04_鏡像
きゅるる、と。
間の抜けた音が鳴った。
ラヴィは足を止めた。今のは、何だろう。あたりを見回す。けれど、音はもう一度、今度ははっきりと、自分の体の真ん中から響いた。
きゅるるる。
お腹だ、とようやく気づく。
さっきまで、命がけで逃げていた。巨大な影に追われ、足場の崩れる音を背に、息も絶え絶えに駆けていた。その緊張がこの間の抜けた音ひとつで、ふっと抜けていく。張りつめていたものが、急におかしくてたまらなくなった。
ピキピキが、ふわりと近づいてきて、ラヴィのお腹のあたりをきょとんと見つめた。
「……お腹が、すいたみたい」
言ってみて、自分でも少し驚いた。
食べた記憶なんて、ひとつもない。何かを口にした覚えも、味の記憶も、まるでないのだ。それなのに、体は知っていた。空腹というものを。満たされていない、という感覚を。
ヒールのときと、同じだった。脱兎のときとも。自分の中には、自分の知らない「知っていること」がいくつも眠っている。それを見つけるたび、最初はただ不思議だった。けれど今は——お腹を鳴らしながらそれに気づくのは、なんだか少しだけ可笑しかった。
「何か、食べられるところ……あるかな」
ピキピキが、まかせて、とでも言うように、ついと先へ浮かんでいく。ラヴィはその小さな案内人のあとを追った。
しばらく行くと、屋根のある一角に出た。
崩れかけてはいるが、ずらりと棚の並ぶ、市場のような場所だった。布の日よけは破れ、値札の文字はかすれ、人の姿はどこにもない。それでも、棚のいくつかには、瓶詰めや乾いた木の実、保存のきく品がまだ残されていた。かつて、ここに賑わいがあったのだ。その気配が埃のように、薄く積もっている。
ラヴィは、ふと、棚の片隅にあの淡い光が漂っているのに気づいた。
手を伸ばし、触れる。
《収穫祭イベント、みんなで周回したの楽しかったな》《わかる、限定スイーツ集めるの必死だった笑》《次のアプデでもまた集まろうね》
声が流れ込んでくる。笑いを含んだ、あたたかなやりとり。知らない言葉ばかりで、意味は半分もわからない。それでも、誰かと誰かが楽しげに言葉を交わし、また集まろうと言い合っている——その温度だけは、まっすぐに胸へ届いた。
ラヴィは静かに目を閉じた。
食べる、ということ。それは、ただお腹を満たすだけのことではないらしい。誰かと分け合うこと。同じものをおいしいと笑い合うこと。集うこと。この、もう誰もいない市場には、かつて、そういう温度が満ちていたのだ。
——と。
ラヴィは、目を開けた。
少し離れた棚のそばで、ピキピキが別の光のかたわらに、ぴたりと止まっていた。
いつものふわふわした漂い方とは、どこか違う。何かに引き寄せられるように、その小さな光をじっと見つめている。やがてピキピキは、そっとその光を吸い込んだ。
一瞬。
ピキピキのつぶらな目に、見覚えのない色がよぎった。遠くを見るような、何かを思い出そうとするような——ラヴィの知らない、ピキピキの奥の、深いところの色。
「ピキピキ?」
声をかけると、その色はすっと消えた。ピキピキは、はっと我に返ったように身を震わせ、それから、いつものように、ラヴィのもとへふわふわと戻ってきた。
なんだったんだろう、とラヴィは少しだけ思った。けれど、ピキピキがいつもどおりに見えたので、それ以上は気に留めなかった。きっと、ピキピキにも、ピキピキだけの何かがあるのだろう。
そのとき、ピキピキが急にラヴィの頭の上を指して、ぴょこぴょこと跳ねはじめた。
「ピキ! ピキ!」
「え、なに?」
「ピキピキ!」
何かをしきりに訴えている。ラヴィは、おそるおそる自分の頭に手をやった。
——けれど、指は何にも触れなかった。
たしかに、ピキピキは頭の上のあたりを指している。それなのに、手のひらは髪をかすめるだけで、何もないところをすうっとすり抜けてしまう。何度やっても、同じだった。そこに何かが「ある」はずなのに、つかむことも、撫でることも、できない。
「……なにも、ないけど?」
ピキピキは、ちがうちがう、とでもいうように、ぶんぶんと身を振って、また頭の上を指す。たしかに、あるらしい。けれど、自分では見えないし、触れもしない。
ピキピキが、ついてきて、とばかりに、棚の奥へ飛んでいく。そこには、半分だけ割れずに残った鏡が立てかけられていた。
ラヴィは、その前に立った。
そして——息をのんだ。
自分の姿を初めて目にした。
鏡の中に、女の子がいた。
