28_眠り姫
ラヴィは墓所のなかへ、足を踏み入れた。
ひんやりとした空気が、頬を撫でる。外の街の、淡い色の光とは、まるで質がちがった。高い天井を支えて、白い石の柱がいくつも並んでいる。その奥のほうへ、薄暗がりが、しんと続いていた。
柱と柱のあいだに、石でできた棺が、整然と並んでいる。きっと、この国の王族たちが、眠っているのだろう。どの棺も、塵ひとつかぶっていない。訪れる者など、もう、いないはずなのに。
ラヴィの足音だけが、しんとした空気に、ひそやかに吸いこまれていく。
肩の上のミューが、ふとおとなしくなった。この場所の、おごそかな静けさに、気圧されたのだろう。ちいさく身を縮めると、ミューは、そっとラヴィの胸の奥へ引っこんでいった。
奥へ、奥へと、進んでいく。
——と。
ラヴィの足が、また勝手に止まった。
いちばん奥。ほかのどの棺とも、ちがうものが、そこにあった。
蓋が、ガラスでできている。
なかが、見える。
ラヴィはそっと近づいた。ガラスの蓋越しに、なかを覗きこんで——息をのんだ。
ひとりの女の人が、眠っていた。
赤い——深い紅色の、短い髪。すっと通った鼻すじ。閉じた瞼の下、長い睫毛。男の人のようにも、女の人のようにも見える、凛々しくて、きれいな顔。年のころは、まだ若い——少女と、おとなの、ちょうどあいだくらいに見えた。
身にまとっているのは、純白の、長いドレスだった。襟もとや裾に、淡い紫の縁どりが入っている。きっと、とても上等な、この国の正装。胸の上では、両手が、しずかに組み合わされていた。
そして、その傍らに。
一振りの、細い剣が、そっと添えられていた。
ドレスに、剣。——なんだか、ちぐはぐな取り合わせ。けれど、その人の寝顔は、それを、ふしぎと自然に見せていた。
「……この人」
ラヴィは、ちいさく、つぶやいた。
「息を、している……?」
頬には、血の気がある。いまにも、瞼をひらきそうだった。眠っているだけ、としか、思えない。
「——いや」
胸の奥で、ピアが、しずかに言った。
「息は、しておらん。この娘は、もう、亡くなっておる」
「でも、こんなに——」
「うむ。儂にも、わかる」ピアの声には、感心したような響きがあった。「この亡骸にはな、ラヴィ。——状態を、保つための魔法が、施されておるのよ。死んだそのときのままに、朽ちもせず、ずっと眠っておれるように。よほど、大切に弔われたとみえる」
ラヴィは、ガラスの蓋に、そっと手を当てた。
「……眠り姫、じゃな」ピアが、ぽつりと言った。「お話のなかの。——永い眠りに、ついたまま、目を覚まさぬ姫君よ」
眠り姫。
その言葉が、ラヴィの胸に、しずかに沈んだ。
棺のふちに、銘が刻まれていた。
ラヴィは、その文字を読もうとした。——けれど。
「……読めない」
刻まれた文字は、はっきりとしている。掠れても、欠けてもいない。なのに、ラヴィには、どうしても読めなかった。これまで、まちの看板も、墓所の入口の文字も、ちゃんと読めたのに。この銘の文字だけは、見たこともない、ふしぎな形をしていて——どう見つめても、意味を結んでくれない。
名前も、わからない。
ただ、ここに、だれかが眠っている。それだけが、たしかだった。
ラヴィの胸が、しんと痛んだ。
名前も知らない。どんな人だったかも、知らない。それでも——こんなにきれいに弔われて、こんなにしずかに眠っているこの人のために。なにか、してあげたい、と思った。
ラヴィは、手のひらに、そっと意識を集めた。ヒールを——と、かけかけて。
ふと、手を、止める。
——だめだ。これは、死んでいる人だ。
ヒールは、生きているものの傷を癒やす力。もう息をしていないこの人には、きっと、届かない。それは、ラヴィにもわかっていた。
ラヴィは、手のひらを、そっと下ろした。
手向けるものは、なにも持っていなかった。花も、灯も、なにひとつ。
——だから。
ラヴィは、ただ、祈った。
ガラスの蓋の前で、胸の前に手を合わせ、目を閉じる。名も知らない、あなたへ。会ったこともない、だれかへ。どうか、安らかに。どうか、よい夢を。——その短い祈りに、ラヴィはありったけの心を込めた。
