33_ゆめ
「——ねえってば、ラヴィ!」
肩を、ゆさゆさと揺すられる。
「いつまで寝てるの。もう、朝だよ。——きょう、お母さんが来る日でしょ!」
まぶたを開けると、見慣れた天井があった。木目の走った、低い天井。その節穴のあいだから朝の光が差しこんで、宙にうっすらと、ほこりの粒を金色に浮かべている。
枕もとでは、ミューが頬をふくらませて、こちらをのぞきこんでいた。寝間着のままの、ちいさな体。白銀の三つ編みが、肩からこぼれ落ちている。猫の耳が、ぴこぴこと、せわしなく動いていた。
「ん……ミュー……」
ラヴィは、ちいさくあくびをした。頭の芯が、まだ、すこし眠たい。きっと、寝足りないだけだ。ぐっと伸びをして、ゆっくりと体を起こした。
「もう。いちばん楽しみにしてたの、ラヴィのくせに」ミューが、腰に手を当てて、ぷんと言う。「ほら、はやく顔洗って! ぐずぐずしてたら、置いてっちゃうから」
「……うん。いま、いくね」
寝室を出ると、家じゅうに、あさごはんの匂いが満ちていた。
台所では、ネオンが卵を焼いていた。袖をまくり、藍色の前掛けをつけて。フライパンから立つ湯気が、その横顔をふわりと白く曇らせる。普段の、影みたいな静けさはどこにもない。ただ当たり前みたいにそこに立って、菜箸を動かしていた。
「……起きたか」ネオンが、ちらりとこちらを見た。「顔を洗ってこい。朝飯はできてる。冷める前に、食え。——それと、ミューに振りまわされすぎるなよ。あいつは朝から元気すぎる」
「ちょっと、聞こえてるからね!」
ミューの抗議を、ネオンは涼しい顔で受け流す。ラヴィは、思わず、くすりと笑った。
長椅子では、ピアが足を組んで、優雅に茶をすすっていた。膝のうえの皿には、焼き菓子がいくつか。そのうちの半分は、もう、影もかたちもない。窓から差す光に、湯気が一筋、ゆらりとのぼっていく。
「ふぉっふぉ。寝坊助の、お出ましじゃな」ピアが、目を細めて笑う。「ほれ、お前のぶんの茶も、いれてあるぞ。今朝のは、とびきり上等の葉でな。——客人が来る日くらい、贅沢をしてもよかろう。ぬるくなる前に、おいで」
「……ありがとう、ピア」
窓ぎわでは、カトレアが花を活けていた。白と、淡い青の花。すらりとした指が、一輪ずつ茎の長さをそろえ、ていねいに花瓶へ挿していく。窓から差す光が、その赤い髪のふちを、淡くにじませていた。横顔は、しずかで、どこか満ち足りている。
「やあ、ラヴィ。よく眠れたかい」カトレアが、ふりむいて、やわらかく笑う。「うん、いい顔だ。今日は、きっといい日になる。——お母さんも、君のその寝起きの顔を見たら、笑ってくれるだろうね」
あたたかい。なんでもない、朝だった。
みんながここにいて、笑っている。ネオンも、ピアも、カトレアも、ミューも。だれひとり欠けることなく、同じ屋根の下で、同じ朝を過ごしている。それがあんまり当たり前で——その当たり前が、ラヴィの胸を、じんわりと満たしていった。
顔を洗いに行くと、洗面所の窓の外から、子どもたちの声がした。
「ラヴィおねえちゃーん!」
垣根の向こうで、近所の子がぶんぶんと手をふっている。三人、四人。ひとりは、つばの折れた麦わら帽子をかぶっている。みんな顔見知りの、いつもの子たちだ。
「おはよー! ねえ、あとであそぼ! きのうの続き!」
「……うん」ラヴィは、窓から、ちいさく手をふりかえす。「あとでね。——いまは、ちょっと、忙しいんだ。お客さんが来るから」
「えー! ぜったいだからね! 約束!」
子どもたちは、けらけら笑って、また駆けていった。その足音が、朝の町に、ころころと、ころがっていく。
