31_蘇生
内側の賑わいから、ラヴィはそっと意識を引きあげた。
まぶたを開けると、目の前にはガラスの棺があった。荘厳な石の墓所のなか、淡い光を受けて、棺はしずかに横たわっている。その透きとおった蓋ごしに、眠るカトレアの顔が見えた。
さっきまで内側で快活に笑っていた人と、同じ顔。深紅の短い髪。やわらかな王女の正装。なのに——その頬には、血の気がない。胸は上下しない。ふれずともわかる。この体は、つめたい。
ラヴィの胸が、しんと痛んだ。
ふと、思い出す。ミューのことだ。出会ったころのミューは、いまとはまるでちがう、ちいさな姿をしていた。それが、あるとき、ほんとうの姿を——あの猫の娘の姿を、取り戻したこと。なくしたはずのものが、ちゃんと戻ってきたこと。
——もしかして。
ラヴィは、棺の蓋に、そっと手を当てた。
「ねえ、ピア」
胸の奥へ、問いかける。
「カトレアさんの魂は、いま、わたしの中にいるよね。なら——この体に、もう一度ふれさせてあげたら。ミューのときみたいに、戻ってこられたり……しないのかな」
しばらく、答えはなかった。胸の奥で、ピアが、じっと考えこんでいるのがわかる。やがて、その声は、いつになく真剣な響きで返ってきた。
「……正直に言えば、な。死んだ者が生き返るなど、普通は、ありえん話よ」
そこで、ピアは、いちど言葉を切った。
「——じゃが、ラヴィ。お前は、死んだ者を内に宿し、あの猫娘に、姿まで与えてみせた。そんな器は、儂もながく生きて、一度も見たことがない。だとすれば、その仮説。お前が相手なら……頭から、ないとは言いきれんのよ」
ラヴィの鼓動が、ひとつ、跳ねた。
「……じゃあ」
「うむ。魂を、体へ。——いちばん直に通わせるとすれば」ピアは、すこし間を置いた。「息を分ける、口づけ、じゃろうな」
それから、その声に、ふっといたずらな笑みがにじんだ。
「……ふむ。のう、姫さんや。聞いておるか? お前さんの唇に、ラヴィが口づけ、じゃと」
胸の奥が、一拍、しんと静まって——次の瞬間、はじけた。
「ま——待て待て待て!」
カトレアの声が、悲鳴じみて裏返る。
「く、口づけ……!? く、くちびるに……っ!?」
「えっ」
割りこんできたのは、ミューだった。目をきらきらと輝かせている。
「いいなあ! ねえラヴィ、あたしにも! あたしにもして!」
「……アホ猫は、一旦黙っておけ」ネオンの、うんざりした声がかぶさる。「いま、その話じゃないだろう」
「アホって言った!? ネオンこそ黙っててよ!」
「黙れと言っている」
「言ってない、もんっ」
胸の奥で、ふたりの小競り合いが、本筋をそっちのけで始まってしまう。にぎやかな、いつもの調子だった。
——けれど。
その騒がしさの片すみで、カトレアだけが、ふっと黙りこんでいた。
ラヴィは、ふと気づく。さっきまでの取り乱した気配が、消えている。胸の奥の、ずっと深いところで、その人は、じっとなにかを見つめているようだった。
「……まて」
ぽつり、と、カトレアの声が落ちた。さっきとは、まるで色がちがう。
「…………もしかして、ボクは。本当に、生き返れるのか」
その声には、照れも戸惑いも、そして——ほんのわずかに、痛いほどの希望がにじんでいた。きっと、よぎったのだ。護りきれなかった、あの人たちの顔が。もう一度立てるかもしれないという、その光が。
胸の奥が、しずかになる。ミューも、ネオンも、いつのまにか、口をつぐんでいた。
やがて、カトレアは、ひとつ、深く息を呑んだ。
「……ラヴィ」
その声は、もう、落ち着きを取り戻していた。ただ、ひどくためらいがちだった。
「君さえ、嫌でなければ……その。——どうか、ボクに、口づけて、くれないか」
ラヴィは、しずかに頷いた。
「……うん」
茶化す気持ちは、どこにもなかった。ただ、この人を助けたい。その一心だけが、胸にあった。
ラヴィは、ガラスの蓋に手をかけた。ひんやりとした重みが、すこし軋みながら、もちあがる。蓋を脇へ寄せると、眠る人の顔が、さえぎるものなく、すぐそこにあった。長い睫毛。形のいい唇。ほんとうに、ただ眠っているだけのように見えた。
