幕間③
祭壇の中心に立ったその瞬間。
足元から、淡い光がふわりと立ちのぼった。体が軽くなる。星界の景色が、ふっと遠ざかっていく。
雲に入っていく。冷たい霧が頬を撫でて、しばらく、なにも見えなくなる。
不思議と、こわくはなかった。
「……ねえ、ピア」
ラヴィはしずかに口をひらいた。
「うん?」
「なんで——ピアは、星界に行こうって、思ったの?」
胸の奥で、ピアがすこし間をおいた。
「……まあな。聞かれて当然のことよ」
ピアの声は、いつもよりほんの少しだけ、しずかだった。
「ラヴィ。お前さんはな。——儂にとっても、不思議の塊なのじゃ」
「不思議の、塊」
「うむ。儂もな、なぜ自分がお前さんの内側におるのか、よくわからん。お前さんのほうも、自分が何者かを知らぬ。儂らの寝起きしておる場所も——ただの胸の奥、というには、あまりにふしぎな世界じゃ」
ラヴィはこくりと頷いた。
「そんなお前さんが、内側に、とほうもない情報を抱えておった。儂はな、退屈しのぎに、それを、ずっと読んでおったのよ」
「うん」
「——その中に。あの、星界の女王の話が、あったのじゃ」
ラヴィは目を伏せた。広間で聞いた、しずかな話。あの空っぽの玉座。
「儂はな、ふと、思うたのじゃ」
ピアの声が、わずかにためらった。
「——お前さんが、もしや、その女王、その人なのではないか、とな」
「……え」
「お前さんは、自分が何者か、知らぬ。けれど、内側にはその女王の話を含んだ、おびただしい記録がある。——ならば、女王の領域に立てば。なにか、思い出すきっかけになるのではないかと、思うたのよ」
ラヴィはしずかに息を吐いた。
「……うん」
「じゃが、結果は、ご覧のとおりよ」ピアは淡々と続けた。「お前さんに、なにかが呼び起こされるようなことは、なかった。——儂の見立ては、外れた」
ラヴィの胸の奥が、すうっとあたたかくなった。
ピアは。——こんなにも、わたしのことを考えてくれていた。
外れた仮説のために、わざわざここまで連れてきてくれて。そして「外れた」と、こともなげに言うこの声の奥には、たしかな心配と、それでも諦めない、しずかな粘り強さがあった。
「……ピア」
「うん?」
「ありがとう」
「なんじゃ、急に」
「ううん。——本当に、たくさん、考えてくれてるんだなって、思って」
ピアはふっと、笑った気配があった。
ラヴィは、ふと思った。
ピアは、こんなにもわたしのことを考えてくれている。なのに、わたしは。——みんなのことを、どれだけ知っているだろう。
ピアのこと。ネオンのこと。ミューのこと。
——まだ、知らないことが、たくさんある。
ラヴィはそっと、目を閉じた。
雲を抜ける感覚が、遠くなる。冷たい霧も、しずかな降下も、外の景色も。——みんな、ふっと、遠ざかっていった。
代わりに、まわりに広がったのは——。
メゾン・ド・ラヴィ。
ラヴィの内側の、しずかな家。やわらかな光に満ちた、あたたかな部屋。
そして——その中に。
ネオンとミューが、いた。
ミューは、本来の姿だった。猫耳の、ちんちくりんな少女。ぱちくりと目をひらいて、ラヴィを見ている。ネオンは、いつもの落ち着いた佇まいで長椅子に腰かけ、書物のようなものを膝の上にひらいていた。
ふたりとも、急にラヴィが降りてきたものだから、きょとんとしていた。
「ねえ、ふたりとも」ラヴィはにっこりと笑った。「ふたりのこと、もっと、教えて?」
ネオンが、ぱちりと目をしばたいた。
「……は?」
書物を膝のうえに置きなおして、ネオンはすこし眉をひそめる。
「ラヴィ。——唐突だな」
ミューは、ぴょこんと立ちあがった。
「ええっ、わたし? いいよいいよ、なんでも聞いて!」
両手で胸の前にぐっと握りこぶしを作る。やる気満々の顔だった。
そのときだった。
部屋の奥のほうから、ピアの声がのんびりと響いた。
「ほう。——みんなのことが、知りたい、か」
棚のあいだから、ピアがふらりと姿を見せた。書物を一冊、片手にかかえている。
「そうじゃのう。——では、恋バナでも、するかの」
ピアがまず目を向けたのは、ネオンだった。
