23_盗人の手
指先が光に触れる、その寸前。ラヴィはふと、動きを止めた。
こぶしほどの淡い塊が、すぐ目の前で、いまもミューに呼びかけ続けている。明るくなり、暗くなり。はやくおいで、とでも言うように。
「……ミュー」
胸の奥へ、そっと問いかける。
「触れても、いい?」
ためらいの気配が返ってきた。怖がって、身を縮めて。それでも、いやだとは言わなかった。しばらくして、ちいさな声がぽつりと届く。
「……うん」
それで、じゅうぶんだった。ラヴィはのばした指を、淡い光へそっと押し当てた。
——その瞬間。
声が流れ込んできた。
ひとつではない。いくつも、いくつも。顔の見えない、知らない声たち。けれどその響きには、覚えがあった。ずっと前、ミューがほんとうの姿を取り戻した、あの貧しい横丁。あそこで聞いた声々と、おなじ手ざわりだった。
《好きで盗んでたわけじゃ、ないんだよ》
《家族のためだったって聞くと、なあ……》
惜しむように。悼むように。声たちは口々に、ひとりの小さな盗人のことを語っていた。
その声に押されるように、ラヴィの頭の奥で、像が結ばれていく。うす暗い路地裏。じめついた石畳。そこに痩せた影が、いくつも身を寄せ合っていた。子どもたちだ。ひもじさに、頬のこけた。
そこへ、ひとつの小さな手がのびる。なにかをそっと差し出した。食べものだ。盗んだものと知りながら。いけないことだとわかっていながら。それでもその手は何度も、子どもたちの口もとへ、それを運びつづけた。
やがて——空が翳った。
大きく、つめたいものが、頭上に立ちはだかっていた。塔のように高い。顔も声も、何ひとつ見さだめられない。ただそこに在るだけで、逆らうことの許されない、絶対のなにか。
影のような腕が、ゆっくりと持ちあがる。そして、その指がさした。
小さな盗人を、ではなかった。その足もとで、おびえて身を寄せ合う、ちいさな子どもたちのほうを。——罪の、根源として。
「——っ」
小さな盗人が、震えた。それでも逃げなかった。両手をいっぱいにひろげて、子どもたちを背に隠す。
「この子たちは、なにもしてない」
ふるえる声で、それでもはっきりと言った。
「ぜんぶ、あたしが勝手にやったこと。——だから」
だから、と。声が途切れる。
そうして小さな体はたったひとりで、ふりかかるすべての裁きを、その身に受けた。——その裁きは大地を穿ち、足もとに、底の見えない縦穴を開けた。ちいさな影がぐらりと傾ぐ。その暗い穴の底へ、吸い込まれるように、落ちて。
ふつり、と光が途切れた。
「……っ、あ」
ラヴィは指をひいた。
肩が大きく上下する。息がうまくできない。頬をつうっと、なにかが伝った。指でぬぐうと、濡れている。涙だ。自分のものなのか、いま流れ込んできた誰かのものなのか、もう分からなかった。
ラヴィは、目の前のそれを見た。
涸れはてた古い井戸——そう思っていた。けれど、ちがった。よく見れば、それはただ、石を円く積みあげただけのもの。ひとつ、またひとつと、誰かが手で重ねていった跡だった。井戸ではない。——墓標だ。
残された子どもたちが、いなくなったミューを想って、あの穴のふちに、石を積んだのだ。ささやかで、けれど精いっぱいの、たったひとつの弔いのしるし。
その積まれた石のうえで、あの光がいまもしずかに脈打っている。——ここだ。胸の奥が、きしむように痛んだ。ここで、あの子は落ちて、そして、悼まれたのだ。
そして思い出す。ミューがほんとうの姿を取り戻した、あの貧しい横丁。触れた光が語っていた、盗みでしか生きられなかった子のこと。あの声たち。
あれはぜんぶ、ミューのことだったのだ。
ラヴィはふらりと、その場に膝をついた。積まれた石にそっと両手を添えて、目を閉じる。
——会いに、いかなきゃ。いますぐに。
意識がすうっと、内側へ降りていった。
※
メゾン・ド・ラヴィの居間。あたたかいはずの灯りが、いまはどこか、しずかに沈んでいた。
ミューは椅子にいた。膝を抱えて、ちいさく丸まって。固く目をつむっている。ラヴィが降りてきた気配に気づいているはずなのに、こちらを見ようともしない。
