03_脱兎
ふたりの歩みには、いつのまにかささやかなリズムが生まれていた。
ラヴィが光を見つけて手を伸ばす。声が流れ込み、言葉が積もる。そのあいだ、ピキピキはかたわらをふわふわと漂い、ときおり進む先へ先回りしては、こちらを振り返る。崩れかけて危うい道に差しかかると、ピキピキは行く手をふさぐように浮いて、「ピキ、ピキ」と短く鳴いた。あっちはだめ、と言っているのだと、ラヴィにはなぜだかわかった。
「こっちだね。ありがとう」
そう声をかけると、ピキピキは得意げにくるりと宙を回った。
それは、ささやかな奇跡のようなことだった。光の声たちは、ラヴィを見てはくれなかった。けれどピキピキは、こちらを見て、こちらの言葉に応える。言葉は通じないのに、たしかに通じ合っている。一方通行だったこの世界に、初めて行き来するものが芽生えていた。
胸の空白は、まだ大半が空白のままだ。それでも、歩くたびに、隣に小さな気配があることが、ラヴィの足取りをほんの少しだけ軽くしていた。
——その光景に出くわしたのは、ひとつの角を曲がったときだった。
ラヴィは、足を止めた。
道の先。崩れた広場のような場所に、小さな虫たちが群れていた。
ピキピキとは違う。翅もなく、紋様もなく、ただ黒く、ちらちらと明滅する、不格好な虫の影。それが何十、何百と折り重なって、地面を、壁を、あたりかまわずかじっていた。
かじる、としか言いようがなかった。
虫が触れたところから、世界がぼろりと欠けていく。石畳が砂のように崩れ、壁の模様がほどけて消える。色が失せ、輪郭がにじみ、そこにあったはずのものがただの無へと喰い荒らされていく。虫たちに、悪意はなかった。怒りも、目的も、何もない。ただ本能のままに、そこにあるものを際限なく削り取っていく。災害が意思を持たないのと同じように。
ラヴィは、その光景を、言葉もなく見つめた。
世界が、壊れていく。
崩れかけた壁も、にじんだ通路も、途切れた道も——あれは、こうして起きていたことなのか。誰の手によるものでもなく、ただ、こういう小さなものたちが、静かに世界をほどいていたのか。
胸の奥が、ざわついた。なぜとはわからない。けれど、見ていられないような、悲しいような、奇妙な痛みがそこにあった。
ふと、腕のあたりで空気が震えた。
ピキピキだった。
小さな体を縮めて、ラヴィのすぐそばにぴたりと身を寄せている。その輪郭がかすかに、ちらついていた。出会ったときの、あの傷ついた明滅とは違う。これは——おびえだった。
ピキピキは群れる虫たちを見ていた。そして、自分の体を見て、ラヴィを見た。
ラヴィには、その仕草の意味が痛いほどに伝わってきた。
——じぶんも、おなじ。
ピキピキもまた、虫だった。世界をかじり、壊していく、あの黒い虫たちと、おそらくは根を同じくするもの。ピキピキは、それを知っている。そして、おびえている。あんなにも世界を傷つけるものを、ラヴィがどう思うのか。自分もまた、あれと同じものとして見られてしまうのではないか——と。
何か言わなければ、とラヴィが思った、そのときだった。
地面が、揺れた。
群れの中心が、ぐぐ、と盛り上がる。折り重なった黒い虫たちが、たがいに溶け合い、絡み合い、ひとつの大きな塊へとせり上がっていく。
それは、立ち上がった。
ラヴィの背丈の三倍はあろうかという黒い巨体。明滅する無数の脚。輪郭は定まらず、たえずぐずぐずと崩れ、また形を変える。顔はなかった。目もなかった。ただ、その正面がぽっかりと、ラヴィのほうを向いた。
意思は、感じられなかった。
憎しみも、飢えすらも、そこにはない。ただ——近くにある「在るもの」を、削り取ろうとする、まっすぐな本能だけがこちらへ向けられていた。
巨体が、動いた。
ラヴィはとっさに身構えた。
向き合って、立ち向かおうとした。けれど、その瞬間——体の奥で、何かがぎしりと軋んだ。
戦う。その意思が、自分の輪郭を内側から歪ませた。手が、足が、形を保てなくなりかける。視界の端が、あの黒い虫のようにちらりとほどけた。
——だめだ。
理屈ではなかった。体が、知っていた。自分は、戦えない。抗おうとすれば、壊れるのは、世界ではなく、自分のほうだ。
