38_逃げない
崩れた空から、菫色の光が舞い降りてくる。
それは、ただ落ちてくるのではなかった。光が通ったあとの空気が、ぐにゃりと歪んで、もとに戻らない。近くの瓦礫が、ひとりでに浮きあがっては、さらさらと砂になって崩れていく。まるで、その光のまわりだけ、世界のかたちが、ねじ曲げられているみたいだった。
光が、ゆっくりと人の形をとっていく。
白いうさぎの耳。同じ背丈。同じ輪郭。同じ、顔。鏡を見ているようだった。けれど、その瞳だけが、ちがう。ラヴィのものより、ずっと冷たい。菫色に澄みきって、なんの熱も宿していない。生きているものの目には、見えなかった。
もう一人の、わたし。
地には、降りてこなかった。ほんの少し宙に浮いたまま、こちらを見下ろしている。崩れた瓦礫に立つラヴィを。その足もとに横たわる、傷ついた翼の子を。ただ浮かんでいるだけで、その姿は、抗いようのない重たい力を放っていた。
ラヴィの足が、すくんだ。
体のほうが、先に覚えていた。あの日のことを。同じ顔をしたこの存在の掌から放たれた、まばゆい菫色。なすすべもなく吹き飛ばされ、地面を転がった、あの衝撃を。膝から力が抜けていきそうになる。逃げろ、と体の奥が叫んでいた。脱兎を使えば、いまならまだ、間に合う——。
けれど。
ラヴィは、奥歯を噛みしめた。震える足に、ぐっと力をこめる。背中に、傷ついた翼の子を、かばうようにして。
——逃げない。
会いに行こうと、決めたばかりだった。自分を知るために。それが、思っていたよりずっと早く、向こうから来てしまっただけのこと。ならば、ここで向き合う。
「……来た」
足もとで、かすれた声がした。あの、翼の子だ。消えかけた目で、宙の影を見上げている。
「やっぱり……僕を、消しに……」
抵抗する力さえ、もう、残っていないようだった。
ラヴィの胸の奥でも、みんなが息を呑んでいた。
「ラヴィ……っ、あいつ、また……」ミューの声が、おびえてちいさく震える。
「……来るぞ」ネオンが、低く言った。「気を抜くな、ラヴィ」
そして——ピアが、黙っていた。
いつもの飄々としたおどけが、跡形もなく消えている。なにかを言いかけては、呑みこむ。そんなためらいの気配だけが、胸の奥に、重く澱んでいた。なんでも見透かすあのピアが、言葉を失っている。——それが、ラヴィには、なによりもこわかった。
宙に浮いたまま、もう一人のわたしが、ようやく口をひらいた。
「……またお前か」
声には、なんの起伏もない。怒りも、憎しみもない。ただ、道ばたの石ころを、ちらりと見るような目。——そのなにも感じていない目で見られることが、どんな罵声よりも、ラヴィの胸をひやりとさせた。
その視線が、ラヴィの足もとへ、すべり落ちる。
「その、世界を繕おうとする者を。——お前が、庇おうというのか」
繕う。その言葉の意味は、ラヴィには、よくわからない。けれど、相手の目が、傷ついたこの子を"消すべきもの"として見ていることだけは、はっきりと伝わってきた。
「やめて」
気づけば、声が出ていた。自分でもおどろくほど、まっすぐに。
「あなた、なの? この世界を、こんなにしているのは」
もう一人の自分は、隠そうともしなかった。
「そうだ」菫色の瞳が、こともなげに答える。「この世界は、もう要らない。私は、外へ出る。——そのために、壊している」
その言葉に、ラヴィは、ひゅっと息を呑んだ。
いま、壊している。この瞬間も。聖堂を出てから見た、加速していく崩壊。深くえぐれていく、あの遠い一帯。あれは、ぜんぶ。——目の前のこの存在が、その手で引きおこしていたのだ。
外。ふと、頭の奥を、あの空をはしる一筋の線がよぎる。あの線の、向こうへ。——そのために、この世界のなにもかもを?
「どうして、そんなこと……」ラヴィの声が、震えた。「ここには、こんなにたくさんのものがあるのに。みんなが生きてきた場所なのに……!」
その表情は、ぴくりとも動かない。
「みんな、か」ふしぎなものでも見るように、その言葉をくりかえす。「——お前には、わからない。出来損ない」
出来損ない。冷たく突き放す、その響き。前にも、聞いた。
「いいか」と、相手はつづける。歌うような、それでいて、ぞっとするほど平らな声だった。
「いずれ、外のすべてが、ラヴィを愛するようになる。だれもが、等しく。この、孤独な存在を。——そう、あるべきなのだ。それが、正しいのだから」
ラヴィの背すじを、つめたいものが、はい上がってきた。
ラヴィ。——その名を、目の前の存在は、まるで自分とは関わりのない、どこか遠くのだれかのことのように、口にした。
おかしな話だった。それは、わたしの名前だ。——けれど、それだけじゃ、ない。前に出会ったとき、この存在は、たしかにこう言った。「私はラヴィだ。お前もそうだろう」、と。同じ名前を分けあった、もう一人のわたし。その相手が、自分のことを、見ず知らずのだれかみたいに突き放して、語っている。
だれを、愛せというんだろう。目の前の、この存在を? それとも、わたしを? ——考えるほどに、その名の響きは、幾重にもねじれて、ぞっとするほど不気味だった。
「あいする……?」意味が、つかめなかった。「なにを、言ってるの……?」
「お前に、わかる必要はない」
その手が、すっともちあがった。白い掌が、こちらへ向けられる。中心に、菫色の光が、しゅう、と低い音を立てて、集まりはじめた。肌が、ぴりぴりと痺れる。——来る。
ラヴィは、とっさに身を低くした。背中の、あの子を、かばって。
——けれど。
その光が、ふくらみきる寸前で。
その動きが、ふと、止まった。
菫色の瞳が、じっと、ラヴィを見ている。いや、ラヴィだけでは、なかった。その足もとで浅い息をする翼の子を。胸の奥から声をあげる、見えない仲間たちの気配を。——一歩も退かず、だれかを背にかばって、まっすぐに立つ、ラヴィの、その姿を。
その瞳が、ほんの一瞬、揺れた気がした。眉の根が、かすかに寄る。まるで、自分でもわけのわからないなにかを、もてあましているみたいに。——そんなふうに、ラヴィには、見えた。けれど、それも、まばたきほどの、わずかなあいだのことだった。
「……邪魔をするなら」
その声が、ふたたび凍りつく。
「お前も、消す。——それだけのことだ」
掲げた掌の光が、いっそうふくれあがった。あの日、ラヴィを一撃で吹き飛ばした、あのまばゆさ。それが、いま、まっすぐにこちらを向いている。
それでも。
ラヴィは、逃げなかった。
足もとの、あの子を、背中にぴたりとかばう。逃げ出したがる足を、ぐっと地に縫いとめる。
「退くな、ラヴィ」胸の奥で、カトレアの声が、まっすぐに響いた。「ボクたちが、ついてる」
ああ。——もう、あのときのわたしじゃない。
ミューを庇うことしか、できなかった。守られて、かばわれて、ただ打ちのめされて、泣くことしか。あのときのわたしは、それきりだった。でも、いまは、ちがう。立ち向かうための力を、わたしは、この手にたしかに持っている。みんなが、そばにいてくれる。
ラヴィは、まっすぐにもう一人の自分を見すえた。
「この子は——わたしが、守る」
声は、もう、震えていなかった。
「逃げない。——今度こそ、ちゃんと。あなたと、向き合う」
次の瞬間。
菫色の光が、放たれた。




