30_問い掛け
しんと静まりかえった部屋に、答えのない問いだけが降り積もっていた。
ネオンは長椅子のそばで目を伏せ、口を結んでいる。ミューはいつもの賑やかさをひそめて、ラヴィのそばにちいさく身を寄せていた。ピアでさえ腕を組んだまま、めずらしく言葉を探すように黙りこんでいる。やわらかな光に満ちた部屋に、息のつまるような静けさだけが満ちていた。
その沈黙を破ったのは、目覚めたばかりのカトレアだった。
膝のうえで握りしめていた拳から、ゆっくりと力が抜けていく。伏せていた睫毛が、かすかに震えた。それから、ちいさく息を吐く音がして、カトレアはおもむろに顔を上げた。
「……まあ」
赤茶の瞳に宿っていた悔いの色が、ふっと切り替わる。
「湿っぽいのは、このくらいにしておこうか」
ラヴィは思わず、その横顔を見つめた。
「死んでしまったものは、仕方がない。——いまさらボクが膝を抱えていたって、誰も喜ばないだろう?」
そう言って、カトレアはすっと立ちあがった。目覚めたばかりの戸惑いを、自分の足もとに置き去りにするみたいに。
その仕草は、いっそ鮮やかすぎた。ただ、口もとに浮かべた笑みのわりに、体の脇に垂れた指先は、まだかすかにこわばっている。——無念をきれいに振り払えたわけでは、きっと、ないのだ。それでも背を伸ばしてみせる。それが、この人なりの、立ち直り方なのかもしれなかった。
「——改めて。ボクのことは、カトレアと呼んでくれ。堅苦しい肩書きは、抜きでいい。そのほうが、ずっとボクの性分に合っているからね」
そうして、ぐるりと部屋を見回す。ラヴィを、ミューを、ネオンを、ピアを——ひとりずつ、たしかめるように。
その顔が、ぱっと明るくなった。
「それにしても、だ」
両手を広げ、カトレアは高らかに言い放った。
「ここは——なんと、美しい女性ばかりじゃないか……!」
部屋の空気が、きょとんと止まった。
「言っておくがね。ボクはね——」
胸に手を当て、堂々と胸を張る。さっきまで悔いに背を丸めていた人とは、まるで別人だった。
「美しい女性が、大好きなのだ……!」
しんと沈んでいた重たい空気が、その一言で、どこかへ吹き飛んでしまった。重さの代わりに残ったのは、毒気を抜かれたような、間の抜けた沈黙だった。
壁ぎわのピアが、くつくつと喉を鳴らした。
「……これはまた。賑やかなのが起きよったのう」
カトレアの視線が、まっすぐラヴィに向いた。
つかつかと歩み寄ると、ラヴィの前で、すっと片膝をつく。流れるような、よどみのない所作だった。そうしてラヴィの手を、両手でそっと掬いあげる。手のひらから、ほんのりとあたたかい体温が伝わってきた。
「さあ、まずは君だ。——ラヴィ」
下から見上げる赤茶の瞳が、まっすぐにラヴィを射た。
「さっき、聞かせてもらったね。ラヴィ、と。——いい名だ。澄んでいて、やわらかい。ボクを永い眠りから呼び覚ましてくれたのが、こんなにも可憐な子だったとは。ボクはよほど、幸せ者らしい」
ラヴィは手を取られたまま、ぱちぱちとまばたきをした。
カトレアは立ちあがりざま、いたずらっぽく目を細めた。
「どうだろう。なんなら、このままボクが、君の騎士になっても——」
ラヴィは、こてんと首をかしげた。
「騎士? ……わたしのこと、守ってくれるの?」
「ああ、もちろん」
「でも」ラヴィは、まじめな顔で考えこんだ。「カトレアさんは、わたしの中にいるよね。中にいるのに、外で守るのは……むずかしくない?」
カトレアの動きが、ぴたりと止まった。
代わりに噴き出したのは、壁ぎわのピアだった。
「——っはは! いや、まったく、その通りじゃ……!」腹を抱えて、さもおかしくてたまらないというふうに、けらけらと笑っている。
