02_ヒール
光から光へ、ラヴィは歩いた。
ひとつ触れるたびに、知らない言葉が胸に積もっていく。それらは初めばらばらの小石でしかなかったが、数を重ねるうちにおぼろげな景色をなしはじめた。
かつて、この場所にはたくさんの誰かがいたのだ。声を交わし、笑い、ときに言い争い——たしかに、生きて、息づいていた人たちが。今はもう、どこにもいない。その気配の余韻だけが、こうして淡い光になって漂っている。
それが、なぜなのか。どうして、みんないなくなってしまったのか。考えても、わからない。わからないことがまた少し増えただけだった。
それでも、足は止めなかった。知らないことが増えるのは、こわくなかった。むしろ、空白だった胸に何かが満ちていく感触はどこか心地よくさえあった。
——と。
足が、止まった。
音がした。光のたてる、あの呼吸のような揺らぎとは違う。もっと小さく、もっと切実な、何かが軋むような音。
崩れかけた壁の影。そのくぼみに、何かがいた。
ラヴィは、そっと近づいた。
それは、奇妙なものだった。手のひらにのるほどの、ちいさな生きもの。蜘蛛に似ている。けれど、ただの蜘蛛ではない。まるい胴から、幾本もの細い肢が伸びている。背には、薄いガラス細工のような翅がそっと畳まれていた。墨を含んだように濃いその体には、銀の糸で縫いとったみたいなこまかな紋様がぐるりと走っている。蜘蛛のようで、どこか妖精めいた、ふしぎな姿。ちいさな顔では、つぶらな目が心細げに濡れていた。
その輪郭がたえず、ちらちらと明滅していた。
ちらつき、にじみ、ときおり大きく歪んでは、また元に戻る。まるで、自分という形をうまく保てずにいるように。地面に力なくへばりつき、細い肢を震わせながら、それは弱々しく鳴いた。
「ピキ……ピキ」
壊れた信号のような、たどたどしい声。
言葉ではなかった。意味はわからない。けれど、その震えから伝わってくるものがあった。痛い。こわい。たすけて——声にならないそれがまっすぐに胸へ届いた。
気づいたときには、もう手が伸びていた。
考えたわけではない。助けようと決めたわけでもない。ただ、放っておくことがどうしてもできなかった。体が自分の意思より先に動いていた。
差し出した手のひらから、ふわりと温かな光がこぼれた。
——ヒール。
その言葉がどこからともなく胸に浮かんだ。これがそういうものだと、なぜか知っていた。なぜ知っているのかは、わからない。わからないまま、光は小さな体をやさしく包んでいった。
明滅が、和らいでいく。
ちらついていた輪郭がゆっくりと、確かな線を取り戻していく。震えが止まる。苦しげな鳴き声がふっと途切れた。
そして——
ふわり、と。
地に伏していた小さな体が、宙に浮かびあがった。
力を失って地面にへばりついていたのが嘘のように、それは軽やかに浮きあがり、しばし自分の体を確かめるように小さく揺れた。本来、こうして空を浮くものだったのだ。さっきまで地面に縫いとめられていたのは、それだけ深く傷ついていたからなのだと、ラヴィは今になって悟った。
小さな浮遊体は、おそるおそる高さを上げてきた。
そして、ちょうどラヴィの目線の高さで、止まった。
見つめてくる。
つぶらな瞳がまっすぐにこちらを向いていた。そこには、まだ警戒があった。戸惑いがあった。けれどその奥に、ほんのかすかに縋るような色が——助けてくれた相手を、おそるおそる信じてみようとする、淡い光が揺れていた。
ラヴィは、息をのんだ。
光の声たちは、いつも一方通行だった。語りかけてはくれても、こちらを見てはくれなかった。すぐそばで響いているのに、その誰ひとり、ラヴィがそこにいることを知らなかった。
けれど、この子は違う。
自分から目線を合わせ、まっすぐにこちらを見ている。ラヴィがここにいることを知っている。
死んだように静かなこの世界で、初めて出会った——目と目を交わせる誰か。
胸の奥で、ずっとくすぶっていた寂しさがほんの少しだけ、ほどけた気がした。
「……きみ」
声が自然とこぼれた。自分の声を聞くのは、これが初めてだった。思っていたより、やわらかな響きだった。
「ピキピキ」
それは、また鳴いた。やはり、それしか言えないらしい。
ラヴィは、少しだけ考えて、それからふっと頬をゆるめた。
「じゃあ、きみはピキピキだ」
名前を、贈った。
ついさっき、自分が誰かの声からそれを受け取ったように。空っぽだった胸に、たったひとつの錨が下りたように。今度は自分が、この小さなものにそれを手渡す。
ピキピキ、と名づけられたそれは、一瞬きょとんとしたように動きを止め——それから、嬉しげにくるりと宙で一回転した。そして、ラヴィのかたわらに、寄り添うようにふわりと浮かんだ。
もう、ひとりではなかった。
たったそれだけのことが、どうしてこんなに胸を満たすのか、ラヴィにはわからなかった。けれど、わからなくてもよかった。
顔を上げる。少し先の宙に、次の光が淡く瞬いている。
「行こう、ピキピキ」
ラヴィが歩きだすと、ピキピキは当たり前のように、すっとかたわらへ並んだ。小さな羽音が足音に寄り添う。
今度は、ふたりで。




