35_得意
「さあ。——もう、いいだろう」
偽りのピアの声が、やさしく耳もとに落ちてくる。
「ここに、おいで。なにも考えなくていい。こわいことも、つらいことも、もう、なにひとつない。——ずっと、ここにいればいいんだよ」
ラヴィは、うつむいたまま動けなかった。
視界の端で、書架の光が、すこしずつ遠ざかっていく。手を伸ばさなくちゃ。そう思うのに、体が鉛みたいに重い。みんなのため。留まったほうが、みんなのため——。
その、ときだった。
遠ざかる光の、ずっと奥のほうから。
「——ラヴィ!」
声がした。
「そんなとこにいちゃ、だめ! こっち! こっちだよ、ラヴィ!」
ラヴィは、はっと顔を上げた。
ミューの声。——でも、ちがう。さっきまですぐそばで聞いていた、あのものわかりのよすぎた声とは、まるでちがう。乱暴で、必死で、すこしも飾っていない。その剥き出しの響きに、ラヴィは、思わず圧倒される。——これだ。これが、ほんとうのミューの声だ。
「……勝手に決めるな」
つづいて、低い声が響いた。ネオンだ。
「私は、自分で決めて、お前の味方をしている。お前の荷物になった覚えなんて、一度もない」
「君を知りたいのは、ボクたちも同じだよ」
カトレアの声が、まっすぐ胸に届く。
「安全な嘘のなかに、ボクたちを置き去りにする気か。——それは、ラヴィ。ボクたちの望みじゃ、ない」
そして。
「のりかかった舟、と言うたじゃろう」
——本物の、ピアの声が、しずかに笑った。
「儂は、儂の意思で、お前のそばにおる。だれに強いられたわけでもない。——ひとりで背負うな、ラヴィ」
ああ。
ラヴィの胸の奥で、なにかがほどけて、あふれた。
——わたしは、まちがえていた。
ずっと、独りで抱えようとしていた。みんなを、危ないものから遠ざけて。それが優しさだと思っていた。——でも、ちがった。
みんなは、守られるだけの存在じゃない。自分の意思で、わたしと一緒に歩くと決めてくれた人たちだ。その、いちばん大事な心を、わたしが勝手に奪おうとしていた。
そのほうが、ずっと——身勝手だ。
「……ごめんね」
ラヴィは、ちいさくつぶやいた。
「わたし、ひとりで、抱えようとしてた」
顔を上げる。目の前に、偽りの皆が立っている。ミューの顔で。ネオンの顔で。カトレアの、ピアの顔で。やさしく、ラヴィを引き留めようとして。
ラヴィは、その顔をまっすぐ見て——にっと笑った。
「——とりあえず、逃げる!」
言うが早いか、ラヴィは床を蹴っていた。
偽りのネオンの影が、いっせいに動く。何本もの腕が、ラヴィを捕まえようと、四方からのびてきた。けれど、その指が触れるより先に、ラヴィの体は、もう横の壁を蹴っている。
「あなたたち、やっぱり偽物だ——っ」
壁を蹴った勢いのまま、宙へ。追ってきた影の頭を、ひょいと飛び越える。着地ざま、すぐにまた、別の壁へ。とん、とん、と、部屋のなかを跳ねまわる。つかみかかる手を、つぎつぎにすり抜けて。
「だって——本物のみんななら、知ってるもん!」
影のひとつが、行く手をふさいだ。ラヴィは、ためらわず天井を蹴る。さかさまになった視界の下で、影の伸ばした手が、むなしく空を切った。
「わたしが、いちばん、得意なこと!」
天井から、斜めに、まっすぐ。狙うは、ひとつ。——窓だ。
「わたし、逃げるの——得意なのっ!」
ためらいはなかった。ラヴィは、そのガラスへ向かって、まっすぐ飛びこんだ。
——がしゃん、と。
高い音が、しあわせな朝をつんざいた。砕けたガラスが朝の光を弾いて、きらきらと宙に舞う。その光のまんなかを、ラヴィは突き抜けていった。
「あはは! そうそう、それだよ、ラヴィ!」
胸の奥で、ミューが笑った。
「ふぉっふぉ。言わんこっちゃない」
ピアの、愉快そうな声。
「——速っ……!?」
カトレアの、素っ頓狂な声がつづいた。ラヴィの逃げ足の速さを、初めて見たのだろう。
「な、なんだ、その速さは……っ! こ、これが、ラヴィの——!」
家の外。あたたかい町の景色が、ぱっとひらけた。
「あ、ラヴィおねえちゃん!」
垣根のそばで、子どもたちが目をまるくしている。
「ラヴィ——! どこ行くの!」
うしろから、声が追いかけてきた。やわらかくて、あたたかい、女の人の声。——きっと、お母さんの声だ。あんなに会いたかった。顔も名前も、知らないのに。ずっと待っていた、その人の。
——ごめんなさい。
ラヴィは、ふりかえらなかった。
