42_翼の子
メゾン・ド・ラヴィの、いちばん奥の部屋。
やわらかな寝台に、翼の子は横たわっていた。もう、ずいぶん長いあいだ、こうしている。
水色とピンク。二色に透けるその翼を背に負ったまま、あの子は目を閉じていた。胸は、かすかに上下している。生きてはいる。けれど、いくら呼びかけても、応えは返ってこなかった。
「……まだ、起きないね」
ラヴィは寝台のかたわらに膝をついて、その白い髪を、そっと見ていた。
崩れた世界の最前線。大きな怪物に追い詰められ、深手を負って、もう消えかけていた——そんなあの子を、ラヴィは見過ごせなかった。間に合わない。そう思って、自分の内側へ、招き入れた。食べた、というのとは、ちがう。失われてしまう前に、その存在ごと、そっと内へ。
それでも、傷は癒えなかった。ラヴィのヒールは、この子には届かない。光が、するりとすり抜けていってしまう。理由はわからない。ただこの子だけが、ラヴィの知るどんな理からも、外れているみたいだった。
「気に病むな」
声がした。本棚の影で、ネオンが腕を組んで立っている。
「お前は、できることをした。そのうえでこいつがどうなるかは……こいつの問題だ」
「……うん」
つっけんどんな言い方。でも、それがネオンなりの慰めなのだと、もうわかる。
そのときだった。
翼の子の指先が、ぴくりと動いた。
「ピア」ラヴィは思わず顔を上げた。
「見ておる」
深紅の瞳が、寝台の子を見下ろしていた。ピアは、いつものおどけた調子を消して、何かを確かめるように、目を細めている。
長い睫毛が、震える。そして——薄く、ひらいた。
虹色の光を宿した瞳が、天井を映す。焦点が、ゆっくりと結ばれていく。
「……ここ」
かすれた声だった。
「……どこ」
その子はゆっくりと身を起こした。自分の手のひらを見て、それから背の翼を、確かめるように振り返る。混乱が、その横顔に滲んでいた。
「僕……消えた、はずなのに」
それから、ようやくまわりに気づいたらしい。ぐるりと、部屋を見まわす。やわらかな寝台。天井まで届く本棚。淡い光に満ちた、見たこともない静かな空間。その目が、見開かれていく。
「……なに、ここ。なんなんだ、この場所」
「あなたは、消えてない」
ラヴィは、できるだけおだやかに言った。
「死にかけてた。だから……わたしの中に、入ってもらったの。ここは、わたしの内側。あなたは、ちゃんと生きてる」
「君の……中?」
その子の目が、ようやくラヴィを捉えた。そして、すっと細められる。あたたかさとは、ちがう色で。
「……へえ」
警戒。値踏み。得体の知れないものでも見るような目だった。
「君も、おかしいよ。——いろんなものを、抱えこんでる。混ざりあって、ひとつのきれいなかたちには、なってない。こんなの、ふつうじゃない」
なんと答えればいいのか、わからなかった。
その子は、ふっと息を吐いた。皮肉な笑みのかたちに、口の端がわずかに歪む。
「生き延びた、ってわけか。物好きだね。僕みたいなゴミを拾って……なんの得にも、ならないのに」
寝台の上で、膝を抱える。翼が、力なく垂れた。
「いいよ、もう。どうにでもなれだ。——こんな、終わっていく世界で生きのびたところで。行くあてなんて、最初から、ないんだから」
その声には、怒りも悲しみもなかった。目の前のことだけじゃない。もっとずっと前に、何もかもを諦めてしまったような——そんな、平らな響きだけがあった。
ラヴィは何も言えずに、ただ、その子を見ていた。部屋が、しんとする。
——と。
「……死にたくない……のか。僕は」
ぽつり、と。その言葉に、その子自身が、いちばん驚いた顔をした。自分の口から、こぼれ落ちたものに。
「は。なんだよ、それ」
膝に顔を埋める。くぐもった声で、誰にともなく。
「諦めてた、はずなのに。……おかしいや。僕が、さ」
その小さな背中を、ラヴィは見ていた。胸の奥が、しんと痛んだ。この子のことを、まだ何も知らない。それでも——放っておけない、と思った。
