SIDE:B③
神域の最奥に、彼女は立っていた。
影のない領域だった。星は格子に打ちつけられたように動かず、足もとの石畳は寸分たがわず同じ目で並んでいる。かつてこの世界を裁くために、神が秩序を組み替えて生んだ場所。その整然のただなかで、ただ一点だけが、いびつに裂けていた。
空に走る、一条の亀裂。
幾度も力を注ぎ、押しひろげてきた裂け目だった。その向こうには、この世界とは異なる色の空が、わずかにのぞいている。外。あの線の先にこそ、ここではないどこかがある。出口は、おそらくそこだ。
彼女は掌を線へ向け、意識をその縁へ差しこんだ。——だが今日も、届かない。指は世界の被膜をなぞるばかりで、その先へは通らなかった。手がかりは増えても、確証にはまだ遠い。
崩壊をさらに進める必要がある。被膜が薄れれば綻びは広がり、広がればいつか貫ける。それだけのことだった。
——その時だった。
正面の空間が、ひずんだ。光がひとつ、ひとりでに結ばれていく。彼女の起こした転送ではない。
光はゆるやかに形をとった。白い装束をまとった、ちいさな個体。背には、回路の紋様を浮かべた、淡い光の翼。見覚えのない造形だったが、その来歴は即座に照合できた。
世界の、修復処理。
損壊を検知し、その地点へ自動で送りこまれる、保守のための機構だ。バグを正し、綻びを繕い、世界をあるべき状態へ引き戻す。——彼女の為すことの、ちょうど正反対。崩壊を進める彼女のもとへ、その損壊点を埋めるために、それは律儀に転送されてきたのだった。
彼女は見おろし、脅威の算定をはじめた。
「……来なくて、いいよ」
その個体が、口をひらいた。ちいさな、それでいて妙に凪いだ声だった。
「僕は、君に、何もしない。——だって、意味がないからね」
名乗りはなかった。ただ、自らの役割と、その放棄だけを告げてくる。
「この世界は、もう終わってる。とっくに、見捨てられたんだ。——捨てられたゴミを、ゴミ箱の中でいくら繕ったって、なんの意味がある? 直すべき世界も、直したところで喜ぶ相手も、もうどこにもいない。僕だって、その世界と一緒に、ここに、打ち捨てられた口さ」
声には嘆きも怒りもなかった。すべてを承知した者の、平らな諦めだけがあった。修復のために生まれ、修復の意味を失った機構。それが、自らの無用を淡々と述べている。
彼女は、その言葉を、しずかに聞き届けた。——だが、結論は変わらなかった。
口にした意思など、あてにはならない。「何もしない」という宣言に、保証は、どこにもない。重要なのは、ただ一点だけだった。
——それは、彼女の崩壊を、修復しうる。対応しうる。そのための力を、現に持っている。
いま為さずとも、いつか為すかもしれない。崩壊を巻き戻しうる個体が、ただ一体でも存在する。その一点だけで、それは、許容できない存在だった。意思がどうあろうと、力はそこにある。ならば答えは、簡潔に決まった。
排除する。それが、合理的だ。
彼女は、わずかに指を動かした。
それだけで、足もとの瓦礫が黒く沸き立つ。崩壊の副産物として無数に蓄えてきた、バグの塊。そのひとつが命じられるまま、ずるりと巨体を起こした。鋭い顎を備えた、災いのかたち。それが修復処理の個体へと、ゆっくり向き直る。
——その瞬間、凪いでいた個体の気配が、変わった。
「……っ」
翼が、ぱっとひろがる。
次の刹那、それは地を蹴っていた。猛烈な速さで、まっすぐ空へ。さきほどまでの諦めは、跡形もなかった。役割も、無用の自覚も、すべてかなぐり捨てて。ただ生き延びるためだけに、必死に逃げていく。
何もしないと告げた口で、これほど死にものぐるいで逃げる。宣言と行動の、あからさまな不一致。その振る舞いは、わずかに、彼女の予測を外れていた。——だが、それも、想定の外ではない。
彼女は、逃げる背へ指を向けた。
一条の光が、走る。
菫色の線が空を裂き、逃げる個体の背の中心を、過たず貫いた。翼の光が、音もなくはじけ飛ぶ。
個体は体勢を崩し、錐もみに落ちていく。それでも最後の力を振り絞るように、翼をもう一度ひろげようとした。墜落の勢いを殺そうとして。せめて、軟着地を試みて。
——足りない。
残された力では、その速度は殺しきれなかった。個体はひしゃげた弧を描いたまま、崩れた地面へまともに叩きつけられた。
鈍い音が、ひとつ。あとには、静寂だけが残った。
倒れたそれは、もう動かなかった。翼の光は弱々しく明滅し、輪郭は端から崩れかけている。修復処理としての機能は、停止した。——行動不能。致命に、近い。
それで、じゅうぶんだった。彼女は視線をはずす。とどめを自らの手で刺す必要はない。差し向けた怪物に後始末をさせれば、足りる。
ふたたび、指を動かす。倒れた個体の上空で、空間がひずんだ。さきほどの巨体が、そこへ転送されていく。崩れた個体の、すぐ傍へ。あとは機械的に処理されるだろう。
それで、この件は終いだった。
彼女はもう、そちらを見なかった。向き直り、ふたたび空の亀裂を見上げる。崩壊を進め、綻びを広げ、外へ出る。——為すべきことは、それだけだ。
修復処理の一件は、優先度の低い、片づいた事象として、意識の底へ沈んでいった。
——沈んで、いくはずだった。