ぐんぐん。ぐんぐん。地を蹴って、あたたかい世界が、うしろへ遠ざかっていく。子どもたちの声も。お母さんの声も。やさしい朝の光も。——ぜんぶ、遠くなる。
涙が、頬を横ざまに流れて、風にちぎれて消えた。
それでも、足は止めなかった。
どれだけ走っただろう。
——いつのまにか。
足もとの景色が、変わっていた。
やわらかな草はなくなって、ひび割れた、かたい地面。傾いだ、こわれかけの建物。色を失った空。——見慣れた、あのこわれかけの世界が、そこにあった。
そして。目の前に。
——もう一人の、わたしが、立っていた。
おなじ、うさぎの耳。おなじ顔。けれど、その瞳は、菫色に、冷たくひかっている。
言葉は、交わさなかった。
ただ、あの時とおなじように。その手のひらが、すっとこちらに向けられる。——菫色の閃光。まばゆい光が、ラヴィに向かって放たれた。
こわくは、なかった。
——大丈夫。
ラヴィは、思った。
——わたしは、ひとりじゃない。みんなと一緒に、ここにいる。
だから、大丈夫。
自然と。なにかを握りしめた手が、すっと前に出た。
その手のなかで、なにかが、あたたかく光って——。
白い光が、視界を満たした。
◆
「……ラヴィ。——ラヴィ!」
呼ぶ声に、まぶたを開ける。
ガラスと光の、聖堂。波ひとつ立たない、水鏡。——そうだ。ここは、試練の場所。
戻ってきたんだ。
ラヴィは、ゆっくりと身を起こした。水鏡のふちに膝をついた、その姿勢のまま。どうやら、ほんのいっときの、できごとだったらしい。
そして——気づく。
その手に。
にぎりしめた、一本の杖があった。
瑠璃色の、細い杖身。すらりと伸びたその先に、金色の三日月。弧の抱くまんなかに、ちいさな白いうさぎが、ちょこんと座っている。さらにその上で、半透明の光でできたもう一羽のうさぎが、ふわりと浮かんで、まわりに星屑みたいなきらめきをこぼしていた。
きれい。
ラヴィは、ただ見惚れた。いつのまに、こんなものを握っていたのか。——わからない。けれど。
ふと、胸の奥に、ひとつの名前が浮かんだ。
——《星の花束》。
そして、その名に重なるように、もうひとつ。聞いたこともない、ふしぎな響きが、胸に落ちてくる。——シューティング・スター。
どこから来た言葉なのか、わからない。聞いた覚えもない。なのに、そのふたつの名は、ラヴィの手のなかの杖に、しっくりと馴染んでいた。まるで、ずっと前から知っていたみたいに。
杖を、ぎゅっと握る。
すると——伝わってくる。
内側に生きる、みんなの力が。ミューの、ネオンの、ピアの、カトレアの。ばらばらだったはずの、ひとりひとりの力が、いま、この杖のなかでひとつに束ねられて。あたたかい、ひとつの光になって。てのひらから、じんわりと、ラヴィの胸へ。
「ラヴィ……っ」
胸の奥で、ミューの声が震えていた。
「よかった……ほんとに、よかった……っ。戻ってきて、くれて……っ」
「……無茶を、する」
ネオンの声はぶっきらぼうで。けれど、その奥が、わずかにほどけていた。
「見事だ、ラヴィ」
カトレアが、しずかに笑う。
「——それが、君の心器だね」
「ほう」
ピアが、感じ入ったように息をもらした。
「——して、ラヴィ。その心器に、名は」
ラヴィは、手のなかの杖を見つめて、しずかに答えた。
「……星の花束。——シューティング・スター、って」
「星の花束、か」ピアが、目を細める。「……うむ。お前らしい、よい心器じゃ、ラヴィ」
ラヴィは、手のなかの杖を、そっと胸に抱いた。
——わたしは、ずっと、わからなかった。自分が、なんなのか。死んだ人をただ抱えこむだけの、空っぽの器なのか。それとも、なにか、べつの——。
でも、いまは。すこしだけ、わかる気がする。
わたしは、ただの器じゃない。みんなと心をひとつにして、一緒に、歩いていける。——その力が、いま、たしかにこの手にある。
ひとりひとりの、ちいさな光を束ねて。ひとつの、花束みたいに。
——そっか。だから、《星の花束》、なんだ。
ラヴィの頬が、ほんのすこし、ゆるんだ。
けれど。
杖を抱いたその手の奥で、ラヴィはわかっていた。
さっき見た、あのもう一人のわたし。菫色の、つめたい光。——いまの、この力をもってしても。きっと、まだ、あの人には、遠く及ばない。
それでも。
ラヴィは、しずかに立ちあがった。手のなかのあたたかい光を、たしかめるように握りしめて。
——いまは、たしかに。一歩、進んだ。
水鏡の向こう。高い天井の、ずっと先に。ラヴィは、まだ見ぬその人の影を、そっと見すえた。




