように口を引き結んでいる。
ラヴィは。こわごわと、パッチにたずねた。
「直すって……それ」
声が、震える。
「みんなが——わたしのなかの、みんなが。消えちゃう、ってこと?」
それが、ラヴィの、いちばんの恐怖だった。せっかく出会えた。せっかく、いっしょにいられる。この、あたたかい場所。みんな。もし消えてしまうなら——直すなんて、いらない。
「消えない」
パッチは、はっきりと言った。
「——もし、この奇跡みたいな君たちが消えてしまうようなら。僕は、そもそも、こんな提案はしないよ。僕がするのは、ただ、繋がってない君自身を、繋げるだけ。なかにいる人は、誰も、いなくならない。それは、約束する」
それでも、まだ、みんなの目には警戒が残っていた。パッチは、それを見まわして。——ふっと、力なく笑った。
「そんなに、構えなくていいよ」
膝を抱えたまま。淡々と。
「僕と、君たちは。——根本的に、成り立ちが違うんだ。僕には、君たちみたいな戦う力もない。なんにも、ない。だから」
その虹色の瞳が、まっすぐピアを見た。
「もし、僕が、なにか悪さをしたと思ったら。——そのときは、そうだな。……殺して。それで、終わりだ。僕は、死にたくないから。何も、悪さはしないよ」
しん、と。居間が、静まりかえった。
死にたくないから。——その言葉を、ラヴィは知っている。目を覚ましたとき。この子が、いちばん最初にこぼした、たったひとつの本音。諦めきっていた子が、ふと漏らした言葉。
それを、いま。この子は、自分の命を賭けるみたいにして、差し出している。
ラヴィは、どう答えればいいのか、わからなかった。
直してほしい。——いや。そんな言葉では、足りない。
自分が、何者なのか。どこから来て、なぜ、ここにいるのか。それを知ることは、この旅のはじめからの——ラヴィの、すべてだった。喉から手が出るほど、ずっと欲しかった答え。それが、いま。目の前のこの子の手で、得られるかもしれないという。
本来なら、迷う理由なんて、ひとつもない。すぐにでも頭を下げて、お願いしているはずだった。
——でも。ピアの言葉が、胸でこだまする。疑うことも、覚えておくがよい。
頭から信じてしまうのは、きっと、いけない。——でも。頭から疑って、突き放すのも。それは、ちがう気がした。この子は、いま、死にたくない、と言った。その本音に、嘘はないと思う。
考えれば、考えるほど。答えは、もつれてほどけなくなる。
「……ごめん」
ラヴィは、ちいさく言った。
「すぐには、決められない。——もう少し、考えても、いい?」
パッチは、ふっと、肩の力を抜いた。
「いいよ、別に」いつもの、醒めた調子で。「急ぐ話でも、ないし。……気が向いたら、で」
そう言って、また膝を抱えなおす。なんでもない、というふうに。けれど——ほんの一瞬、その横顔に、安堵とも寂しさともつかない、淡い色がよぎった気がした。
その日。一行は、これからのことを話しあった。
崩壊は、待ってくれない。世界は、刻一刻とこわれていく。そして——ラヴィの心は、もう決まっていた。
あの、もう一人のわたし。その正体を、知らなければ。自分が何者なのかを、知るために。
「……行こう」
ラヴィは、顔を上げた。
「もう一度。あの、もう一人のわたしの、ところへ」
修復のことは、まだ、決められないまま。胸の奥に、ちいさな問いを、ひとつ、抱えて。
ふと、出窓のほうへ目をやると、パッチと目が合った。パッチは、ふい、とそっぽを向く。——けれど、その場を、立ち去りはしなかった。
その、ちぐはぐな距離を、どう縮めればいいのか。ラヴィには、まだわからない。
——でも。わからないことは、これから、ひとつずつ。知っていけばいい。この子のことも。自分のことも。そして、あの、もう一人のわたしのことも。