……自分は、お節介なのかもしれない。そんなふうに、ラヴィは、自分のことをまた少し、知った気がした。
「ねえ」ラヴィは、そっと声をかけた。「あなたの名前。聞いても、いい?」
顔を上げたその子は、しばらくラヴィを見ていた。
「……パッチ」
ぶっきらぼうに言う。
「そう呼ばれてた。意味なんて、もうないけどね」
「パッチ」ラヴィは繰り返した。「わたしは、ラヴィ。……よろしく、ね」
パッチは答えなかった。ただ、ふいと目をそらす。馴れ合うつもりはない、とでも言うように。
「……まあ、いい」
やがて、パッチはぽつりと言った。
「君が、どういうつもりなのか。僕にはわからない。わからないけど……しばらく、見てることにするよ。君のこと」
なつくわけでも、心を許すわけでもない。ただの気まぐれ。退屈しのぎの、ついで。そんな言い方だった。でも、それで、じゅうぶんだった。
「……あ」
そこで、ラヴィは、はたと気がついた。
あらためて、部屋を見まわす。——思えば、この内側は、ずいぶん賑やかになったものだ。
ラヴィが、こわれたものを内に取りこむたび、それは元の姿を取り戻して、ここへ帰ってくる。気づけばメゾンには、見覚えのない調度が、いくつも増えていた。脚の欠けていない椅子。火のともるランプ。ひびのない器。——なかでも、本だ。崩れた街のあちこちで、夢中で取りこんでくるうちに、いつのまにか、壁という壁が、背表紙で埋まりはじめている。
そして、住人も。ネオン。ピア。いつのまにか、すぐそばまで来ていたミュー。奥からそっと顔をのぞかせたカトレア。そして、パッチ。
「……みんなの、お部屋」
指を折って、数える。
「足りる、かな。パッチの寝床も、いるし……」
そこで、ぴたり、と固まった。みるみる、顔が青ざめていく。
「——あっ。カトレアさんの、お部屋。……まだ、作ってない!」
両手で、頬を押さえる。
「ど、どうしよう。カトレアさん、来てくれてから、ずっと……ちゃんとした場所も、用意しないで、わたし……っ」
「ははっ。気にしないでくれ」カトレアが、おかしそうに笑った。腰の剣に手を添えて、ゆったりと首を振る。「ボクは、君のそばにいられれば、それでじゅうぶんさ。——とはいえ。せっかく作ってくれるなら、ひとつ、頼みがある」
その目が、いたずらっぽく光った。
「ネオンや、ピア殿と、心ゆくまで打ちあえる場所が欲しいな。腕が鈍っては、いざというとき、君を守れないだろう?」
「ふぉっ。手合わせとは、殊勝なことじゃ」ピアが、奥の椅子で、にやりとした。それから、すかさず身を乗り出す。「じゃが、その前に儂じゃ。——見よ、この本の山を。お前さんが運びこむたび、儂の蔵書は増えていく。書斎は、とうに手狭よ。もっと広くせい。ついでに、長椅子も、ふかふかのをな」
「えーっ、ピアばっかり、ずるい!」ミューが、ぴょこんと跳ねて、ラヴィの腕にしがみついた。「ねえねえ、ラヴィ。あたし、もう、おとなりじゃ足りないの。——いっそ、おんなじ部屋にしようよ! ベッドだって、ひとつでいいもん。ぎゅーって、くっついて寝るの!」
「……どうせ、このメゾンに手を入れるならだ」ネオンが、やれやれと口を挟んだ。「居間を、もう少し広くしろ。お前を見守るとき、結局、みんなここに集まる。窮屈なのは、性に合わん」
ぶっきらぼうな口ぶり。でも、みんなで囲むあの灯りを、ネオンが嫌っていないことは、もう知っている。
崩れていく世界のことも、もう一人のわたしのことも、いまだけは、頭の隅へ。ラヴィは、みんなの注文に、うんうん、と真剣にうなずいている。
賑やかな声が、内なる世界に満ちていく。その喧騒のまんなかで、パッチひとりが、ぽかんと口を開けていた。
醒めた目で、ぐるりと、見まわす。部屋割りに大慌ての家主。本の山から書斎を広げろと迫る吸血鬼。同じ部屋で寝たがる猫娘。手合わせの場をねだる騎士。なんだかんだ居間に注文をつける忍者。
「…………なんなんだ、ここは」
その乾いたつぶやきは——たぶん、誰の耳にも、届いていなかった。