そして先回りするように、ミューは口をひらいた。
「……見たんでしょ」
吐き捨てるように、ぶっきらぼうに。
「そうだよ。あたし、泥棒。こそこそ盗んで、騙して、人のものに手を出して生きてきた。腹黒くて強欲な、泥棒猫。——ずっと黙ってて、ごめんね。でも、ほんとのことだよ」
目をつむったまま、まくし立てる。言葉に言葉をかぶせて、ラヴィに何も言わせまいとするように。
「どう、幻滅した? こんなの、そばに置いときたくないでしょ。いいよ、べつに。慣れてるから、そういうの。——だから、さ」
だから、嫌いになってもいい。そう続けようとした声を。
「ミュー」
遮ったのは、ネオンだった。
壁ぎわで腕を組み、いつものぶっきらぼうな声で。けれどその表情は、普段ミューに向けているものとは、どこかちがっていた。
ミューがはっと顔をあげ、ネオンを見る。ネオンは何も言わず、ただ顎でしゃくってみせた。あちらを見ろ、と。
その先に、ラヴィが立っていた。
「ラヴィ……」
ミューの目が見ひらかれる。ラヴィの頬を伝うものに、気づいて。
ラヴィはゆっくりとそばへ歩み寄った。膝をつき、目の高さを合わせる。そして抱えこまれたミューの小さな手を、両手でそっと包んだ。涙をこぼしながら。
「……大丈夫」
声が震えた。
「大丈夫だよ、ミュー」
ミューが息をのむ。——どうして、あんたが泣くの。あたしの話なのに。あたしの、罪の話なのに。
けれど、何も言えなかった。かわりに、つむっていた目から、大きなつぶがひとつこぼれ落ちた。つづけて、もうひとつ。とめどなく。
「……っ、う……」
しゃくりあげながら、ミューはとぎれとぎれにこぼした。
「……お腹、すかせてたんだ。あの子たち。ちいさくて、あたしがいなきゃ、あたししか、いなかったから」
「……でも、あたし、他になんにもできないから。あの子たちは、生きてるのが、罪なの……?」
ぽろぽろと、言葉が溢れていく。けれどその声には、もう開き直りのとげはなかった。ずっとひとりで抱えてきたなにかが、ほどけてこぼれていくようだった。
ラヴィは握る手に、すこしだけ力をこめた。何も言わず、ただいっしょに泣いた。
——あの、大きくつめたいもの。
ラヴィの胸に、小さな棘のように、それが残っていた。この小さな手が犯した、もっと小さな誰かのための罪。それが、あれほどの仕打ちに値するというのだろうか。
いったい、何なのだろうか。
部屋のいちばん奥で。深く椅子に腰かけたピアが、その光景をしずかに見ていた。いつものからかうような笑みはない。なにかに気づいたように、けれどそれを口にはせず。ただ深紅の瞳を、そっと伏せただけだった。
どれくらい、そうしていただろう。
やがてミューのしゃくりあげる声が、すこしずつやわらいでいった。ラヴィの手のなかで、ちいさな手がおずおずと握り返してくる。
「……ラヴィ」
「……うん」
「あの、さ」
ミューは口ごもった。ありがとう、と言いかけて。けれど、てれくさくて言えなくて。かわりに、抱えた膝へ、顔の半分をぐりっとうずめてしまう。くぐもった、小さな声だけが、もれてくる。
「……べつに。なんでもない」
ラヴィはふっと笑った。それからそっと、ミューの頭に手をのせる。ミューはいやがらなかった。むしろ、ちょこんと、そのてのひらに頭をあずけてきた。
——いいんだ。言わなくて。
ラヴィにはもう、ぜんぶ伝わっていた。
※
意識がふっと浮きあがる。
目を開けると、崩れた街の灰色の風が、頬を撫でていた。積まれた石のうえでは、あの光が役目を終えたように、すうっとほどけはじめている。いくつもの淡い粒になって、ひとつ、またひとつ、灰色の風に溶けて消えていった。
あとには、ささやかな石の墓標と、しんとした静けさだけが残った。
ラヴィはゆっくりと立ちあがる。もう一度だけ、その小さな墓標を見おろした。
ここで、ミューは終わったのだ。——でも。
そっと胸に手を当てる。手のひらの下に、たしかな熱があった。意地っぱりで、強欲で、てれ隠しで、泣き虫の——あのミューが、いま、たしかにここで、生きている。