「ふむ。——まずは、ネオン。お前さんはどうじゃ?」
ネオンが、ぱっと顔をあげた。
「な、なぜ私から……っ」
その声は、いつもの落ち着きがすこし、ほつれていた。
「ほう」ピアは、にやりと笑う。「——憧れぐらいは、あるじゃろ?」
「——っ」
ネオンは言葉に詰まった。目をふいと横へそらす。耳のあたりが、ほんのり赤くなっていた。
ピアがくつくつと、しずかに肩を揺らした。
「次は、お前さんじゃ、ミュー。——心当たりは?」
ミューは、こてんと首をかしげた。
「ええっ、わたし? うーん……」
両手の指で、ぽちぽちと数えるみたいに、なにか考えこむ仕草をする。やがて、ぱあっと顔を輝かせた。
「強いて言うなら、いまは——ラヴィが大好き!」
ぐっと、ラヴィのほうへ身を乗りだしてくる。
部屋にいた全員が、びくっとした。
ピアが、ぽかんと口をあけた。
「……ふむ。それは、恋とは、ちがうじゃろうが」
ピアの肩が、すこし揺れる。
「——その全力具合は、嫌いでは、ないぞ」
「では、次は——ラヴィ。お前さんはどうじゃ?」
ラヴィはこてんと首をかしげた。
「コイ? ……お魚?」
しん、と、部屋が静まった。
ネオンが口元を片手で押さえた。ミューが目をぱちくりさせている。
そして、ピアが——
「く、くっ……」
笑いはじめた。
「……っ、あっはははは!」
肩を揺らして、手にしていた書物をすこし、落としそうになる。
「やるな、こいつ——いやはやな!」
部屋いっぱいに、ピアの笑い声が響きわたった。
笑いがすこし収まってきたところで。
ネオンが、すうっと顔をあげた。
赤いままの耳のうえから、ピアをまっすぐ見すえる。
「——そういうお前は、どうなんだ」
ピアの肩が、ぴたりと止まった。
「……」
ピアは、しれっと、肩をすくめた。
「儂はな。——恋ぐらい、するぞ」
「えっ」ミューが、思わず声をあげた。「ピア、好きなひと、いるの?」
「アホ、そんなものはおらん」
ピアは、書物をぱたりと閉じた。
「過ぎ去った話よ。——とにかくな、恋は、理屈じゃないわ」
そして、わざとらしく、肩をすくめてみせた。
「揃いも揃って、つまらんなおぬしら!」
そう言いながら、ピアはふらりと書棚のほうへ寄っていった。
そして、ぐるりと一巡、棚を眺めて。
「——おぬしらには、とりあえず、これじゃの」
何冊かを、すっと、ひっぱり出した。表紙には、装飾的な文字。なかをぱらぱらと開けば、華やかな挿絵がちらりと見える。
ピアはそれを、ネオンとミューのところへ、ぽいっと差し出した。
「読んで、勉強しておけ」
ネオンが、慎重にそれを受けとった。
ミューも、おそるおそる受けとる。
「……勉強って」ネオンが、ぼそりとつぶやいた。「私は、別に——」
「いいから、いいから」
ピアは、にやにや笑って、もとから手にしていた自分の書物に戻っていった。
ミューが、渡された書物をぎゅっと胸に抱えこんだまま、ラヴィのほうへ、ふと顔を向けた。
「ねえねえ、ラヴィ」
「うん?」
「ラヴィは、そのままでいいんだよー」
にっこりと、ミューは目を細めた。
「ラヴィは、ラヴィのままで。——わたしも、ネオンも、ピアも。みんな、それでいいから」
ラヴィは、ぱちりとまばたきした。
それから——腕を組み、眉をぎゅっと寄せる。
「……みんなのこと、知るの、難しい!」
ミューが笑った。ネオンがふっと、肩を揺らした。
ピアが、また、くつくつと笑いはじめる。
ラヴィは、ちょっと頬をふくらませた。
ふっと、意識が、浮きあがった。
メゾン・ド・ラヴィの、あたたかな部屋が、しずかに遠ざかっていく。
代わりに、まわりに広がったのは——。
灰色の風が、ラヴィの頬を撫でた。
崩れかけた、地上圏の景色。表面の剥がれた地面。半ばから溶けた建物。——けれど、これも、なじみの景色だった。
ラヴィは、ふっと息をついた。
胸の奥では、まだ、ピアのからかう声と、ふたりの抗弁が続いている。
それがラヴィには——あたたかかった。
ラヴィはちいさく笑って、灰色の風のなかへ、一歩を踏みだした。
次の目的地は、硝子の国。