迫りくる巨影。崩れていく足場。
考える時間は、なかった。
ラヴィは、腕を伸ばし、おびえて固まっていたピキピキを、ぎゅっと胸に抱き込んだ。小さな体を、両腕ですっぽりと包む。この子だけは、傷つけさせない。それだけが、頭の中ではっきりとしていた。
そして——胸に、言葉が、浮かんだ。
——脱兎。
ヒールのときと、同じだった。どこから来たのかもわからない。けれど、なぜか知っていた。それが何をする力なのかを。
次の瞬間。
ラヴィの体が、はじけるように地を蹴った。
——速い。
自分の体が、自分のものでないように軽い。たった一蹴りで、石畳が後方へ吹き飛び、視界がぐんと前へ伸びた。背後で、巨体の一撃が、さっきまで立っていた地面を轟音とともに抉る。砕けた石畳の破片が雨のように降りそそぎ、ラヴィの髪をかすめて飛んでいった。
振り返らない。ただ、前へ——そして、上へ。
町はゆるやかな斜面に沿って築かれていた。逃げるなら、高いほうへ。入り組んで、あの巨体が容易には追えない高みへ。考えるより先に、体がそう選んでいた。
行く手を崩れかけた石壁が阻んだ。乗り越える時間はない。ラヴィは、迷わずその壁を蹴った。爪先が壁面を捉えた一瞬、体が斜め上へ跳ね上がる。すかさず、狭い路地をはさんだ向かいの壁をもう一方の足で蹴り返す。壁から壁へ、ジグザグに跳ねるように高度を上げていく。腕の中のピキピキを抱えたまま、両足だけで宙を渡るたび、眼下の路地がぐんと遠ざかっていった。
すぐ後ろで、世界が壊れていく音がした。
巨体が、追ってくる。崩れかけた塀をなぎ倒し、打ち捨てられた露店を踏み砕き、行く手のものを手当たりしだいに押しのけながら、まっすぐに。砕けた木材や石くれが地響きとともに、後ろへ跳ね散った。
ラヴィは、屋根から屋根へと跳んだ。
傾いた瓦屋根を駆け上がり、その勾配を蹴って、ひとつ上の屋根へ。踏んだそばから瓦が滑り落ち、足場は沈んでいく。沈みきる前に、次へ。また次へ。町は段をなして高みへせり上がり、ラヴィはその一段一段を跳ね上がるように駆けのぼっていった。
風が耳元で唸った。
跳ぶたびに、巨体の地響きが、足の下へ少しずつ遠ざかっていく。眼下を、傾いだ屋根の連なりが猛烈な速さで後ろへ流れ去る。けれど、景色を眺める余裕などなかった。ただ、高みへ。腕の中で、ピキピキがぎゅっと身を縮めた。だいじょうぶ——胸の奥でそう呟いて、ラヴィは小さな体をいっそう強く抱きしめた。
最後に、ひときわ高い屋根の頂を蹴って、ラヴィは宙へ躍り出た。
建物の壁から張り出した、崩れかけたバルコニーの上にふわりと降り立つ。みしり、と床板が軋み、踏み抜いたそばから後方へ崩れ落ちていく。ラヴィは、その崩落に背を押されるように、また手すりを蹴って跳んだ。
走った。息が切れても、走った。壁を蹴り、瓦礫を跳び、屋根から屋根へと、ひたすら高みを目指して、まるで風そのものになったように。
やがて、たどり着いた高みの一角で、ラヴィは崩れた建物の影に、すべりこむように身を隠した。
息をひそめ、そっと来た道のほうをうかがう。
——そのときだった。
あれほど地を揺らし、世界を喰らっていた巨体が、追ってくるそのさなかに、自分から崩れはじめていた。走るたび、明滅する輪郭がぼろぼろと端からほどけ、黒い破片になって剥がれ落ちていく。世界をかじっていたものが、こんどは自分の形すら保てなくなっていた。やがて巨体は、つんのめるように崩れ落ち——乾いた砂が風にさらわれるみたいに、跡形もなく散って、消えた。追ってくる足音も、地鳴りも、もう聞こえない。あとには、崩れかけた静寂だけがぽつんと残されていた。
ラヴィは、その場にへたり込んだ。胸が激しく上下する。それでも、生きていた。ふたりとも、欠けることなく、ここにいた。
「……だいじょうぶ。もう、だいじょうぶだよ」
腕の中に、そっと目を落とす。
ピキピキは、まだ震えていた。
けれど、その震えは、もうあの巨大な怪物への恐怖だけのものではないようだった。ラヴィの腕の中で、小さく身を縮めたまま、ピキピキは、こちらを見上げようとしては、ためらうように、目をそらした。