カトレアは、そのピアを横目に、こらえきれないというふうに、ふっと肩の力を抜いて笑った。
「……まじめだね、君は。うん。そういうの、ボクは嫌いじゃないよ」
つぎに、カトレアの目が、ラヴィのかたわらのミューに留まった。
「おや」猫の耳に目を留めて、ふっと目尻をやわらげる。「次は、そこの君だ。——その耳、なんて愛らしいんだろう。ぜひ、名を聞かせてくれないか」
ミューの尻尾が、ぴんと立った。凛々しい騎士にまっすぐ見つめられて、頬にほんのりと朱がさす。つい背筋がのびて、いつものつっけんどんが、どこかへ引っこんでしまった。
「……ミュー」
ぽつりと、めずらしく素直に名乗る。その目は、見惚れたように、カトレアを見上げていた。
ところが——
「ミュー。ああ、いい響きだ……! 猫の姫君だなんて、ボクの好みのど真ん中じゃないか……!」
カトレアが、うっとりと胸を押さえた。
その瞬間、ミューの顔から、すうっと熱が引いた。立っていた尻尾が、ぱたんと垂れる。
「……なんか」
じとっとした目で、カトレアを見上げる。
「もっと、こう……かっこいい人かと、思ったのに」
「む」
「見た目はすごくいいのに。中身、なんか……変じゃない、この人」
ミューはラヴィの背にちょっと隠れた。それでも、視線だけはカトレアから外さない。
カトレアは胸を押さえたまま、おおげさによろめいてみせた。
「はは……つれないなあ。でも、そういうつれないのも——ボクは、嫌いじゃないんだけどな」
「うわ、立ち直り早い……」
そうして、カトレアの視線は、壁ぎわのネオンへと移った。
ネオンは腕を組んだまま、長椅子のそばに静かに立っていた。さらしに包まれた肩も、伏せた目もとも、まるで影のように、その場にひっそりと溶けこんでいる。
「そして、君」
カトレアが、ふと目を細めた。
「黙ってそこに立っているだけなのに、妙に目を引くね。名を、聞かせてくれるかい」
ネオンは、ちらりとカトレアを見た。気のない様子で、鼻を鳴らす。
「……ネオンだ」
そっけなくそれだけ言って、また目を伏せ——かけて。
その視線が、止まった。つ、とカトレアの全身を、上から下へなぞる。値踏みするような、するどい目つきに変わっていた。
「……いや」
低い声の調子が、変わる。からかいでも、警戒でもなかった。
「お前。——ただの姫様じゃないな」
「?」カトレアが、首をかしげる。
「その立ち方。足の運び。重心の置きどころ」ネオンの目が、すうっと細くなった。「ずいぶん斬り合ってきた者の体だ。——それも、ひとりやふたりを相手にした程度じゃ、ないな。相当の遣い手と、見たが」
カトレアの、余裕たっぷりだった笑みが、ほんの一瞬、ゆらいだ。
赤茶の瞳が、わずかに見ひらかれる。その頬に、さっと朱がさした。
「……っ」
言葉に、つまる。——けれど、それも、ほんの一拍のことだった。
カトレアは、ふっと息をつくと、すぐにいつもの笑みを取りもどした。それどころか、見抜かれたのを逆手に取るように、ぐっと身を乗りだす。
「ふふ……まいったな。見抜かれてしまったか」目もとに、艶のある色が戻る。「だが、ねえ。そんなふうにボクのことを、隅々まで見てくれていたなんて。——存外、君のほうこそ、ボクに気があるんじゃないのかい?」
畳みかけるように、ネオンへ一歩、踏みこむ。
ネオンは、その勢いに、わずかに身を引いた。
「……なんなんだ、こいつは」
うんざりした声を出しつつ、それ以上は振り払おうともしない。妙な押しの強さに毒気を抜かれたみたいに、なすがままになっている。
——と、そこへ。
「まあまあ。そのへんで勘弁してやれ、姫さん」
