43_鍛錬場
朝、といっても。内側の世界に、ほんとうの朝や夜があるわけではない。ひと眠りして、また集まった。それだけのことだ。
メゾン・ド・ラヴィの一角に、ゆうべはなかった空間ができていた。
天井の高い、がらんとした広間。床は踏みしめられた固い土。隅には木の的が並び、汗を流すための水場まである。ラヴィがゆうべの注文を受けてこしらえた、鍛錬場だった。張り切りすぎて、片隅にはちょっとした観覧の段まで設えてある。
「……どう、かな。これで、足りる?」
おずおずと、みんなを振り返る。
「上等じゃないか」カトレアが目を細めて、広間を見わたした。白い騎士服の裾をはらい、腰のレイピアに手をかける。「これだけの場所があれば、鈍った腕も磨きなおせる」
その視線が、つい、と壁ぎわへ流れた。
「ネオン。久しぶりに、手合わせを頼めないか。——君と打ちあうのは、ボクは存外、好きでね」
「……また性懲りもなく」
腕を組んでいたネオンが肩をすくめる。けれど、その指はもう、腰の短刀へと伸びていた。
「いいだろう。相手になる。——言っておくが、手加減はしないぞ」
ふたりの視線が空中でぶつかった。——ぱちん、と見えない火花が散る。
「あっ、はじまる!」
ミューが、ぴょこんと跳ねた。ラヴィの隣にちょこんと陣取り、猫耳をぴんと立てて、すっかり観戦の構えだ。
広間の隅。一段高い縁に、パッチが腰かけていた。膝を抱えて、ぼんやりとみんなのほうを眺めている。輪のなかには入ってこない。ただ、見ている。
ラヴィは、カトレアとネオンから少し離れて、ごくりと息をのんだ。
カトレアが、すうっとレイピアを構える。切っ先がまっすぐにネオンを指す。みじんの隙もない、端正な構えだった。ネオンは対照的に、だらりと両腕を垂らしている。短刀は逆手。重心がどこにあるのか、つかめない。
——先に動いたのは、カトレアだった。
地を蹴り、一息に間合いを詰める。鋭い突き。銀の切っ先がネオンの喉もとへ伸びる。
けれど、そこにいたはずのネオンが、ぐにゃりと歪んだ。
「——っ」
影だ。残されたのは、薄い影法師。本体はすでに、横へ。短刀が低い位置から、カトレアの脇腹をすくいあげる。
カトレアの体が、とっさにひねられた。紙一重で刃をかわす。返す手でレイピアを薙ぐ。ネオンが跳びすさり、その輪郭がふいに、ふたつに分かれた。
分身。三つ、四つ。同じ姿がばらばらの方向から、いっせいに斬りかかる。
「——見えているよ」
カトレアは慌てなかった。レイピアの切っ先が、淡い光の弧を描く。襲いくる刃を、ひとつ、またひとつ、その軌道でなぞって横へ受け流していく。分身が、霧のように散る。
そうして残った、たったひとつ。——本体を見抜いた。
「そこだ」
切っ先が、ネオンの肩口でぴたりと止まる。
「……っ、ち」ネオンが舌打ちした。「——次は、影を十に増やしてやる。覚えていろ」
「ふふ。光栄だね」
カトレアが剣を引く。ふたりは、どちらからともなく、ふっと笑った。——息の合った、好敵手の顔だ。
「ネオン、おしかったー!」ミューが、ぴょんぴょん跳ねる。「あ、でも、カトレアもかっこよかった! ……えっと、あたしは、ラヴィの味方だけど!」
「……器用なもんだ」
ぽつり、と隅でパッチがつぶやいた。誰に言うでもなく。
ラヴィは、ほうっと息をついた。胸が、どきどきしている。剣と影があんなふうに噛みあうのを見ているだけでも、なにかがぴりぴりと伝わってくる。
「——せっかくだ」
レイピアを鞘におさめながら、カトレアがふと、奥のほうへ目をやった。
「ピア殿も、いかがかな。あなたの動きは、まだ見たことがない」
見れば、鍛錬場の隅にも、ピアはちゃっかり、お気に入りの椅子を運びこんでいた。深く沈みこんで、膝にはひらいたままの書物。肘掛けの小皿に、金平糖がひと粒。
「……はて」
眼鏡の奥で、深紅の瞳がけだるげに持ちあがる。
「やっと儂を口説いたかと思えば。——ずいぶんと、色気のない話じゃのう」
「ははっ。これは手厳しい」
「やれやれ。仕方のない子じゃのう。——少しだけ、付き合うてやろう」
