36_花束
ガラスと光の聖堂を、ラヴィは静かに出た。
手のなかには、まだ慣れない重みがある。瑠璃色の杖、《星の花束》。きれいな名前だと思う。けれど、握るたびに、どこか落ち着かなかった。
ためしに、もう一度だけ、力を呼んでみる。みんなの力を束ねた、あの温かい光を。けれど、てのひらは、しんと静かなままだった。さっきは、たしかに応えてくれたのに。
「……まだ、うまく、できないな」
ちいさく、つぶやく。
胸の奥で、ピアの声が笑った。
「焦るな、ラヴィ。手にしたばかりの力じゃ。馴染むには、それなりの刻がいる」
「うん」
ラヴィは杖を、そっと背に負った。聖堂の高い門をくぐる。とたん、外の景色が、目に飛びこんできた。
そして、思わず足が止まる。
それは、見慣れたはずの、こわれかけの世界だった。けれど——もっと、ひどくなっていた。
きらめいていた窓のステンドグラスは、半分が砕け落ちて、足もとに散らばっている。街灯は力なく傾ぎ、宙には、行き場をなくした瓦礫が、いくつも止まったまま浮かんでいた。——けれど、ラヴィが息を呑んだのは、それがさっきと、まるで違っていたからだ。ここを通って聖堂に入ったのは、つい今しがた。それなのに、街は、あのときよりも、ずっと深く崩れ落ちていた。
「……ひどいな」
胸の奥で、カトレアの声がした。いつもの軽やかさは、ない。声の底に、こらえた痛みがにじんでいた。
「ボクの国が、こんなに……」
ラヴィは、なにも言えなかった。ただ、そっと、自分の胸に手を当てた。
ふわり、と。ラヴィの胸のうちから、ちいさな影が抜け出した。羽音をさせて、ひょいと肩に乗る。ピキピキの姿の、ミューだ。あの静かな聖堂にいるあいだは、こわがって内に引っこんでいた。
「……なんか、こわい。この感じ」
ミューが、ちいさな翅を縮めて、ラヴィの首すじにすり寄った。
「うん」
ラヴィも、おなじ気持ちだった。そして、空を見上げる。
ずっと前から、そこにあった。空を裂く、一筋の線。その向こうの空だけが、わずかに色がちがう。——けれど。
「……線が、太くなってる」
以前より、その線は、明らかに太く、くっきりとしていた。線をはさんだ向こうの空の色が、前よりもずっと、こちらと食い違って見える。まるで、なにかが、その境目を無理やり、押し広げているみたいに。
そして、その線がいちばん太く見えるのは、街のずっと奥——崩れのひどい、あの方角だった。そちらへ目を凝らすほど、遠くの景色は、ゆらゆらと揺れて歪み、うまく像を結ばない。なにがあるのかまでは、見えない。それでも、ラヴィは、なんとなく感じた。——この崩れの、大もと。それはきっと、あの歪みの奥にある。
胸の奥で、ピアが、低く唸った。
「……はて。妙じゃのう」
「妙?」
「考えてもみよ、ラヴィ。儂らがあの聖堂におったのは、ほんのいっときじゃ」ピアは、言葉を選ぶように、ゆっくりと続けた。「なのに、出てみればこのありさま。——これは、ただ古びて朽ちていくのとは違う。いまこの瞬間にも、誰かが、せっせと壊しにかかっておる。そういう崩れかたじゃ」
ラヴィの胸が、とくん、と鳴った。
「ひょっとすると、あの、もう一人のお前さんが、な。……確かなことは言えん。儂の勘じゃがな」
もう一人の、わたし。同じ顔。同じうさぎの耳。けれど、菫色に冷たくひかる瞳。あの人のことを思うと、いつも足がすくんだ。前に出会ったとき、ラヴィは、なにもできなかった。大切なミューを庇うだけで精いっぱいで、あとは、ただ打ちのめされていた。
ラヴィは、ぎゅっと、杖を握りなおした。
「……ねえ、ピア」
「うむ?」
「わたし、あの人に、会いに行こうと思う」
胸の奥が、しん、と静まった。
「……こわいよ。あの、もう一人のわたしのことは」ラヴィは、あの歪んだ奥のほうを、まっすぐ見すえた。「でも——もし、あの人が、この崩れの大もとにいるなら。あそこを目指せば、きっと、会える。これは……チャンスなのかもしれない。わたしが、わたしのことを、知るための」
