01_目覚め
目を開けた。
最初に映ったのは、石だった。
ごつごつとした岩肌が淡い光の底にぼんやりと浮かんでいる。天井は低く、手を伸ばせば届きそうなところに細い鍾乳石がいくつも垂れ下がっていた。その先端で水の雫が膨らんでは光をためこみ、やがて重さに耐えかねたように落ちていく。
ぴちょん、と床が鳴った。
その音が自分を呼んだ気がした。なぜそう思ったのかは、わからない。
体を起こす。手のひらに石の冷たさが伝わってきた。冷たい。その感触だけがやけにくっきりとしていた。ほかには何もない。どうしてここにいるのか、いつからここにいたのか、探ってみても胸の奥は空っぽで、まるで今この瞬間に世界が始まったかのようだった。
自分が誰なのかも、わからなかった。
それを寂しいと思うべきなのかどうかさえ、判断がつかない。けれど胸のどこかが、ほんのわずかにきゅっと縮んだ。その感覚に名前をつけられないまま、立ち上がる。膝が少し震えたが、倒れはしなかった。
洞窟の奥から青白い光が細く差していた。陽の光とは違う、もっと静かで、もっと頼りない輝き。それに引かれるように、一歩を踏み出す。足音が湿った闇にぽつりと響いて、すぐに吸い込まれていった。
通路はいくつかに枝分かれしていた。そのうちの一本は途中でふつりと途切れていた。壁があるわけではない。床がある一点から先、何もない暗がりへと溶け落ちている。べつの壁では、岩肌のもようがぐにゃりと滲み、絵筆で撫でられた絵の具のように、輪郭を失っていた。
ふしぎだな、と思った。
ただそれだけだった。怖くはなかった。これがあってはならないものなのか、よくあることなのか、比べる手立てを何ひとつ持っていなかったから。世界とはきっと、こういうものなのだろう。生まれたばかりの胸は、目に映るすべてをそのまま素直に受け取った。
光のさす方へ歩いていく。やがて天井が高くなり、闇が薄れ、開けた場所に出た。
外だった。
風が頬を撫でた。その瞬間、思わず立ち止まる。
目の前に、広がりがあった。
石畳の道が、幾筋にも入り組みながら伸びている。その両脇に、建物が背を並べていた。ガラスを張りめぐらせた高い塔が午後の光を鈍く照り返している。そのすぐ隣には、灰色の石を積み上げた古い館が蔦に半身を埋もれさせて佇んでいた。舗装された道の上を、苔むしたアーチ門がまたいでいる。ずっと遠くには、なだらかな稜線を描いて城がそびえ、その裾を縫うように、細い柱の列がどこまでも続いていた。
色とりどりの時間がひとつの場所で、いっせいに息をひそめているようだった。
きれいだ、と思った。
そして同じだけ、さびしい、とも思った。
これだけたくさんのものがあるのに、動くものが何ひとつない。道には枯れ葉と砂が吹きだまり、割れた窓のむこうは暗かった。誰かがいた気配だけがそこかしこに薄く残っていて、けれど、その誰かはもうどこにもいない。広い広い場所に、たったひとりきりで立っている——そのことが、なぜだかひどく胸に染みた。
どうしてこんなに胸が痛むのか、わからなかった。
誰かを待っているような、誰かに置いていかれたような、その感情がどこから来るのか、いくら探しても見つからない。まるで自分のものではない痛みを間違えて抱えてしまったみたいだった。
空を見上げる。
青い天の真ん中を、一筋の線が走っていた。線をはさんで、空の色がほんのわずかにずれている。むこう側の青は、こちら側の青より少しだけ古びて見えた。
しばらく、そのずれを見つめていた。
風が建物の隙間を抜けて、低く鳴った。それきり、また静けさが降りてくる。世界はやっぱり答えてくれなかった。
それでも、と思う。
知りたかった。ここがどこなのか。自分が何なのか。この胸を満たす、名前も知らない痛みがいったいどこから来たものなのか。
わからないなら、知ればいい。
ただ、それだけのことだった。
足を踏み出す。石畳の冷たさを靴の底に感じながら、誰もいない町のなかへ、一歩、また一歩と歩きはじめた。背の高い耳が風のかすかなそよぎを拾って、ぴくりと揺れた。
*
誰もいない町を、少女は歩いた。