ここで暮らしている。この町に根を下ろして。——そのことを、ラヴィはなんの疑いもなく受け取っていた。いつから、どうして、なんて考えもしない。だって、ずっとこうだったのだから。
あさごはんのあとは、家じゅうがにわかに慌ただしくなった。窓という窓が開け放たれ、朝の風がカーテンをふくらませて通り抜けていく。畳に、布団に、家じゅうのすみずみに、ぱたぱたと、はたきの音が響く。
今日は、お母さんが来る日だ。
「ねえ、お母さん、何時に来るって言ってたっけ!」ミューが、ぱたぱたと走りまわる。「お花、これでたりる? ねえカトレア、もっとあったほうがいい?」
「落ち着くといい、ミュー」カトレアが、笑ってその頭をなでる。「まだ、時間はたっぷりある。慌てると、かえって散らかってしまうよ。——花は、これで十分きれいだ。多すぎても、かえって、もったいない」
「儂は、茶菓子の支度をしておこう」ピアが、のんびりと腰をあげた。「客人をもてなすには、甘いものがいちばんじゃからな。——なに、味見も、もてなしの大事な役目よ」
「……お前は、自分が食べたいだけだろう」ネオンが、雑巾を絞りながら、ぼそりと言う。
「ふぉっふぉ。さて、どうかのう」
にぎやかな声。ぱたぱたと行き交う足音。ラヴィも布巾を手に、棚を拭いて……ふと、手が止まった。
窓から差しこむ、あかるい光。それをぼんやりと見つめてしまう。
「……おい」
ネオンの声がした。
「当のお前が、呆けて、どうする」
「もー、ラヴィってば!」ミューが、ほっぺをふくらませる。「いちばんお母さんに会いたがってたの、ラヴィじゃない! しっかりしてよ!」
「……ごめん」ラヴィは、てれたように笑った。「なんだか……しあわせで」
ふっと、こぼれた本音だった。
みんなが、いて。あたたかくて。今日は、お母さんも来る。——こんな日が、ずっとつづけばいい。この温もりの中に、ずっといられたら。心の底から、そう思った。
「……そうか」
ネオンが、ふいと顔をそむける。けれど、その口もとが、ほんのわずか、ゆるんでいた。
「なら、手は止めるな。しあわせなら、なおさらだ」
「ふふ。ネオンは、照れ屋だね」カトレアが、からかうように笑う。
「うるさい」
その、なんでもないやりとりにも、ラヴィは笑ってしまう。胸の奥が、ぽかぽかとあたたかかった。
「ラヴィ。これを、テーブルの真ん中に置いてくれるかな」
活け終えた花瓶を、カトレアがそっと差し出した。白と淡い青の花が、水を含んで、みずみずしく揺れている。ラヴィは両手でそれを受け取った。ひんやりとした陶器の重みが、てのひらに、心地よく伝わってくる。
花瓶を抱えて、テーブルへ歩く。——その、途中だった。
ふと、壁ぎわの本棚に、目が留まった。
ぎっしりと並んだ、本の背。その、いちばん端の一冊が——ほのかに、光って、見えた。
ラヴィの足が、止まる。
……あれ。なんだろう、あの本。
ほかの本と、なにも変わらないはずなのに。なぜか、その一冊だけが目を引いた。どこかで、見たことがあるような。手にとったことが、あるような。——そんな気がする。
理由もわからないまま、ラヴィの手が、その本へと引かれていく。胸の奥で、なにかがことり、と鳴った。さざなみのような、ちいさな揺れ。
——花瓶を抱えていることも、忘れて。
ラヴィは、その本に手を伸ばした。
そのとたん。両手から、ふっと、重みが消えた。
あ、と思ったときには、もう遅かった。
がしゃん、と高い音が、しあわせな朝をつんざく。
足もとで、花瓶が砕けていた。白い陶器の破片。こぼれて広がる水。投げ出された、白と淡い青の花。——さっきまで、あんなにみずみずしかったのに。その花が、なぜだか、いやにしおれて見えた。
胸の奥のさざなみが、すっと大きくなる。
……なに。この、ざわざわは。