しばらく、誰も、なにも言わなかった。
やがて。
「……はん」
ぶっきらぼうな声が、胸の奥で響いた。ネオンだ。
「行くと決めたんだろう。なら、つべこべ言わん」
「ネオン……」
「私も、腹をくくる」その声は、いつもどおり素っ気ない。けれど、奥に、たしかな熱があった。「お前の後ろは、私が引き受けてやる。せいぜい、安心して前を向け」
「ボクも行くよ」
カトレアの、まっすぐな声がつづく。
「君が決めたなら、どこへでも。——騎士に、二言はないからね」
「……あたしも」
肩のうえで、ミューが、ぴくりと身を起こした。まだ、すこし不安そうに。でも。
「ラヴィが行くなら、あたしも行く。ぜったい、離れないんだから」
ラヴィの胸の奥が、じんわりとあたたかくなる。
——この声があれば、どこへだって、行ける気がした。
「……うん。ありがとう」
ラヴィは、ちいさく笑った。そして、あの歪みの奥を目指して、崩れたガラスの街へ、一歩、足を踏みだした。
どれほど、歩いただろう。
色ガラスの街並みは、いつしか途切れていた。あたりはもう、原形をとどめていない。砕けた建材が、地に、宙に、でたらめに散らばっている。崩れは、たしかに、進むほど深くなっていた。
ふいに、すぐそばの瓦礫の山が、内から、ぼこりと盛りあがった。
残骸をかき分けて、それは這い出してくる。黒く濡れた、ずんぐりとした図体。ラヴィより、ひとまわり大きい。脚のかわりに、幾本もの黒い触手が、地を打ってのたうっていた。ぬめる表面を、ばちばちと光が走る。旅のあいだ、幾度も相手にしてきた手合いだ。
「来るよ、ラヴィ」
肩のミューの声に、もう、緊張はない。ラヴィも、慌てなかった。
——でも、その前に。
ためしに、と。ラヴィは杖を、すっと前へ向けた。あの、皆を束ねる光が、出てくれたら。けれど《星の花束》は、しんとしたまま、なんの応えも返さない。
「……やっぱり、まだ、だめか」
ちいさく苦笑して、杖を背に戻す。なら、いつものやり方で。
触手の一本が、鞭のようにしなって、ラヴィめがけて跳ねた。
「——脱兎」
つぶやくと同時に、体がふっと軽くなる。ラヴィは、跳ねてきた触手の下を、低くくぐり抜けた。すれ違いざま、横から薙いできたもう一本も、半歩だけ退いてかわす。慌てることは、なかった。この手の動きは、もう、目が覚えている。
触手が、続けざまに地を叩いた。土煙が、ぱっと舞いあがる。——その煙を、むしろ盾にして。ラヴィは身を沈め、一息に、相手のふところへ滑りこんだ。
ぬめる黒い体が、すぐ目の前にある。
「ピア」
「——応よ」
呼ぶだけで、もう、てのひらに力が満ちていた。ラヴィは、その手を、黒い体に、ぴたりと押し当てる。
黒い図体が、触れたところから、さらさらと光の砂にほどけていく。最後にぱちりと爆ぜて——それは、ラヴィのなかへ、すうっと吸いこまれた。
「……ふう」
息をつく。指先が、ほんのわずかに痺れた。それだけ。輪郭がほどけるほどでは、ない。一匹くらいなら、もう、これしき。
「ふむ。——だいぶ、堂に入ってきたではないか」
胸の奥で、ピアが、感心したように言った。
「でしょ! ラヴィ、すごいんだから」
なぜだか、ミューが得意げに、くるりと宙を回ってみせた。ラヴィは、ちょっとだけ笑った。
そうして、ふたたび顔を上げた——その、ときだった。
遠く。崩れ果てた瓦礫の、ずっと向こう。
なにかが、いた。
砕けたガラスが舞う、崩壊のただなか。ちいさな影が、ひとつ。地に伏せるように、うずくまっている。その背には——白い、翼。
その翼の影に、ぬっと、巨大ななにかが覆いかぶさろうとしていた。
ラヴィの、息が止まる。
「あの子……っ」
考えるより先に、足が、地を蹴っていた。