ピアは、よっこらせ、と腰を上げた。金平糖を小皿に、ことりと残して。長いコートドレスの裾を引きずり、のんびりと広間の中央へ歩いてくる。構えらしい構えも、とらない。ただ、ぶらりと立っている。
ネオンが、わずかに眉を寄せた。
「……ピア。あんた、戦えるのか」
「さあ、のう。なにせ、久しぶりじゃ」
——その気の抜けた声を信じたのが、まちがいだった。
「では、いくよ」
カトレアが踏みこむ。さきほどネオンに見せたのと同じ、迷いのない突き。レイピアの切っ先が、まっすぐにピアの胸もとへ——
ピアの腕が、ゆるりと動いた。
ただ、それだけ。袖を払うような、無造作なひと振り。その手の甲が、レイピアの腹を横から弾く。
「——っ」
刹那。カトレアの全身が軋んだ。たかが、剣を払われた。それだけのはずなのに。腕から、肩から、足の裏まで、衝撃が突き抜ける。剣を握る手が、しびれて利かない。
そして、ピアは止まらなかった。剣を弾いた手を、ひらいた掌に変えて。——無造作に、カトレアの胸もとへ突き出す。
とっさに、カトレアはレイピアを返した。迫る掌の前へ、切っ先で淡い光の弧を描く。——心器。叩きつけられる力を、まともに受けず、その軌道でなぞって地面へと受け流す。
逸らされた力が、地面に突き刺さった。
——轟、と。
固く踏みしめられたはずの土が、爆ぜた。すり鉢状に、深くえぐれる。砕けた土塊が宙へ噴きあがり、ばらばらと地面に降りそそぐ。
しん、と静まりかえった。
カトレアが、えぐれた地面を呆然と見おろしている。受け流した。完璧に受け流したはずだった。——なのに、その余波だけで、これか。
「……っ。受け流して、なお、これか」
額に、つうっと汗がつたう。
「まともに受けていたら……ボクは今ごろ、ラヴィの世話になっていたよ」
「ほう。よう逸らした」ピアは、感心したように眼鏡を押しあげた。「おぬしの、鍛錬の賜物じゃろう」
その声は、あくまでのんびりとしている。息ひとつ、乱れていない。
「——っ、なら」
横合いから、影が走った。ネオンだ。ピアがカトレアに気を取られた、その一瞬を突く。短刀が低く、ピアの背を狙う。同時に、影が幾重にも分かれた。四方どころではない。十をこえる分身が、いっせいにピアへ殺到する。
「せわしないのう、おぬしは」
ピアは、振り向きもしなかった。
ただ、片手を、ひらりと後ろへ。
それだけで、十あまりの分身は、生まれた端からかき消えた。残った本体のネオンは、その手に、ぱしりと手首をつかまれている。指一本ぶんも、刃は届いていない。
「……っ、は」ネオンの顔がこわばった。「——化け物め」
「ふぉっふぉ。そう尖るな」
ピアは、つかんでいた手を引いて、ひょいとネオンを抱き寄せた。背の高いその体を、ものともせず、ぐいと胸もとへ。
「——っ!? お、おい、放せ……っ」
「よい攻めじゃった。悔しがるのも、本気で来てくれた証よ。——そう、つんけんするでない」
じたばたと暴れるネオンを、ピアはこともなげに抱きとめている。その悪態がただの照れ隠しなのは、千年の目には、とうにお見通しらしい。
やがて、ぽい、と解放されたネオンが、赤い顔で距離をとった。
「ふむ。——せっかく、よい相手が、二人もおるのじゃ」
ピアが、眼鏡を、くい、と押し上げる。その奥の深紅の瞳が、すっと剣呑な光を帯びた。
「ラヴィや。この娘らが怪我したら、治してやれ。——もう少しだけ、真面目に相手してやろう」
空気が、変わった。
次の刹那、ピアの姿が、ぶれた。さっきまでの、のろりとした足どりが嘘のように。残像だけを残して、カトレアとネオンの、ちょうど真ん中へ。音もなく、立っている。
ふたりが、息を呑む。だが、武人たちの反応は速かった。左右から、同時に斬りかかる。
ピアは、避けもしなかった。片手でレイピアの腹を打ち、もう片方で短刀を絡めとり、そのまま、ふわりと——ふたりまとめて、地面へ組み伏せる。
ほんの、瞬きのあいだの出来事だった。
「……まいった」カトレアが、土の上で、清々しく笑う。「何から何まで、敵わないな」
「……ちくしょう」ネオンも、観念したように力を抜いた。
