34_昨日
「ラヴィ!? だいじょうぶ!?」
ミューが、ぱっと駆け寄ってきた。
「手、切ってない? ねえ、けがは——」
「……ううん。だいじょうぶ」
ラヴィは、ぼんやりと答えた。足もとには、砕けた花瓶。白い陶器の破片が、こぼれた水に濡れて、光っている。
「破片に気をつけて」カトレアが布巾を手に、かがみこむ。「いいんだ、ラヴィ。花瓶のひとつくらい、なんでもない。——けがが、なくてよかった」
「……ぼんやりしているからだ」
台所から出てきたネオンが、雑巾を放りながら、ぼそりと言う。その声には、いつものぶっきらぼうな、けれど案じる響きがあった。
みんなが、心配して寄ってくる。いつもの、やさしい声。
なのに——胸のざわざわは、収まらなかった。
ラヴィは、しおれていく花を、ただ見つめていた。さっきまで、あんなにみずみずしかった花。それが、いま、見るまに力を失っていく。茎が垂れ、花びらが、しおしおと縮んでいく。まるで、何日も水をもらえなかったみたいに。
なんだろう。この感じ。
ラヴィは、思い出そうとした。きのう。——きのうの夜は、なにをしていた?
……出てこない。
じゃあ、その前は。この家で暮らしはじめたのは、いつ? みんなと、ここで笑うようになったのは——。
たどろうとするほど、記憶が、霧みたいに指のあいだをすり抜けていく。つかもうとした端から、なにもかもが、ぼやけて薄れていく。
おかしい。そんなはず、ない。毎日、ここで暮らしてきたのに。ゆうべも、おとといも、その前も。ちゃんと、あったはずなのに。——なのに、どこを探しても、手応えがない。たしかな思い出が、ひとつも見つからない。まるで、たったいま、この朝だけが、どこからか、ぽんと置かれたみたいに。
胸の鼓動が、すこしずつ、速くなっていく。
そして。
——お母さん。
今日、来るはずの。あんなに楽しみにしていた、お母さん。
その顔を、思い浮かべようとして——ラヴィは、息をのんだ。
なにも、出てこない。顔も。声も。名前も。「お母さん」ということばだけが、ぽつんとあって、その奥にいるはずの人が、いない。あるはずの場所が、ぽっかりとからっぽだった。
あんなに、会いたかったのに。あんなに、待っていたのに。——その人が、どこにもいない。まるで、最初から、いなかったみたいに。
背すじが、すうっと冷たくなる。
あたたかいのに。みんながいて、しあわせなのに。——その、まんなかが、からっぽだ。
……これは。
本物じゃ、ない。
そう思った、その瞬間。
部屋のやわらかな光が——ほんのわずかに、翳った。
ふと、視界の端で、なにかが光った。
壁ぎわの、本棚。あの、一冊。ほのかな光が、しずかにラヴィを呼んでいる。
ラヴィの足が、ふらりと、そちらへ向く。——その前に。
みんなが、立っていた。
「……ラヴィ?」
ミューが、こちらを見あげている。その目が、不安げに揺れていた。
「どこ、いくの。——あそぼって、約束した、よね……?」
いつもの、ミューの声。なのに、どこかちがう。その底のほうに、聞いたことのないつめたいものが、混じっていた。ラヴィの足が、止まる。
「行かないほうがいい、ラヴィ」
カトレアが、やわらかく、けれどたしかに、ラヴィの前に立ちふさがった。
「ここは、あたたかいだろう。なにも、こわいものはない。——ずっと、こうしていられるんだよ」
「外に、なにがある」
ネオンの声が、いくつにも重なって聞こえた。見ると——ネオンは、ひとりではなかった。同じ姿が、いくつもの影になって、ラヴィの退路を、ぐるりと囲んでいる。
「お前が、自分を知るために。——どれだけのものを、危険にさらすつもりだ」
みんなの、顔。みんなの、声。
なのに、その奥のなにかが、ぞっとするほどちがった。
ラヴィは、みんなの顔を、ひとりずつ見た。ミューのまるい目。カトレアのやさしいまなざし。ネオンのぶっきらぼうな横顔。——どれも、知っている。大好きな、みんなの顔だ。なのに、そのどれもが、ラヴィの知っているあの子たちでは、なかった。よく似た別のだれかが、みんなの顔をかぶっている。そんな気がして、ぞわりと、腕に鳥肌が立った。
「のう、ラヴィ」
しずかな声がした。
ピアだった。腕を組み、いつものようにのんびりと。けれど、その瞳の奥は、ちっとも笑っていなかった。
「お前は、自分を知るために、命を賭ける。——だがな。それは、お前の内側に生きる儂らを、道連れにすることぞ」
内側。——そのことばに、ラヴィの胸が、ずきりと鳴った。
そうだ。みんなは。ほんとうは——。
「お前が倒れれば、儂らも、もろともに消える。ここに、おればよい。ここなら、誰ひとり危険にさらさずに済む。なあ、ラヴィ」
ピアの声が、やさしく、やさしく、絡みついてくる。
「お前のやり方は——身勝手では、ないのかえ」
身勝手。
そのことばが、胸の、いちばん柔らかいところに刺さった。そうして、抜けなくなった。
——そうだ。
わたしは、自分の「知りたい」のために、みんなを、危ない旅に連れ歩いている。おそろしいものに、何度も追われて。傷ついて。もし、わたしが倒れてしまったら。
みんなは。
ここにいれば。みんなは、ずっと笑っていられるのに。このあたたかい朝に、ずっと。
留まったほうが、いいのかもしれない。——みんなの、ためには。
ラヴィは、うつむいた。
膝が、ちいさく震えている。なにか言い返したいのに、ことばが出てこない。だって、ピアの言うことは、なにひとつ、まちがっていない。わたしは、ずっと、それがこわかった。みんなの、重荷になることが。
必要とされたいと、ずっと思っていた。だれかの力に、なりたいと。——でも、ほんとうは。もらってばかりだったのは、わたしのほうだ。守られて、助けられて、笑わせてもらって。わたしは、なにを、返せただろう。
だったら、せめて。——これ以上は、巻きこまないであげたい。
ここで終わりにすれば。みんなは、あたたかいこの場所で、ずっと笑っていられる。それが、いちばんいいことなんじゃないの。
そう思うと、足から、ちからが抜けていった。うつむいた目もとに、じわりと、熱いものがにじむ。
——けれど。
その、うつむいた視界の、はしっこで。
書架の一冊の光が、すこしずつ、遠ざかっていく。ラヴィが迷えば迷うほど、その淡い光は、薄れて、遠のいていくようだった。まるで、ラヴィ自身が、その光を、手放そうとしているみたいに。
手を、伸ばさなくちゃ。
そう思うのに——体が、動かなかった。




