29_糸口
「……あのね、カトレアさん」
ラヴィはできるだけやさしく言った。
「ここは、わたしの——内側なの。わたしの、胸のなかにある、世界。あなたは、いま、その中にいるんだよ」
カトレアは、まばたきをした。それから、ゆっくりとあたりを見まわす。
やわらかな光が、部屋ぜんたいをしずかに満たしていた。どこに源があるのか、わからない。薄暮のような淡い明るさが、壁の隅々まで、むらなく行き渡っている。一面の壁には、星屑のような窓。その向こうを、ちいさな光の粒が、いくつもゆっくりと流れていった。
そして、その部屋には、ほかにも気配があった。長椅子のそばに立つ、目を伏せた長身の青年。猫のような耳をした、ちいさな娘。壁ぎわで腕を組む、どこか飄々とした風情の者。——みんな、ことばもなく、カトレアのほうを見つめている。
知らない顔ばかりだった。
カトレアの視線が、もう一度、自分の手のひらに落ちた。ふれて、確かめるように、手を握って、ひらく。それから、おそるおそる、腰に佩いた剣の柄に、指を這わせた。——たしかに、そこに在る。鞘の冷たさも、革の手触りも、ちゃんと指に返ってくる。なのに、その顔には、夢のなかをさまよっているような、薄い戸惑いだけが浮かんでいた。
「……ああ」
ちいさな声だった。
「やはり。——ボクの記憶は、間違っていなかったのか」
ラヴィは、息をのんだ。
「ボクは、覚えているよ。剣を握って、最後まで、立っていたことを。——それから、すうっと、力が抜けて。世界が、遠くなって。それきり、なにも」
カトレアの、赤茶の瞳が、伏せられる。
「あれは、夢じゃ、なかったんだね」
「……うん」
ラヴィには、それしか、言えなかった。
カトレアは、しばらく黙っていた。やがて、ぽつりと、こぼす。
「ボクの国を——ルミナリアの民を、護るための、戦いだった」
その声は、静かだった。けれど、奥のほうで、なにかがきしんでいた。
うつむいたカトレアの拳が、膝のうえで、かたく握りしめられている。その指の節が、白くなっていた。さっき、王女として名乗ったときの、あの凛とした気高さは、もう、どこにもない。ただ、悔いだけが、背をちいさく丸めさせていた。
「ボクは、護りきれなかったんだ。あの、たくさんの人たちを」
ラヴィは、なにも言えずに、ただ、その声を聞いていた。
護れなかった。その一言の重さが、痛いほど伝わってきた。きっと、この人にとって、それは、自分が死んだことよりも、ずっと重い。命が尽きたことよりも、護るべき人を護れなかったことのほうが——よほど、深く、この人をいまも刺しつづけているのだ。
ふと、ラヴィは思い出す。ガラスの棺のなかの、あの寝顔。どこにも傷のなかった、しずかな死に顔。——きっと、この人は。力をぜんぶ使い果たして。眠るように、息を引き取ったのだ。傷つくことすら、許されないくらい、最後まで、戦って。
それが、なんだか、よけいに痛ましかった。
——と。
ピアが、しずかに口をひらいた。
「カトレアも、か。——やはり、それが共通点じゃな」
腕を組んだまま、どこか得心したような顔をしている。
「儂もな、ラヴィ。——すでに、死んでおる身よ」
ラヴィの心臓が、ひとつ、跳ねた。
「おぬしはどうだ、ネオン」
ピアの問いに、ネオンは、すぐには答えなかった。長椅子のそばで、目を伏せている。やがて、低い声が、ぽつりと落ちた。
「……ああ。私も、もう、生きてはいない」
ネオンは、それだけ言って、口をつぐんだ。その横顔は、固く、どこか寂しげだった。——それ以上は、語らない。ラヴィも、訊かなかった。
「わたしも」
ぽつりと、ミューが言った。
それだけだった。ネオンが、しずかに頷く。ピアも、目を伏せる。——ミューが死者であることは、この部屋では、もう、とっくにみんなが知っていることだった。あらためて言葉にするまでもなく。
ラヴィの胸に、その事実が、重く落ちてきた。
——わたしの中にいるみんなが。
ネオンも。ピアも。ミューも。そして、いま目を覚ました、カトレアも。
——全員、死んでしまった人たち、だった。
