25_昔話
足を踏み入れた途端、ラヴィはそこが古い宮殿のような場所だと知った。
両開きの大きな扉のむこうに、まっすぐ伸びる廊下があった。床は、淡く透きとおる白い石。壁にはいくつも柱が並び、その合間に、見たこともない文字の刻まれた古いタペストリーが垂れている。柱と柱のあいだに切られた背の高い窓から、星明かりが斜めに差しこんで、床に長い光の帯を等間隔に落としていた。途中の小さな卓に、色とりどりの花が活けられている。けれど、どれも散っていない。壁にしつらえられた古い燭台では、誰も世話などしていないのに、灯がしずかにともり続けていた。歩くラヴィの足音だけが、ぽつり、ぽつりと、静かな空気にこだましていた。
ふと、頭の上にいたミューが、動きを止めた。星界に降り立ったとき、あんなにはしゃいでいた声は、もうない。広間に辿りつくよりも前に、ミューはちいさく身を縮めると、おびえるようにラヴィの胸の奥へ引っこんでいった。
廊下の突き当たり。
そこに、もうひとつの扉があった。半ばひらかれた、大きな扉。そのむこうに、大きな広間が広がっていた。
天井は、見上げるほどに高い。上方の窓から斜めに差しこむ星明かりが、床に長い光の帯を落としている。奥には、一段高いところに、ひとつの椅子があった。背の高い、立派な椅子。——けれど、そこには、誰も座っていない。ずっと昔から、ただ、空いたまま。
玉座だ、となぜか、ラヴィは思った。
その空っぽの椅子を見ていると、胸の奥が、またしんとした。ラヴィは、広間のなかほどに、そっと腰を下ろす。星屑をまとった静けさが、まわりを満たしていた。
「——さて。どこから話したものかな」
胸の奥で、ピアがゆっくりと口をひらいた。いつもの飄々とした声。けれどその底には、何かを丁寧に選びとろうとするような、しずかな間があった。
「これはな、ラヴィ。——ある、記録の話じゃ」
ラヴィは、こくりと頷いて、耳を澄ました。
「先に、断っておくぞ。——太古の昔の話ではない。本当に、ついこのあいだの出来事よ。そう思うて、聞いておれ」
——つい、このあいだ。
ラヴィはその言葉の重みに、ふっと胸が引きしまった。
「もとよりこの世界はな。——ひとつでは、なかった」
ピアの声が、しずかに紡ぎはじめる。
「剣の世界。魔法の世界。獣人の世界。お前さんの知らぬ理がそれぞれに在る、いくつもの世界。——そのすべてが、長いこと、おのおのべつべつに在ったのじゃ。本来であれば、互いに交わることなど、ありえぬほどにな」
ラヴィは、目を伏せて聞いた。べつべつに在った、いくつもの世界。それを、ラヴィは知らない。けれど、なぜかその情景は、胸のずっと奥のほうから、しずかに浮かびあがってくる気がした。
「そして、それらすべての世界を、ずっと見守っておった者がおる」
「……だれ?」
「星界の、女王じゃ」
ピアの声は、古い物語を辿るように、どこか淡々としていた。
「この星界を治めた者じゃ。——いや、治めたという言い方は、すこしちがうかもしれんな。並び立つ世界のひとつひとつを、上から押さえつけたわけではない。それぞれの世界に息づく者の、おのおのの暮らし、おのおのの営み。それを尊び、護っておった」
——見守る、ということ。
なぜだろう。その言葉が、胸の奥にすうっと馴染んだ。それぞれが、それぞれのままでいてよい。その上に立つだれかが、それをしずかに見ている。——そういう、やさしい在り方が、あったのだ。
「だが、ある時のことよ」
ピアの声が、ふっと低くなる。
「一柱の神が、その並ぶ世界へ、踏みこんできた」
「神……」
「——グランドクロス。そう呼ばれた神よ。世界を裁き、おのれの理のままに組み替える。それだけのために、本来交わるはずのなかった世界を、無理やり、ひとつに混ぜ合わせた」
グランドクロス。聞いたことのない名前。なのに、その響きには、なぜか、ぞくりとするものがあった。
「混ぜられた世界は、ひどく荒れた。理のちがう世界どうしが、ぶつかって、軋んで。——いま、お前さんが旅してきたこの世界の、混沌としたかたちはな。そのときに、生まれたのよ」
——ああ。
ラヴィは、旅の景色を思い出した。古い石の村のとなりに、ちがう理から来たような塔がそびえ、錆びた橋脚が立つ。たくさんの世界の切れ端を、むりやり一枚の布に縫い合わせたような、あの眺め。あれは——ほんの、つい近頃の、あの神の仕業だったのか。
「神は、こう裁いたのじゃ。——この世界に息づく、人の子。いや、人の子だけではないぞ。獣人も、そのほかの種族も。そのなかで命をつないでおる、すべての営みは、ことごとく、断罪すべきものだとな」
「断罪……」
「神には神の理があるのじゃろう。——儂はそう聞いておる。命あるものの営みが、すべて誤りに見えるような、そういう理がな」
ピアは、すこし、息をついた。
「女王は、それに、抗うた」
しん、と、広間が静まる。
「混ぜられ、乱されたうえに、断罪までされそうになっておる、そのすべてをな。——どうにかして、護ろうとした。営みを尊ぶ者と、それを裁こうとする者。その争いが、続いたのじゃ」
ピアは、そこで、ふっと声を落とした。
「そして女王は。——その身の、命の炎を、燃やし尽くして。神を、ひとまず退け。世界に、秩序を残して……逝った」
しん、と、広間が静まりかえった。
