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どれだけ、見つめあっていただろう。
崩れた世界のまんなかで。同じ顔をしたふたりだけが、向きあっていた。片方は、掌をこちらへ向けたまま。けれど、その掌から菫色の光は、もう放たれない。空いたほうの手で胸もとを強く押さえて。いまにも泣きだしてしまいそうな顔で。
ラヴィは、その表情から目を離せなかった。なにか声をかけたい。そう思うのに、言葉が見つからない。
——と。
ふいに、もう一人のわたしが、ぎゅっと目を閉じた。
胸を押さえた手に、いっそう力がこもる。眉が苦しげに寄せられた。それから、低く。吐き捨てるように、その声がもれた。
「……くだらない」
ラヴィには、わからなかった。なにが、くだらないのか。だれに、言っているのか。——けれど、その横顔は、まるで自分で自分を責めているみたいに見えた。
もう一人のわたしが、ゆっくりと顔をあげる。
そこにはもう、さっきまでの揺らぎはなかった。菫色の瞳が、ふたたびつめたく凪いでいる。
「……その、世界を繕おうとする者は、もう、消えた」
その言葉に、ラヴィは、はっとした。——この子のことだ。いま、わたしの内側で眠っている、あの子の。
「ならば、お前など、相手にするだけ時間の無駄だ」掌が、すっと下ろされる。「世界を壊すほうが、先だ」
それは、ラヴィを見逃したのでは、ない。取るに足らない、と——そう言い張っていくみたいだった。まるで、自分で自分に言いきかせるように。
前に、なすすべもなく打ちのめされた、あのとき。わたしを切り捨てた、あの心底どうでもよさそうな目。——今日のあの人は、たしかに、どこか、ちがっていた。
「待っ——」
ラヴィが手を伸ばしかけた、そのときには。
もう一人のわたしの体は、もう菫色の光にほどけはじめていた。輪郭が、ほろほろと星屑のように散っていく。光はふわりと宙へ昇ると、崩壊のいちばん濃い空のかなたへ——一筋の長い尾を引いて、飛び去っていった。
その背を、ラヴィは、伸ばしかけた手をおろせないまま、見送った。胸の奥に、ふしぎな心地が残っている。怖い相手だったはずだ。何度も打ちのめされた相手。なのに——最後に見た、あのいまにも泣きだしそうな顔が、どうしても頭から離れなかった。
あとには、しん、と。崩れた世界の静けさだけが、残された。砕けた残骸のあいだを、灰色の風が、ひゅう、と吹き抜けていく。
「……行っ、ちゃった」
ぽつり、と。ラヴィの口から、声がこぼれる。
そのとたん。張りつめていたものが、ぷつりと切れた。ささえを失ったみたいに、膝から力が抜ける。ラヴィは、その場にぺたんと座りこんだ。地についた指の先が、まだ、こまかく震えている。
生きて、いる。——みんな、無事だ。守れた。ちゃんと、守りきれた。
「ラヴィー!」
胸の奥から、ミューが飛び出すみたいに、声をあげた。「よかったぁ……っ。ほんとに、ほんとに、よかったよぉ……っ」
「……無茶を、しやがって」
ネオンの、ぶっきらぼうな声。けれど、いつもよりずっと、やわらかい。「だが——よく、立った。お前は、強くなったよ」
つよく、なった。その言葉が、じんわりと胸に沁みていく。
——あの、もう一人のわたしと、はじめて出会ったとき。わたしは、ミューを庇うことしかできなかった。守られて、かばわれて、ただ打ちのめされて。地面に、泣き伏せていた。
でも、今日は。
ちゃんと、立っていられた。立ち向かって、守りきれた。
「立派だったよ、ラヴィ」カトレアの、しずかな声。「胸を、張っていい。——君は、ほんとうに、よく戦った」
ラヴィの目に、じわりと熱いものがにじんだ。けれど、それはもう、くやし涙ではなかった。
——どれくらい、そうしていただろう。
崩れた地を離れ、傾いだ壁の陰まで、ラヴィは、よろよろと歩いてきた。冷たい石壁に背をあずける。体じゅうの傷は、ヒールであらかた、ふさがっている。けれど、芯に居すわった疲れだけは、どうにも抜けてくれなかった。
ふと、あの子のことが気にかかった。