淡い色の、長い髪。腰のあたりまで、まっすぐに流れている。光の加減で、ほんのり桃色にも、すみれ色にも、淡い水色にも移ろう不思議な色合い。夜明けまえの空をひとすじ溶かしこんだような、つめたさとあたたかさの入りまじった色だった。白い肌は、うっすら透きとおって見えるほどで、触れたら指がすり抜けてしまいそうな儚さがある。
赤い、まっすぐな瞳。その瞳は、どこか寂しそうだった。頭のてっぺんでは、うさぎのような大きな耳がぴんと立っている。やわらかな毛におおわれ、根もとがほのかに色づいていた。
身にまとうのは、淡い水色とピンクを基調にした、ふわりとした衣装。裾やリボンのあちこちで、こまかな飾りが星屑をちりばめたように、ちらちらと光っていた。
そして、その大きな耳のあいだに——ちょこんと。
小さな、人参のかたちをした飾りが乗っていた。さっき、手では触れられなかったものの正体がこれだった。
「これが……」
ラヴィは、そっと自分の頬に触れた。鏡の中の女の子も、同じように頬に触れる。
「これが、わたし」
名前を得て、声を知って、好きも嫌いもまだ知らないまま歩いてきた。けれど今、ようやく自分の「顔」を手に入れた。鏡の中の自分をラヴィは、しばらくのあいだ、じっと見つめた。
少し、不思議だった。少し、照れくさかった。それでも——なぜだろう、この頼りなげで寂しげな女の子のことが、ラヴィにはなんだか愛おしく思えた。
頭の人参が自分の動きに合わせて、ちょこんと揺れる。それが可笑しかった。
「……変なの」
くす、と、笑みがこぼれた。
さて、と。お腹はまだ鳴っている。
ラヴィは棚に戻り、食べられそうなものをいくつか選んだ。ピキピキも、何か食べるだろうか。そう思って、木の実をひとつ差し出してみると、ピキピキはちゃんと小さな口を開けて、ちまちまとそれをかじりはじめた。
「食べられるんだ」
なんだか、嬉しかった。同じものを、同じように食べられる。それだけで、ぐっと距離が近づいた気がした。
ラヴィも、瓶詰めの果実をひとつ口に運んだ。
——あまい。
その瞬間、胸の奥がぱっと明るくなった。なんだろう、この、ほっとするような、もっと欲しくなるような感じ。甘いものが、自分は好きらしい。なぜだか、強く、惹かれる。
つづけて、別の干した実をかじってみる。
「……っ」
今度は、にがかった。思わず、顔がくしゃっと歪む。舌の上に残る苦みに、ラヴィはぶるりと首を振った。
それを見て、ピキピキがピキピキピキッ、と弾けるような声で、宙をくるくる笑い転げた。
「笑わないでよ」
そう言いながら、ラヴィもつられて笑ってしまった。
好き。きらい。
たったそれだけのことが、空っぽだった胸に、ひとつ、またひとつと、線を引いていく。これは、自分の「好き」だ。これは、自分の「きらい」だ。誰のものでもない、ラヴィだけの、輪郭線。
ふと、棚の隅に転がっているものに目が留まった。
人参だった。
頭の飾りと、同じかたち。ラヴィは、なんとなくそれを手に取った。少し迷ってから、しゃくり、とひと口、かじってみる。
——やっぱり、好きだった。
しゃくしゃくとした歯ごたえと、ほのかな甘み。胸がほこほことあたたかくなる。うさぎだから、なのだろうか。それとも、ただ自分がそうなのか。理由は、わからない。けれど、わからなくても、よかった。
「好き」が、またひとつ増えた。それで、十分だった。
最後に、ラヴィは、ひときわ大きな焼き菓子のようなものを見つけて、それを半分に割った。
「はい、ピキピキ。半分こ」
片方を差し出すと、ピキピキは嬉しそうに受け取った。ふたりで、同じものを同じ場所で食べる。おいしいねと、言葉にはならなくても、たしかに通じ合いながら。
さっき、光の声たちが言っていた。また集まろうね、と。
その気持ちが今なら少しだけ、わかる気がした。誰かと分け合う食事は、こんなにも胸をあたためる。逃走でこわばっていたものが芯から、ゆっくりと、ほどけていった。
満ちたのは、お腹だけではなかった。
知ったのだ。自分には、好きなものがあること。嫌いなものがあること。こういう顔をしていること。そして——誰かと分け合うごはんがあたたかいということ。
世界を知る旅は、きっと自分を知る旅でもあるのだ。
ラヴィは、それをこの小さな食卓で、はっきりと胸に刻んだ。知りたいのは、世界のことだけじゃない。自分が何者なのか。何を好み、何を厭い、何を抱えているのか。その答えも、きっとこの旅の先に待っている。
「……行こうか、ピキピキ」
満たされたお腹をさすって、ラヴィは立ち上がった。
ピキピキが、元気よくくるりと宙を舞う。
ふたりは、市場をあとにした。胸にひとつ、あたたかな手応えを抱いて。