ラヴィは、ただ目をまんまるにして、立ちつくしていた。
いつもメゾンのいちばん奥で、書物に埋もれ、飴を舐め、からかうように笑っているピア。そののんびりとした背中の内側に。——あんな、底の見えない力がしまいこまれていたなんて。
胸の奥で、なにかが、ぐっとせりあがってくる。
こわい、のとはちがう。あこがれ、に近い。——もっと、知りたい。あの力の、ほんの端でいい。自分の手でたしかめてみたい。
気がつくと、ラヴィは一歩、前に出ていた。
「……ピア」
声が、震えた。それでも。
「わたしも……強く、なりたい。お願い。稽古を、つけてくれる?」
広間が、しんとする。ミューが、ぱちりとまばたきをした。
ピアは、しばらくラヴィを見ていた。深紅の瞳が、すうっと細くなる。
「——ふむ。いい機会じゃ」
ピアの口の端が、かすかに持ちあがる。けれど、その目は笑っていなかった。
「じゃが、ラヴィや。ひとつだけ、約束せい」
「……うん」
「本気で、来い」
その声が、ふっと低くなった。
「中途半端は、いらん。お前さんが、いま持っているもの。そのすべてで、儂にぶつかってこい。——でなければ、教えてやれぬことが、ある」
ラヴィの喉が、鳴った。
持っているもの、すべて。——その言葉が、胸の奥のいちばん深いところに、火を点ける。
ラヴィは、手をかざした。掌の上に、ひかりが集う。瑠璃色の杖、《星の花束》。それを握りしめ、心の奥へ呼びかける。——カトレアの力を。
杖が、かたちを変えた。
長い柄が、するすると伸び、細く、研ぎ澄まされていく。ラヴィの手のなかで、それは一振りの剣となった。淡い光をまとった、細身のレイピア。斬撃を光の軌道でなぞって受け流す、護りの剣。——さきほど、目の前で見た、あの貌。
カトレアが、息を呑んだ。
「——あれは」
声が、かすれる。
「ボクの……心器」
その光を、カトレアはまばたきもせずに見つめていた。胸に、こみあげるものがある。自分の魂の片割れともいうべき、唯一無二の力。それが、いま、ラヴィの手のなかで、たしかに息づいている。
あの硝子の聖堂で授かって以来、ずっと自分だけのものだと思っていた。けれど。——あんなふうに、誰かの手で輝くのか。
「……きれいだ」
そのつぶやきは、誰にも聞かれなかった。
「——よし。来い」
ピアが、ゆらりと、構えなき構えをとる。
ラヴィは、光のレイピアを掲げ、地を蹴った。
切っ先で、光の弧を描く。迫る掌を、その軌道でなぞって横へ流す。——けれど。受け流しきれない。膂力が、桁ちがいだった。逸らしたはずの力が、なお、ずしりとラヴィの全身を打つ。
「——っ、う」
足が、ずるずると後ろへ。地面が、削られていく。それでも、踏みとどまった。歯を食いしばって。
だが、ピアは止まらなかった。
二撃目。三撃目。間断なく、無造作なひと振りが、つづけざまに降ってくる。さきほどカトレアやネオンに見せた、あの寸止めの余裕は——もう、ない。ラヴィの光の剣が、受けるたびに軋み、ちらつく。
「……っ、あ……っ」
受けきれない一打が、肩を打った。ラヴィの体が、土の上を、ごろりと転がる。
「ピ、ピア!?」ミューが、悲鳴をあげた。「やめてよ、もう! ラヴィが……っ」
「——ピア殿!」カトレアも、血相を変えて踏みだす。「やりすぎだ。それ以上は——」
ネオンも、すでに地を蹴っていた。割って入ろうと、短刀を構える。
けれど。ピアの一瞥だけで、ふたりの足が、すくんで止まった。
止められない。——格が、違いすぎる。
それでも、ラヴィは、立ちあがろうとしていた。震える腕で地面を押し、半ばまで薄れた光の剣を、まだ手放さずに。
「……ま、だ」
「ほう」
ピアの目が、すうっと細くなる。そして——その姿が、かき消えた。
気づいたときには、もう。ラヴィの体は、背後からピアの腕に、がっちり捕らえられていた。逃げられない。無理やりに引き起こされて。
ひやり、と。うなじに、つめたい吐息がかかった。
ピアの顔が、ラヴィの首すじへ、ぴたりと寄せられている。牙の、触れそうな距離で。
「——のう、ラヴィ」
その声には、もう、ふざけた色は、ひとかけらもなかった。
