断章③
事故から、どれくらいが過ぎただろう。
彼女は、しずかな部屋にひとりでいた。
泣くことは、もうなかった。あれほど流した涙も、いつのまにか涸れている。悲しみのいちばん濃いところは、とうに通り過ぎてしまった。あとに残ったのは、ただからっぽな、しんとした時間だけ。
机の上に、ペンが一本。
彼女は、それへ手を伸ばした。ただ、それだけのこと。なんでもない、あたりまえの動作のはずだった。
——けれど。
指が、うまく閉じなかった。つまもうとした、その先から、ペンはつるりとすべって。
かたん、と。
乾いた音を立てて、床に落ちた。
彼女は、それを拾う。もう一度、握ろうとする。指に力をこめて。
また、落ちた。
何度やっても、おなじだった。手が、言うことをきかない。あの日から、ずっと。ペン一本、思うように握れない。
落ちたペンを、彼女はただ見おろしていた。
不思議と、涙は出てこなかった。泣くだけのものは、もう使い果たしてしまったのかもしれない。ただ、胸の奥がからっぽで。風が、ひゅう、とそこを通り抜けていくみたいだった。
机の隅に、一枚の絵があった。
ちいさな、あの子。
忘れてなんか、いない。長い夜をいくつもかけて、想いをこめて、かたちにしてきた、あの子。いまでも、その笑った顔を思い出せる。胸の奥があたたかくなった、あの感じも。
彼女は、その絵を、しばらくぼんやりと眺めていた。それから、ゆっくりと、自分の手へ目を落とす。
ペンは、床に落ちたまま。彼女は、それを拾わなかった。
ただ、しずかに。力の入らない手を、もう片方の手で、そっと包んでいた。