ずっと、いっしょに旅をしてきた。道に迷えば、方角を教えてくれた。落ちこめば、そっと励ましてくれた。ばかなことを言って、笑わせてくれた。こわい夜には、胸の奥から、寄り添ってくれた。——その、あたたかい声が。いまも、こうして、すぐそばにあるのに。その持ち主はもう、この世界のどこにも、生きてはいない。
死んでいるのに、いなくなってはいない。すぐそばにいるのに、もう、どこにもいない。——その、ねじれたような事実を、ラヴィは、どう受けとめればいいのか、わからなかった。かなしめばいいのか。こわがればいいのか。それとも、こうしてそばにいてくれることを、よろこんでいいのか。——自分の気持ちの行き先さえ、つかめないままだった。
ラヴィは、しばらく、動けなかった。胸の奥が、しんと冷えていく。ただ、とほうもなく大きなものを、いま、目の前に突きつけられた——その重さだけが、たしかにあった。
「……待って、くれ」
その静寂を破ったのは、カトレアだった。
覚めたばかりの瞳が、戸惑いに揺れている。まだ、状況をうまく呑みこめていない、その顔で。けれど、まっすぐな問いを、彼女は口にした。
「君たちは、みんな、死んでいる。——なのに、どうして、このラヴィの中に、いるんだい?」
ラヴィは、口ごもった。なんと答えればいいのか、わからない。
「ボクは、この子と、会ったことも、ない」カトレアは、戸惑うように、つづけた。「君たちは、どうなんだい。もとから、この子と、知り合いだったのかい?」
「……いや」答えたのは、ネオンだった。「私も、ピアも、カトレアも。気づいたときには、もう、ラヴィの内側で、目を覚ましていた。ミューだけは、旅の途中で出会って、この子に取り込まれた口だがな。——どちらにしろ。生きていたころに、この子と縁のあった者は、ひとりも、いない」
「じゃあ、なぜ。——縁もない死人ばかりが、どうして、ひとりの子のなかに」
カトレアの問いが、宙に浮いた。
だれも、答えられなかった。
ネオンは、目を伏せたまま、なにも言わない。ミューは、いつもの賑やかさをひそめて、ラヴィのそばに、ちいさく身を寄せている。ピアでさえ、めずらしく、すぐには口をひらかなかった。やわらかな光に満ちた部屋に、息のつまるような静けさが、満ちていく。
ラヴィ自身も、わからなかった。ラヴィには、記憶がない。生い立ちも、過去も、なにひとつ。目を覚ましたときには、もう、この世界にひとりきりで立っていた。なぜ、そんな自分の中に、死んだ人たちが、こうして集まってくるのか。どうして、よりにもよって、なにも持たないラヴィのところへ。——考えても、考えても、なにも、わからない。
みんなが、その問いの前で、言葉を失っていた。
やがて。
ピアが、しずかに、口をひらいた。
「答えは、出んよ。カトレア」
「その問いにはな。——ラヴィも含めて、ここにおる誰ひとり、答えを持たんのじゃ」
腕を組んだまま、ピアは、ラヴィのほうをちらりと見た。
「この子は、自分が何者かも、知らぬ。なのに、その内には、儂ら死人を、いくつも抱えこんでおる。——なぜ、そうなのか。それを知る者は、どこにも、おらんのよ」
ピアの声に、いつものふざけた調子は、なかった。
「不思議な娘よ。——ほんに、不思議な」
その言葉は、答えではなかった。けれど、いまは、それしかなかった。
死者たちが、ひとりの、記憶もない娘のなかに、集っている。その理由を、だれも知らない。——その謎だけが、しんと、この部屋に降り積もっていた。
ラヴィは、そっと目を伏せた。
謎は、なにも、解けていない。——けれど。
ひとつだけ、はっきりしたことが、ある。
ラヴィは、あまりにも、知らなすぎる。カトレアのことも。ネオンのことも、ピアのことも、ミューのことも。そして——自分自身のことを、なにひとつ。
なぜ、死者ばかりが、自分のなかに集うのか。もし、その答えが、どこかにあるのなら。それはきっと、この世界の、ずっと奥のほうに、繋がっている。
——もっと、知りたい。
みんなのことを。自分のことを。この世界が、いったい、どうなっているのかを。
それが、いまはまだ解けないこの謎をほどく、たったひとつの糸口なのだと。ラヴィには、なぜだか、そんな気がしていた。