「いま、もし。儂が、お主を喰らい尽くしたら。——どうなる」
ラヴィの、息が、止まる。
「おぬしが誰かを内に取りこむのと、逆よ。——おぬしのすべてを、この儂が乗っ取る。器ごと、奪い去る。……そんなことが、できるのか。できぬのか」
真剣な、問いだった。
ラヴィは、答えられなかった。
考えたことも、なかった。喰らうことと、喰らわれること。その境目が、どこにあるのか。自分という器が、どこまで自分のものなのか。——なにも、わからない。口をひらいても、言葉は出てこなかった。
しばしの沈黙ののち。ピアの腕から、ふっと、力が抜けた。
「——もうよい」
ぽん、と、背を押される。ラヴィは、よろめいて、前へ数歩、つんのめった。
「皆を、治してやれ。お主自身も、な」
肩で息をしながら、ラヴィは振り返る。ピアは、もう、いつものんびりした顔に戻っていた。けれど、その目の奥にだけ、まだ、消えない真剣さがある。
「儂はな、ラヴィ。おぬしのことが、気に入っておる」
言葉を、選ぶように。
「じゃが——もしも、じゃ。お主が助けて、内に入れた、あの白い娘。あの子が、もし、この儂と同じ力を持っておったら。——どうなっておった」
ラヴィの目が、見ひらかれた。縁の上のパッチへ、視線が吸い寄せられる。
「おぬしは、なにも疑わず、あの子を、内に入れた。優しさじゃ。それは、おぬしの、いちばん良いところよ。——じゃがな」
ピアの声は、やわらかく、けれど芯を持ってつづいた。
「ほんの少しでいい。疑うことも、覚えておくがよい。……でなければ、いつか、その優しさに、足をすくわれるぞ」
鍛錬場が、しんと静まりかえった。
その重さをはらうように。ピアが、ふっと、いつもの調子で肩をすくめた。
「——なに。老婆心からの、忠告というやつじゃ。ババアじゃからのぅ」
「……まったく」ネオンが、ふう、と息をついて近づいてくる。張りつめていたものを、ほどくみたいに。「やり過ぎだ、ババア」
「ほんとだよ!」ミューも、ぴょこんと跳ねた。「やり過ぎ、ババア!」
「おおん? 誰がババアじゃ」ピアが、じろりと二人を睨めつける。「——ぬしら。今度は、儂の特別メニューで、特訓じゃな」
「げっ」「うえぇ」
ネオンとミューが、そろってげんなりした顔をした。——無理にでも明るくしようとする、その空気。きっと、みんな、わかっているのだ。さっきのが、ただの意地悪ではなかったと。
そんななか、カトレアだけが、妙に静かだった。腕を組み、なにか考えこむように口を引き結んでいる。——根が、生真面目なのだ。ピアの言葉を、いちばん深く受け取ったのは、この子かもしれない。
そして、ラヴィは。
皆を治せ、と言われたのに。自分の体のあちこちが痛むのも忘れて。——ただ、じっと、縁の上のパッチを見つめていた。
疑うことも、覚えておくがよい。——ピアの言葉が、胸の奥でこだましている。
でも。この子を助けたことに、後悔はない。それだけは、たしかだった。ただ。——なにも知らないままでいるのは、もう、いけないのかもしれない。
その、まっすぐな視線に。縁の上のパッチが、気づいた。
ふたりの目が、ふと、合う。
パッチは、すぐにはそらさなかった。乾いた目で、ラヴィを見かえす。あの白い娘、というのが、自分のことだと。——わからぬはずも、なかった。
——賢いね。あの、お婆さんは。
胸のうちで、そうつぶやく。疑え、か。正しい。まったく、もって、そのとおりだ。
それでも、ラヴィは、目をそらさない。
——なんなんだ、こいつ。疑え、と言われた相手に、まっすぐ目線を向けても、何もわからないだろ。
パッチは、かすかに眉を寄せた。
——と。
その、見つめあいのなかで。ふと、パッチの目が、なにかを捉えた。
ラヴィの、その奥。さっき、ほかの誰かの力を引き出していた、あの感じ。——つながりが、どこか、すっきりとは通っていないような。
ぱちん、と。何度か、まばたきをする。
気のせい、だろうか。
パッチは、ちいさく首をかしげた。そのまま、もう少しだけ。この、よくわからない子のことを、見ていることにした。