「……戻ってきて。カトレアさん」
ささやくように言って、ラヴィは、そっと身をかがめた。
息を分けるように、唇をかさねる。ほんの、一瞬。
——けれど。
睫毛は、伏せられたまま。胸は、動かない。重ねた唇に、返ってくる温度は、なにもなかった。指先まで、つめたいまま。
なにも、起こらなかった。
ラヴィは、ゆっくりと顔を上げた。
「……戻って、こない」
胸の奥で、ピアが、しずかに息をついた。
「……やはり、か。もしや、とは思うたが、な」
その声に、いつものふざけた色は、なかった。
「魂は、器に宿せても。——一度死んだ体には、もう、縫い戻せんのよ。切れた糸は、二度とは、繋がらん。それだけは、どうあっても、覆せん」
ラヴィは、眠る人の顔を、見おろしたまま、動けなかった。
喰らえば、内側で生かせる。ミューにそうしたように。けれど、それは——生き返らせたわけではない。ただ内側に抱えこんでいるだけ。
わたしは、いったい、なんなのだろう。
死んでしまった人を、ただその身の内にしまっておくだけの器なのだろうか。それとも、なにか別の——。
考えても、答えは出なかった。胸の奥が、しんと冷えていく。
——と。胸の奥で、カトレアが、ちいさく息を吐くのがわかった。
「……そうか。やはり、だめだったか」
不思議なほど、しずかな声だった。取り乱しも、嘆きもない。長く張りつめていたものを、そっと地に置くような、覚悟のうえの吐息だった。きっとこの人は、さっきの痛いほどの希望を、いま静かに手放したのだ。ラヴィには、それがわかった。
なにか言わなくては。そう思うのに、言葉が出てこない。
その重たい空気を振り払うように——カトレアが、ふいに声を上ずらせた。
「……っ、あ、あのな、ラヴィ。い、いま、気づいたんだが……。ボクは、その。君の見ているものが、こっちからも、見えるんだ」
「……うん?」
「だから……。そ、その。ボクには、見えていたんだ。——眠っている、ボク自身の顔に。君の視界が、どんどん、近づいて、いくのが。ぜ、ぜんぶ、こっちから……っ」
声が、見るみる尻すぼみになって、消えていく。
しばし、間があって。
「……自分がキスされるとこ、特等席で見てたんだ」
ミューが、しれっと追い打ちをかけた。
「言ってくれるな……っ!」
カトレアの悲鳴が、胸の奥に響く。ラヴィは、つられてちいさく笑った。——けれど、その笑みの底に沈んだつめたいものは、消えてはくれない。助けられなかった。その悔いだけは、まだ、しずかにそこにあった。
やがて、カトレアが、ひとつ、深く息をついた。気を取り直すように。それから、その声の調子をあらためる。
「……ラヴィ」
落ち着いた、けれど、どこかあらたまった響きだった。
「あらためて、礼を言わせてくれ。叶わぬとわかっていても、君は本気で、ボクを取り戻そうとしてくれた。——その心を、わたくしは、生涯」
そこで、ふと、言葉が止まった。
「……生涯、か。ボクが言うと、すこし可笑しいな」
ひとり言のように、ちいさく苦笑する。それは、かなしいだけの笑みではなかった。
「それでも。この胸にある限り、決して忘れはしない。ありがとう、ラヴィ」
ラヴィは、そっと首を横にふった。なにも言えなかった。ただ、こくりとひとつ頷くだけで精いっぱいだった。
ガラスの蓋を、もとの場所へ、ゆっくりと戻した。かちり、とちいさな音がして、棺は、ふたたびしずかな眠りのなかへ沈んでいく。
眠る人の頬は、つめたいまま。それは、もう、どうやっても変わらない。
——それでも。
その同じ胸の奥では、当のカトレアが、また照れた声でぶつくさと言い、ミューにからかわれ、ネオンにたしなめられている。にぎやかで、あたたかい。
この人は、もう、生き返らない。けれど、いなくなったわけでも、ない。
ラヴィは、しずかな棺に向かって、ちいさく頭を下げた。
——眠っている、あなたに。そして、いまも胸の奥で笑っている、あなたに。




