26_心の器
ラヴィはゆっくりと立ちあがった。
空っぽの玉座を、もう一度だけ振り返る。それから、玉座のさらに奥——背の高い窓の並ぶ、その先へ。ラヴィは足を踏みだした。
窓と窓のあいだに、もうひとつ、ひそやかな扉があった。半ばひらかれている。そのむこうへ、ラヴィはひとり、抜けていった。
道は、星界のさらに奥へと続いていた。
歩くたびに、淡く透きとおる白い石の床が、足元で星明かりを返す。長い影が後ろへひいていく。風はないのに、頭上を巡る星々がしずかに流れていった。広間の中とおなじまったきの静寂が、ここにも染みこんでいる。
しばらく歩いたところで、視界がふとひらけた。
足元の道が、なめらかに途切れている。その先には、なにもない——いや、ちがう。ぽっかりと、地が大きくひらいていた。
すり鉢のように円くくぼんだ、広い窪地だった。
ラヴィは息をのんだ。
——え。
胸の奥が、ふと軋んだ。これ。これは——。
足を一歩踏みだす。窪地のふちまで、そっと近づく。下を覗きこんだ瞬間、ラヴィはぴたりと動きを止めた。
底のほうで、いくつもの石の柱が倒れていた。一本残らず、中心へ向かって放射状にきれいに倒れている。まるで誰かが定規をあてて、ひとつひとつ並べたみたいに。地を裂いている亀裂は、左右対称の模様のよう。割れた石の大きさまで揃って見える。
そして——崩れ落ちたはずの石くれのいくつかが。
宙の途中で、ぴたりと止まっていた。
落ちる途中の姿のまま。重さを忘れたみたいに、なにもない空中に、ぽつり、ぽつりと浮かんでいる。
ラヴィの胸の奥がしんと冷えた。
——これ。
「……見たこと、ある」
声がふるえた。
地上にいたころ。崩れたある場所で、おそろしく大きな怪物に襲われ、必死で逃げていた、あの旅の途中。同じ景色をラヴィは見ていた。あのときは足を止めることもできなかった。走り抜けるしかなかった。けれど、目に焼きついていた。
円く、すり鉢のようにくぼんだ場所。放射状に倒れた柱。左右対称の亀裂。宙に止まったまま浮かぶ石くれ。——あのときの、すり鉢の景色。それとまるで同じだ。
——そして。
あの整いすぎた景色を抜けた、しばらく後のこと。
ラヴィは出会った。
空のほうから、ゆっくりとラヴィを見下ろした者がいた。同じ顔。同じ髪。同じ声。——もう一人のわたし。
『……なるほど』
そのときの冷たい声が、いまも耳の奥に残っている。
『失敗作を、追ってきてみれば。確かに——お前のようなものが、存在することも、ありえるか』
失敗作。
その言葉は、あのときラヴィに向けられたのか。それとも、ほかの——いつかどこかで生まれた、何かに向けられていたのか。あのときはただ、その言葉の意味すら掴みかねていた。
けれど、いま。
ラヴィはしずかに、すり鉢の向こうへ視線をあげた。
クレーターの先には、もっと広い領域がぽっかりと広がっていた。
そこは——もう、星界ではなかった。
星界の保たれた静謐とは、まるでべつの質感。光源が見えないのに、なぜか一様に明るい。長く伸びていたはずの影が、ぜんぶおなじ向きに倒れている。星々は巡るのをやめて、打ちつけられたみたいに静止していた。
遠くに、断ち切られた塔のようなものがいくつも見える。星界の景色のなれの果てだろうか。それが、整いすぎた格子のなかに無理やり嵌めこまれたように立っていた。崩れたかけらが、不自然に空中で止まったまま宙に浮いている。
足元のクレーターと、おなじだ。整然と、機械的に、無理やりひとつの形へ押しこめられた、あの手つき。
それがもっと広く、もっと大きな規模で、目の届くかぎりに広がっている。
——ここから先、ぜんぶ。
ラヴィの胸がすうっと冷えた。
ぜんぶ、もう一人のわたしが、作った場所だ。
胸の奥がざわめいた。
ピアの気配がふっと張りつめた。なにも言わない。けれどその沈黙の奥には、いつもとはちがう刃のような緊張があった。
ネオンも、口を開かなかった。
広間にいたときよりも、いっそう深く、何かに耐えるように、その気配は黙りこんでいる。なつかしいような、しめつけられるような——あのときネオンが言いかけていた、何か。それがここでは、もっと濃くなっている気がした。
ミューは内側で、ちいさく身を縮めたままだった。広間に入る前、廊下で内へ引っこんだきり。それから、ひとことも話していない。
ラヴィはふと、頭上をあおいだ。
そこに、あの線があった。
旅のはじめから、ずっと頭上にあった、空を裂く一筋の線。下界で見ていたときには、ずっと遠く、薄ぼんやりとしか見えなかった、あの裂け目。
それが、いまは。
手を伸ばせば届きそうな、近さで。
クレーターのさらに先、もう一人のわたしの作った領域の、もっと奥のほう。そのまっすぐ頭上に、はっきりと見えていた。