横から、のんびりとした声が割って入った。ピアだ。ネオンをかばうように、ひらりと片手をあげて、カトレアの矛先を、ついと自分のほうへ引きよせる。
「一人に熱を上げるのも、悪くはないがな。——儂はピア。どうじゃ、ついでに儂のことも、口説いてはくれんか?」
「……は?」カトレアが、きょとんとする。
「なに、遠慮はいらん。儂は、まんざらでもないのじゃぞ」わざとらしく睫毛を伏せて、ピアは流し目をくれた。「千年以上の年の差くらい——まあ、些末な問題じゃろ」
「せ——」
カトレアの動きが、止まった。
「千年……っ!?」
そして、その驚きは、カトレアだけのものではなかった。
「「千年以上~!?」」
ミューとネオンの声が、見事に重なった。ミューは飛びあがり、伏せていたネオンの目までもが、ぱっと見ひらかれている。ラヴィも思わず、ピアの顔をまじまじと見つめた。どう見ても、若い娘の姿をしているのに。
ピアは、きょとんとまばたきをした。それから、いかにも心外だという顔で、首をかしげる。
「……あれ。言うておらんかったかの、儂」
そのあんまりにとぼけた顔に、ミューが、たまらず噴き出した。
——けれど。ピアの目は、笑いながらも、めざとく光っていた。
「じゃがな、姫さん。——ひとつ、いいことを教えてやろう」
「?」
「さっき、ネオンに腕を褒められたとき。お前さん、ほんの一瞬——たじろいだじゃろ」
カトレアの肩が、びくりと跳ねた。
「すぐに笑ってごまかしておったがな。じゃが、儂の目はごまかせん。——口説くのは息をするように達者なくせに、いざ褒められるほうにまわると、からきしじゃ」
ピアが、にやりと口の端を吊り上げる。
「——存外、初心なのじゃな。姫さんは」
ずばりと言いあてられて、カトレアの顔が、今度こそ、ぼっと赤くなった。
「ち、ちが……っ。ボクは、別に、そんな……っ」
姫口調と騎士口調が、ごちゃまぜになってこぼれ落ちる。さっきまでの、あの危なげのない余裕は、もう、どこにもなかった。
ミューが、ぽかんと口を開ける。
「……え。なにこの人。きゅうに、ぽんこつになった」
ラヴィは、声をあげて笑った。
ついさっきまで、この部屋には、答えのない重たい謎が、しんと沈んでいた。だれもが言葉をなくして、うつむいていた。——それが、どうだろう。いまは、こんなにも賑やかだ。
カトレアが真っ赤になって、しどろもどろになっている。ミューがけらけらと笑っている。ネオンまでが、めずらしく口の端をわずかにゆるめていた。ピアはあいかわらず、とぼけた顔で、その輪の真ん中にいる。
——みんな、もう生きてはいない人たちだ。
楽しそうに笑うその顔を、ラヴィは、ひとりずつ見つめた。カトレア。ネオン。ピア。そして、ミュー。——いまのラヴィには、かけがえのない人たち。
ふいに、思った。
この人たちは、どんなふうに生きていたのだろう。どんな町で、誰のそばで、なにを大切にして。どんな声で笑い、どんな夜に、眠りについていたのだろう。
そして——どうして、死んでしまったのだろう。
その問いは、しずかに胸の奥へ落ちていった。いまこんなにあたたかく笑っているこの人たちにも、それぞれの一生があって、それぞれの終わりがあった。ラヴィの知らないどこかで、ひとりずつ、その命を閉じてきたのだ。考えると、胸が、きゅっと痛んだ。
その答えを、ラヴィはまだ、なにひとつ知らない。——けれど、いつか、ちゃんと聞かせてほしいと思った。この人たちが生きてきた日々を。その笑顔の奥に、そっとしまわれているかなしみを。そうして、ほんのすこしでも、そばで分けあえたなら。
けれど、それは、いまでなくていい。
いまはただ、この賑やかな笑い声のなかに、もうすこしだけ、こうして浸っていたかった。