ラヴィは、そっと目を閉じる。そして、意識を、ふかく、ふかく——胸の奥の世界へとしずめていった。
気がつくと、ラヴィは、メゾン・ド・ラヴィの薄明かりのなかに、立っていた。
戦いのあとの、しずかな空気。みんなの暮らすこの胸のなかの世界は、外の崩壊が嘘みたいに、おだやかなままだった。ほのかな灯りが、壁をやわらかく照らしている。その、いちばん奥の片すみ。あたらしくこしらえたちいさな寝床に、あの翼の子は、眠っていた。
淡い光の翼を、背にちょこんとたたんで。さっきまで、あんなにぼろぼろだった体は、ここへ来てすっかり、もとどおりになっている。傷ひとつ、ない。ただ——ふかく、ふかく、眠っていた。
「……まだ、起きないの」
枕もとに、ちょこんと座ったミューが、心配そうにラヴィを見上げる。
そう。眠ったまま、なのだ。
ミューのときは、取りこんで、すぐに目を覚ました。ラヴィに飛びついて、笑って、泣いて、おおさわぎして。けれど、この子はちがった。もう、ずいぶん経つというのに。固く閉じたまぶたは、ぴくりとも動かない。
「……どうして、起きないんだろう」
ラヴィは、寝床のかたわらに膝をついた。そして、ふとんからこぼれた、その小さな手に、そっと自分の手を重ねる。あたたかかった。ちゃんと、生きている。それなのに。
「ねえ、ピア」ラヴィは、となりに立つピアを見上げた。「この子……どこか、わるいのかな」
ピアは、腕を組んで、眠る子をじっと見おろしていた。
「……はて、のう」めずらしく、その声は歯切れがわるい。「正直に言えば、儂にも、よくはわからん。この子はどうも、儂らとは、すこしつくりがちがうらしくてな。お前のヒールが効かなんだのも、たぶん、そのせいじゃろう」
つくりが、ちがう。
「じゃが、なぜ目覚めぬのかまでは、儂にも見当がつかん」ピアは、ちいさく首を振った。「……ま、命に別状はなさそうじゃ。いまは、ゆっくり眠らせておくしか、あるまいよ」
ピアにも、わからない。——その事実が、なんだか、ラヴィの胸をしんとさせた。
ラヴィは、眠る子の手を、もう一度、やさしくにぎりなおす。
——あなたは、だれなんだろう。
どうして、ひとりで、あんなところで戦っていたんだろう。どうして、わたしを、あんなにこわがって拒んだんだろう。なにを知っているんだろう。——わからないことばかりだ。
それでも。
「だいじょうぶ」
ラヴィは、やさしく囁いた。「ここは、あったかいよ。みんな、いる。——だから、安心して。ゆっくり休んでね」
目が覚めたら、いっぱい話そう。あなたのことを、もっと知りたいから。
ラヴィは、そっと立ちあがる。そして、ふたたび、意識を外の世界へと浮かびあがらせた。
傾いだ壁の陰。灰色の風。崩れかけた現実の世界が、まぶたの裏から、ゆっくりと戻ってくる。
ラヴィは、のろのろと空を見上げた。
崩れかけた、灰色の天。その、いちばん奥。あの、もう一人のわたしが消えていった、空のかなた。崩壊が、もっとも深く渦を巻く、その先に。手を伸ばせば届きそうな一筋の線が、いまも、しずかに走っている。
——また、あの人と、向きあう。
その予感は、ふしぎなほど、はっきりとラヴィの胸にあった。いつか、なんていう遠い話じゃない。きっと、すぐにでも。もう、すぐそこまで来ている。
そのときは。ただ、立ち向かうだけじゃ足りない。
あの、いまにも泣きだしそうだった顔の、ほんとうのわけを。あの人が、どうして世界をこわそうとするのかを。——そして、わたし自身が、いったい何者なのかを。ぜんぶ、知りたい。
ラヴィは、胸もとに、そっと手をあてた。
眠る天使も。ミューも、ネオンも、ピアも、カトレアも。——みんな、いま、たしかにここにいる。あたたかくて、たしかな、ひとつの重みとして。
ふしぎだった。
あんなに、こわかったはずの相手。何度も打ちのめされた相手。それなのに、いまは——あの、菫色の瞳の奥で、ふいにゆれた。あの、泣きだしそうな色。あの人と、ちゃんと話がしてみたい。そう願っている自分が、たしかに、いた。
ラヴィは、崩れた世界の奥に走る、あの一筋の線を、まっすぐに見すえた。