線のむこうの空は、いつものように、ほんの少しだけ色がちがった。
——と、そのときだった。
胸の奥で、ピアがゆっくりと口をひらいた。
「のう、ラヴィ」
いつもの飄々とした声。けれど、ふだんよりもわずかに静かな響きだった。
「——あの、もう一人のラヴィ、じゃがな」
「……うん」
「お前さん、アレに、対抗できるか?」
ラヴィの呼吸が、ふと止まった。
「気まぐれに、力を振るわれてな。——その場で、ころりと死んでしまうのでは、困るじゃろうて」
ラヴィは目を見ひらいた。
仮に。——仮に、いま。
このすり鉢の向こうの、整いすぎた領域の、その奥で。あの、もう一人のわたしと、出会ったら。
ぞくりと想像が走った。
同じ顔。同じ声。同じ髪。けれど、まるでちがう冷たい眼差し。ふっとこちらを見おろして、片手をあげる。ひらいた掌のうえに、菫色のちいさな火がともる。それがしゅう、しゅう、と空気を吸いこむようにしてみるみるふくれあがって——。
ラヴィの体はこころなしか、ぞわりと冷えた。
あのとき。あのわたしごと呑みこもうとした菫色の光を、ラヴィはなすすべもなく見ていただけだった。ネオンが分身で受けとめてくれて、ようやくなんとか逃げのびた。けれど——もう、あれをネオンひとりに繰り返させることはできない。それに、あのとき向けられた力は、まだまだほんの片鱗にすぎないかもしれない。次に出会えば、その何倍、いや何十倍の力がいきなり振り下ろされても、おかしくはない。
これでは、無理だ。
ここから先に踏みこんだら。あっという間にラヴィは——消えてしまう。
「……戻ろう」
ラヴィはしずかに言った。
「ピア。ネオン。ミューも。——いったん、地上に、戻ろう」
胸の奥の三つの気配が、ふっとゆるんだのがわかった。
ラヴィがすり鉢に背を向けて歩きだしたとき。
胸の奥で、ピアがまた口をひらいた。
「賢明じゃ、ラヴィ。——ところでな」
「うん?」
「儂に、またひとつ、心当たりがある」
ピアの声はいつもの調子に、すこし戻っていた。
「次に向かってみる場所、じゃがな」
「……どこ?」
「お前さんの書架にな、こう書かれておった」ピアは淡々と続けた。「——心器、というものが、あるそうじゃ」
「しんき……?」
ラヴィは足を止めた。聞いたことのないことばだった。
「うむ、心器じゃ」
「それって——なに?」
「お前さんのような者にはな。——ひとりひとりに、固有の力を持った武器がある、というのじゃ」
「武器」
「うむ。剣、とは限らん。形はそれぞれよ。じゃが、その者の内なる性質と、深く呼応する——」
ピアは、すこし間をおいた。
「——そういう、ものらしいわ」
「……うん」
「そして、その器を得るための試練の場、というのが、あるらしい。——書架には、その場所も書かれておった」
「どこに?」
「——硝子の国、というところじゃ」
硝子の国。
ラヴィの耳に、その名前がしずかに残った。聞いたことのない地名。なのに、その響きには、なぜかわずかな引っかかりがあった。ほんのちいさな——何かの予感のような。
けれど。
ラヴィは、自分の中にその地名の手がかりがあるとは思わなかった。ただ、ピアの言葉をしずかに受けとめる。
「うん。じゃあ——そこに、行ってみよう」
ラヴィはこくりと頷いた。
すり鉢を背に、ラヴィは来た道を引き返した。
星界の奥から、玉座の広間へ。広間を抜け、廊下を戻り、宮殿のような建物を出る。そこから、星界の保たれた景色のなかを歩いて、来たときの遺跡へ向かう。
道の途中、ラヴィはもう一度だけ、肩越しに振り返った。
ぽつんと、星明かりの奥にたたずむ、古い宮殿のような建物。あの空っぽの玉座。散らぬ花。消えぬ灯。星々の巡り。——女王の領域。
「……ありがとう」
なぜだろう。ぽつりと、ラヴィの唇からその言葉がこぼれた。
ここをずっと保ってくれている、女王。会ったこともないその人へ、ラヴィはほんのちいさく頭を下げた。
やがて、行く手の先に、白い石の柱の並ぶ、あの環の遺跡が見えてきた。
ラヴィはふと、足を止める。
もう一度、空をあおぐ。
そこには、まだあの線が見えていた。
裂けた空の下に、ラヴィは立っていた。
届かない高さに。届かない場所に。——けれど。
いま、ここから去るのは、逃げるのではない。もう一度、戻ってくるために。みんなで。別の道を歩いて。
ラヴィはぎゅっと手を握りしめた。
そして、しずかに息を吸いこむ。
「——行こう」
胸の奥で、ピアがふっと笑った気配があった。ネオンも、ちいさく応えてくれた。ミューはまだ、内側で身を縮めたまま。けれど、ほんのすこしだけ、その気配がやわらいだ気がした。
次の目的地は——硝子の国。