——その、ときだった。
ラヴィの胸の、いちばん奥。
ずっと、ずっと深くで、眠っていたなにかが。
とん、と、たしかに、動いた。
さっき街で感じた、あのかすかな気配とは、ちがう。もっとはっきりと、もっと近くで。なにかが、目を覚まそうとしている。
ラヴィは、目を閉じたまま、その気配のほうへ、そっと意識を傾けた。
胸の奥へ。さらに、奥へ。——内側の世界へと、ラヴィは、しずかに降りていった。
メゾン・ド・ラヴィ。
やわらかな光に満ちた、あたたかな部屋。ネオンが、長椅子からすっと立ちあがる。ミューが、きょとんと顔をあげた。ピアは、腕を組んで、部屋のいちばん奥のほうを、じっと見つめている。
その、奥。
これまで、誰も近づかなかった、薄暗がりのなか。
ひとつの人影が、ゆっくりと身を起こしていた。
——あの、眠り姫だ。
けれど、その姿は、棺のなかとは、ちがっていた。純白のドレスではない。すらりと背の高い体に、白い軍服をまとっている。肩には飾り緒。腰には、あの細い剣。深紅の短い髪が、薄明かりのなかで淡く揺れた。
凛々しい、騎士の姿。
その人は、まだ夢のなかにいるように、ぼんやりとあたりを見まわした。やがて、その視線が、ラヴィをとらえる。
「……ここは」
低くて、けれど、どこかやわらかい声だった。
「いや。——君は、だれ?」
警戒するように、その手が、ふと剣の柄に触れる。けれど、力は、入っていなかった。ただ、戸惑っている。それだけだった。
ラヴィは、そっと首を横にふった。
「……こわがらないで。わたしは、ラヴィ。あなたを、傷つけたりしないよ」
その人は、ラヴィの顔をじっと見つめた。それからゆっくりと、自分の手を、自分の体を見おろす。なにかを、確かめるように。
そして——気づいたようだった。
すっと、背すじが、伸びる。剣から手を離し、胸に当て、その人は、深く頭を垂れた。
「——失礼を、いたしました」
声の調子が、変わっていた。さっきまでの素朴な響きが、礼にかなった、あらたまったものになる。
「わたくしは、カトレア。——この硝子の国、ルミナリアの、王女です」
王女。
その名乗りは、堂々として、気高かった。けれど。
頭をあげたカトレアの顔に、ふと、戸惑いが戻ってきた。あらたまった調子が、するりとほどけていく。
「……って。あれ。——ボク、たしか」
きょろきょろと、あたりを見まわす。
「死んだ、はずじゃ……? なのに、なんで、こんな、知らない部屋に……。っていうか、君は」
カトレアの、赤茶の瞳が、まっすぐにラヴィを射た。
「君は、いったい——なんなんだい?」
ラヴィの胸のなかで、ばらばらだったものが、しずかに、ひとつに結ばれていく。
街で感じた、あの既視感。ここに来るまで、ずっと胸を引いていた、見えない手。あの、ガラスの棺のなかの、眠り姫。——ぜんぶ、この人だったのだ。この人が、ラヴィの、いちばん奥で眠っていた。
「……あなたが」
ラヴィは、しずかに、口をひらいた。
「あなたが、わたしを——呼んでたんだね」
カトレアは、きょとんとまばたきをした。
その瞳には、まだ、戸惑いだけがあった。自分が「死んでいる」という実感は、これから、ゆっくりと追いついて、彼女の足もとを、冷たく浸していくのだろう。
——でも。戸惑っているのは、ラヴィも、おなじだった。
ついさっきまで、ガラスの蓋ごしに見ていた、眠り姫。もう息をしていないはずの、その人が。いまは、ちゃんと言葉を話して、目の前に立っている。しかも、ラヴィの内側で。
内側でだれかが目を覚ますのは、はじめてじゃない。ネオンも、ミューも、ピアも、そうだった。——けれど、すぐそこのガラスの棺に、その亡骸を見たすぐあとで、というのは。さすがに、胸の奥が、ふわふわと落ち着かなかった。
それでも。
ラヴィには、わかっていた。
——わたしが、伝えなきゃ。
この部屋にいる、みんなのことを。そして、この人自身のことを。
ラヴィは、ちいさく息を吸った。