ああ、とラヴィは思った。
この子は、まだおびえている。
あの黒い虫たちを——世界を壊していくものたちを、ラヴィが見たことを。そして、自分もまたあの虫たちと同じ類のものなのだということを。だから、こわいのだ。いつか、ラヴィにあれと同じものとして見られてしまうことが。置いていかれてしまうことが。
言葉は、通じない。
それでも、伝えたかった。
ラヴィは、腕の力をほんの少しだけ強めた。壊れもののように、けれど、たしかにここにいると伝わるように、小さな体をそっと抱きしめる。
「きみは、あれとは、ちがうよ」
静かに、言った。
「あの子たちは、ただ、こわしていくだけ。でも、きみは、わたしに道を教えてくれた。あぶないところを、教えてくれた。さっきだって、わたしのそばに、いてくれた」
ピキピキの震えが、ふと、止まった。
「きみは、ピキピキだ。もう、わたしの、ともだちだ。——だから、どこにも行かない。わたしは、きみを、置いていったりしない」
言いながら、ラヴィは奇妙なことに気づいていた。
この言葉は、ピキピキに向けたものだ。それなのに、口にするたび、なぜか自分の胸のいちばん柔らかいところにもしずかに沁みていく。まるで、ずっと誰かにこう言ってほしかったみたいに。置いていかない、と。きみは、いていいのだと。
どうして自分がそんなふうに感じるのか、ラヴィにはわからなかった。記憶のない胸の奥から、ふいに滲んでくるその想いは、けれど、今この瞬間、たしかに本物だった。
ピキピキが、ゆっくりと顔を上げた。
つぶらな瞳がラヴィを見つめる。そこから、おびえの色がすうっと引いていく。かわりに浮かんだのは、安堵と——それから、出会ったときよりもずっと深い、まっすぐな信頼の光だった。
ピキピキは、ラヴィの腕の中からふわりと浮かびあがった。そして、頬のあたりに、そっとすり寄せるように身を寄せてから、いつもの定位置——かたわらの宙へと戻っていった。
もう、震えてはいなかった。
ラヴィは、ふっと息をついた。それから、立ち上がる。
隠れていた建物は、ちょうど小高い丘の上に立っていた。崩れた壁の切れ目から、視界がひらける。
そして、ラヴィは——改めて、この世界の広さを目の当たりにした。
どこまでも、続いていた。
ガラスの塔と石の館が肩を並べる街並みが、幾重にも折り重なって地平へと伸び、その果てに、なだらかな城の影がそびえている。緑の森が、荒れた野が、見たこともない景色が、つぎはぎのように敷き詰められ、どこまでも、どこまでも広がっていた。そして、その上に架かる空には——あの一筋の亀裂が、地平の彼方まで長く長く、走っていた。
知るべきことは、想像していたよりもずっと多い。
この広い広い世界の、まだほんの片隅にいるだけなのだ。自分が何者なのかも、この胸の痛みの正体も、答えはきっと、この景色のどこかに散らばっている。
それでも、ラヴィはおびえなかった。
名前を、得た。ともだちが、できた。胸の空白は、まだ大半が空白のままだ。けれど、ひとつずつ埋めていけばいい。一歩ずつ、知っていけばいい。
「もっと、知りたいな」
ぽつりと、こぼれた。
それは、この世界に目覚めてから、初めてはっきりと胸に灯った、自分だけの願いだった。知りたい。だから、行く。それが、自分が自分に近づいていく、たったひとつの道なのだから。
——そのとき。
長い耳が、ぴくり、と動いた。
遠い空の、ずっと彼方。
光の声たちの、あの淡い瞬きとは、まるで違う。もっと強く、もっと——異質な、何かのゆらぎがそこにあった。世界の果てで、何かが静かに脈打っている。それが何なのか、ラヴィにはまだわからない。
けれど、その気配はたしかにラヴィの胸の奥の何かに、かすかに触れた。
ピキピキが、つられたように同じ方向を見た。
ラヴィは、しばらくその彼方を見つめていた。
それから、長い耳をひとつ揺らした。
あの遠いゆらぎが、何なのかは分からない。それでも、いつかあそこへも辿りつくのだろう。——その予感を胸に、ラヴィはピキピキとふたり、彼方へと足を向けた。




