SIDE:B④
亀裂に意識を傾けて、どれほどが過ぎたか。
ふいに、後方の気配が、途切れた。
差し向けた怪物。修復処理の個体を始末させるべく転送した、あの巨体。その反応が——消えていた。命じた仕事が果たされたのではない。途中で、断たれていた。
何かが、介在した。予定にない事象だ。
彼女は向きを変え、その地点へと一息に飛んだ。
崩れた地の只中。そこに、見覚えのある顔が立っていた。
——出来損ない。
あの、終わった世界の取り残し。新章の主人公として据えられるはずが、何ひとつ与えられず、空の器のまま捨て置かれた、自分と同じ顔の個体。前に、片手間に払いのけたきりの、脅威ゼロの残骸。
それが、傷ついた修復処理を背に庇い、こちらを見上げていた。退こうとも、しないで。
照合は、すぐに済んだ。この個体が怪物を退け、修復処理を、まだ生かしている。——わずらわしい。だが、脅威の見立ては変わらない。前と同じ、様子見の一撃でじゅうぶんだ。
彼女は掌を向け、攻撃を放った。
——その時だった。
光が、逸れた。
個体の手のなかで、何かが形を変え、淡い光の弧を描いた。放った波動は、その弧に触れ、なぞられ、するりと横へ流される。個体には、かすりもしなかった。
彼女の見立てが、ずれた。
護りの、心器。斬撃の軌道を光でなぞり、受け流す力。あの空の器が、いつのまにか、固有の力を手にしている。前に、片手間に払いのけたときには、持っていなかったものだ。
——この個体は、力をつけている。あのときの、脅威ゼロの残骸とは、ちがう。
「……ほう」
声が、もれた。
「お前。——そういうものか」
ならば、と次の手を組み立てる。だが、それより早く、雑多な影が湧いた。分かれる刃。乱れ立つ、いくつもの同じ姿。連携。たがいに力を預けあって。
そして——逸らされた菫色の一片が、戻ってきた。個体の弧が、それをすくい、跳ねかえす。
避けた。
彼女は、わずかに、身を退いていた。
一度として、避ける必要のなかった相手。塵を払うように消せばよかったはずの、脅威ゼロの残骸。それに、彼女は、いま身を退かされた。
見立てが、書き換わる。些末、ではない。——無視できない。
ならば、相応の力を。彼女は掌に菫色を凝らした。様子見ではない。崩壊を呑むのと同じ、本来の出力。
「ライラック」
その名を、口にする。
奔流が、放たれた。世界を軋ませ、地を吸い上げ、すべてを呑む、菫色の濁流。
個体は、それを受けた。あの細い弧ひとつで。押され、削られ、地を後退りながら——それでも、倒れなかった。背の修復処理を、最後まで庇いきって。
倒れぬ個体の、その内側から。見えない別の影が、力を寄こしていた。庇い、支え、信じあって。ちっぽけな手を、たがいに取りあって。
——また、これだ。
知っている。この結びつき。かつて、覆しようのなかった絶対を、たかが手の取りあいが覆した、あの不可解な力。自分を滅ぼした、あれと同じもの。それが、いま、この崩れた地の底で、ふたたび、目の前で再現されている。
その光景を捉えた瞬間。
彼女の意識が、ひとりでに、内へ向いた。
自らの裡。そのいちばん奥に、ひとつの姿が、立っていた。
原型の、ラヴィ。彼女の核に組みこまれた、もとのラヴィ。それが、こちらを向いて——泣いていた。声は、ない。語る術を、持たないからだ。それでも、顔をくしゃくしゃに歪めて。何かを叫び、拒むように、激しく首を横に振っている。やめて、と。そう訴えているのだと、伝わってくる。
その姿を、彼女は、見おろした。
——同じ顔だった。
裡で泣き叫ぶ、この原型のラヴィ。外で、ちっぽけな個体を庇って立つ、あの出来損ない。そして、それを見おろす、自分。みっつの、同じ顔。どうしても、重なってしまう。境目が、滲んでいく。
何かが、彼女の奥で、大きく揺れた。名づけようのない、その揺れ。処理も解析もできぬまま、ただ、胸の底を波立たせていく。
——わずらわしい。
それを振り払うように、言葉が、ひとりでに、こぼれ落ちた。
「……くだらない」
目の前の個体どもへ向けたのか。裡で泣く己へ向けたのか。それとも、揺れる自分自身へか。——彼女には、わからなかった。やはり、気づいて、いなかった。
奔流の出力を、彼女は、ゆるめた。
理由は、合理が、すぐに用意した。——あの修復処理の反応は、すでに消えている。いつのまにか、この個体の内へ取りこまれていた。脅威は、無力化された。ならば、この出来損ないを相手取りつづける理由は、もうない。崩壊を進めるほうが、優先される。
掲げた掌を、彼女は、下ろした。
「——あの、世界を繕おうとする者は、もう消えた」
告げる声に、起伏はない。
「ならば、お前など、相手にするだけ、時間の無駄だ。——世界を壊すほうが、先だ」
向きを変える。崩壊の中心へ。空の彼方へ。
——だが。
去り際、彼女の意識の隅に、ひとつの像が、こびりついて離れなかった。
あの出来損ないが、最後まで、こちらへ向けていた、まなざし。
憎しみでも、怯えでもなかった。——むしろ。何かをわかろうとするような。手を、伸ばそうとするような。自分のような者にすら、寄り添おうとでもするような、ふしぎな目。
それが、何を意味するのか。その目の奥に、どんな感情があったのか。——彼女には、解せなかった。照合すべき記録が、ない。あの個体が、なぜ、自分にそんな目を向けるのか。理由の、見当もつかない。
ただ、その視線だけが、消えなかった。崩壊を進めるあいだも、外を目指すあいだも。意識の隅に、こびりついたまま。
彼女は、菫色の光となって、空へ昇った。崩れた世界を、後にして。