ラヴィは、空っぽの玉座を見た。あんなにも美しいものを遺して。散らぬ花を、消えぬ灯を、巡る星を。——それを定めた人は、もう、どこにもいない。
「だからな、ラヴィ」ピアが、しずかに言った。「この星界は、こんなにも保たれておる。女王が、もうおらぬのに。——その女王の遺した秩序だけが、いまも、この高みを崩れぬよう、抱きつづけておるのじゃ」
——ああ。
ラヴィの胸に、すとんと落ちた。散らぬ花も。空っぽの玉座も。ぜんぶ、そういうことだったのか。主は、もういない。それでも、その人が遺した「こうあれ」という想いだけが、いつまでも、この場所を守っている。
それは、さびしくて。けれど、どこか、とてもやさしい話だった。
「……ピアは」ラヴィは、感心したように言った。「すごく、いろんなこと、知ってるんだね」
すると、ピアは、くつくつとおかしそうに笑った。
「なんじゃ、いまさら。——お前さんの、書物じゃよ」
「……え?」
「内を、覗いてみよ。儂の寝床の、あたりをな」
言われるままに、ラヴィは、そっと目を閉じて、胸の奥——内なる世界へ意識を向けた。
メゾン・ド・ラヴィ。その、いちばん奥。ピアのためにラヴィが作った、暗がりの棲み処。古い椅子と、星屑の窓。——そして。
壁いちめんに、びっしりと。
古い書物が、並んでいた。
「……こんなに?」
ラヴィは、目をみはった。背表紙のひとつひとつに、見たこともない文字。読んだ覚えなんて、まるでない。それなのに、その書物は、たしかにラヴィの内側に在った。ラヴィがこの部屋を作ったとき、いつのまにか、そこに生まれていたのだ。
「お前さんはな、ラヴィ」ピアの声が、しずかに告げる。「自分でも気づいておらぬのじゃろう。——その内に、とほうもない量の記録を、抱えておる。自分でも知らぬ、この世界の来し方を。お前さんが見たことも、聞いたこともないはずのことごとくを、な」
ラヴィは、言葉を失った。
空っぽだと、思っていた。名前も、過去も、なんにもない。——なのに。この胸のずっと奥には、読んだこともない物語が、こんなにもぎっしりと眠っている。
「儂は、暇にあかせて、それを読んでおっただけよ」ピアは、こともなげに言った。「お前さんという娘が、いったい何なのか。——それを知る手がかりも、案外、その書架のどこかにあるのかもしれんな」
ラヴィは、内なる書架を見つめたまま、ふと思った。——女王と争った、あの神。グランドクロス。命の炎を燃やした女王に、一時、退けられた、その神は。
「……ねえ、ピア。その、グランドクロスっていう神は。女王さまに退けられて——それから、どうなったの?」
その問いに、ピアは、ふっと黙りこんだ。
ほんの一瞬。——けれど、それは、ほんとうにわずかな間だった。すぐに、ピアの声が、いつもの飄々とした調子で返ってくる。
「——いや、すまんな、ラヴィ」
「え……?」
「ここまで話してみたものの。——どうやら、当てが外れたようじゃ」
ピアは、こともなげに笑った。
「儂もな、よう知らんのじゃ。そこから先は」
ラヴィは、すこし、戸惑った。
当て。——なんの、当てだったのだろう。
ピアの口ぶりは、いつもどおり軽い。なのに、その「当てが外れた」という言葉だけが、ラヴィの中にちいさく引っかかった。ピアはこの話を、なんのためにはじめたのだろう。ただ、星界の女王のことを教えてくれただけ、なのだろうか。
——もしかして。
ふと思った。ピアは、何かを確かめようとして、この話をしていたのではないか。けれど、それがなんなのかは、わからない。気のせいかもしれない。——そう、打ち消そうとした。
それでも、ちいさな引っかかりは、消えなかった。
ピアは、儂もよう知らん、と言った。さっきまでの、よどみない声と同じ調子で。けれどその「よう知らん」の奥に、なにか別の重みのようなものがある気がした。——そんな気がしただけ、かもしれない。
ラヴィは、それ以上、訊かなかった。
ピアが語るべきときに、ピアは語ってくれる。——いつか確証が出たら必ず話す、と。あのとき約束してくれた言葉を、信じることにしたから。
そっと、目を開ける。
星明かりの広間。空っぽの玉座。等間隔に並ぶ柱。——どこにも、誰の気配もなかった。この高みには、本当に、何もない。女王の遺した秩序だけが、しずかに、この場所を抱いている。それだけ、だった。
ラヴィは、玉座のむこうへ目をやった。玉座の奥には、背の高い窓がいくつも並んでいた。その向こう、星界の奥。そこには、あの線がはっきりと見えた。空を裂く、一筋の線。旅のはじめから、ずっと見えていた、あの裂け目。それが、この高みでは——下界で見たときよりも、ずっと近く、ずっとはっきりと見えていた。
線のむこうの空は、やはり、少しだけ、色がちがった。
自分が何者なのか。この胸に眠る、膨大な記録が、いったい何なのか。——その答えは、この空っぽの高みには、なかった。
それでも、まだ、確かめていない場所がある。あの線の、むこう。
ラヴィは、ぎゅっと手を握りしめた。こわい。けれど、もう、目を逸らすつもりはなかった。
「……ピア。ネオン。ミューも」
ラヴィは、しずかに内側へ呼びかけた。
「——もう少し、先まで。いっしょに、来てくれる?」
返事はない。けれど、胸の奥の三つの気配が、たしかに、寄り添うように揺れた。それで、じゅうぶんだった。