石畳はどこまでも続き、足音だけが律儀についてくる。割れた窓、傾いた看板、文字の薄れた標識。それらは何かを語りかけてくるようでいて、結局は何も言わなかった。問いかけても返ってくるのは風の音ばかりで、胸の空白は歩いても歩いても埋まらなかった。
ふと、目の前で何かが揺れた。
光だった。
手のひらほどの淡い光が宙にふわりと浮かんでいる。陽の照り返しでも、灯りでもない。呼吸するようにゆっくりと明るさを変えながら、そこにあった。誰もいないはずの町で、それだけが生きているように見えた。
吸い寄せられるように、手を伸ばす。
指先が、光に触れた。
その瞬間——声が流れ込んできた。
ひとつではない。いくつもの声。聞いたこともない誰かたちの言葉が堰を切ったように胸の奥へなだれ込んでくる。とっさに身をすくめた。けれど痛くはなかった。むしろ、
——あったかい。
それは、人の声だった。
《ここのボス強すぎでしょ》《回復間に合わないって》《しらん、お前が突っ込むからだ笑》
意味は半分もわからなかった。知らない言葉ばかりだ。それでも、そのやりとりには確かな温度があった。誰かが誰かに向かって喋っている。笑っている。文句を言い合って、それでも一緒にいる。死んだように静まりかえったこの町の、どこにもなかったはずの気配がその光の中には満ちていた。
誰もいない世界で、初めて触れた、誰かの息づかい。
気づけば、もう一度手を伸ばしていた。
別の光。別の声。触れるたびに、知らない言葉が降り積もっていく。《ゲーム》《キャラ》《イベント》《実装》。それらが何を指すのか、まるでわからない。けれど不思議と、世界の手触りが少しずつ確かになっていく気がした。空白だった胸に、意味も知れない言葉がひとつ、またひとつと小石のように落ちて、沈んでいく。
どれくらい、そうしていただろう。
ある光に触れたとき、声たちはひとりの「子」の話をしていた。
《新章のうさぎの子、見た?》《見た見た、めっちゃかわいい》《耳おっきいやつでしょ。早く実装してほしい》《楽しみだなあ》《会えるの待ってる》
待っている。
会えるのを、待っている。
まだどこにもいない、これから来るはずの誰かを、この声たちは心待ちにしていた。その言葉の連なりが、なぜだかひどく胸を打った。誰かに待たれるというのは、こんなにもあたたかいことなのか。
そして、声のひとつが、その子の名を口にした。
《名前、ラヴィっていうらしいよ》
——ラヴィ。
その音が、胸のいちばん深いところに、すとんと落ちた。
理由は、なかった。根拠も、記憶も、何ひとつない。それでも、わかってしまった。揺るぎなく、確かに。
これは、自分の名前だ。
ラヴィ。わたしは、ラヴィ。
唇が声に出さずその名をかたどる。たったそれだけのことで、空っぽだった輪郭にほんのわずか、芯が通ったような気がした。初めて、自分という形に名前という錨が下ろされた。
けれど、それと同じ瞬間に、説明のつかない感情が静かにせり上がってきた。
待たれていた。会えるのを、楽しみにされていた。——なのに。
なのに、どうして自分は今こんなにも静かな世界に、誰にも待たれることなく、たったひとりで立っているのだろう。
その問いはまだ言葉にならなかった。ただ、温かさのすぐ裏側に、薄い刃のような痛みがあって、それが胸の奥をかすかに引っかいた。これもきっと、自分のものではない感情なのだろう。どこから来たのかもわからない、借り物の痛み。それでも、確かにそこにあった。
ラヴィは手のひらをそっと胸に当てた。
わからないことだらけだ。ここがどこなのかも、なぜ自分がいるのかも、この痛みの正体も、何ひとつわからない。
それでも、ひとつだけ手に入れた。
ラヴィ、という名前を。
顔を上げる。
少し遠くの宙に、次の光がぽつりと灯っているのが見えた。淡く、けれど確かに、こちらを誘うように瞬いている。あの光に触れれば、また何かがわかるかもしれない。自分が何者なのか、この世界が何なのか、その手がかりがひとつずつでも。
ラヴィは長い耳をひとつ揺らして、その光のほうへ歩きだした。
名前を、ひとつだけ抱きしめて。




