22_連携
その一帯にさしかかったとき、ふいに内側のミューが口をつぐんだ。
ここしばらく、ミューはピキピキの姿で外に出ては、ラヴィの肩で得意げにはしゃいでいた。なのに、いまは。何度誘っても、出てこようとしない。
「……あたし、出るの、やめとく」
ちいさな、ためらいがちな声だった。いつもの威勢がすっかり消えている。
「どうしたの、ミュー?」
「この場所……なんか、いやな感じ」
ラヴィは足を止めて、あたりを見まわした。崩れかけた街並みが、灰色にひろがっているだけだ。とりたてて、ほかの土地と変わったところはない。——けれど、ミューの奥のほうで、何かがしきりにざわめいているのが、伝わってくる。形にならない、ざわめき。本人にも、その正体はつかめていないようだった。ただ、こわい。そう言いたげに、身を縮めている。
「……無理しないで。ミューは、内側にいていいよ」
やさしくそう言うと、ミューが、ほっとしたように奥へ引っこむ気配がした。
そのときだった。
ラヴィの目が、ふと一点に吸い寄せられた。
崩れた街の、ずっと先。涸れて朽ちた、古い井戸のうえに——光が、ひとつ浮かんでいる。
旅の道々で、いくつも目にしてきた、あの不思議な光だ。触れると、知らない言葉や、誰かの想いが、頭のなかへ流れこんでくる。自分が何者なのかを、ほんのひとかけらずつ教えてくれる、たいせつな手がかり。
けれど、その光は、いつものものとはちがっていた。
ひときわ大きい。こぶしほどもある淡い塊が、明るくなったり暗くなったりと、ゆっくり脈を打っている。そして——その明滅が、ラヴィの内側の、ミューのほうへ。まるで呼びかけるように、強く、強く、揺れていた。
「……あの光」ラヴィは、思わず息を呑んだ。「もしかして……ミューに、反応してる……の?」
「……っ」
内側で、ミューがびくりと身をすくめる気配がした。
きっと、ミューに関わる、何か。——そんな気がした。あの光に触れれば、ミューのことが分かるかもしれない。ううん、それだけじゃない。きっと、わたし自身のことも。
ラヴィは、その光のほうへ、一歩踏み出した。
——その、瞬間だった。
足の裏に、どん、と重い震動が突きあげてきた。地面の小石が、ぱらぱらと跳ねる。
崩れた建物の陰から、それは、ぬうっと身を起こした。
大きい。
これまで旅で出会った、どんな虫よりも。見上げれば、ラヴィの六倍はあろうかという背丈だった。節くれだった、細長い体。鎌のように鋭く折りたたまれた、太い前脚。三角の頭には、にぶく濡れ光る、大きな複眼。——その姿は、鎌をかまえたカマキリに、よく似ていた。これほど大きな虫を見るのは、はじめてだった。
それは、悪意というものを、まるで感じさせない。ただ、本能のままに動いていた。大きな複眼がぎょろりと回り、動くもの、目につくものを、片端からとらえようとする。鎌がひゅっと一閃するたび、近くの瓦礫が、傾いだ壁が、つかみ取られ、噛み砕かれて——ぼろぼろと崩れ、あの黒い虫の粒へと変わっていく。
やがて、その複眼が。井戸のうえで、ひときわ明るく脈打つ、あの光をとらえた。
光るものに引き寄せられるように。カマキリは、ぎち、と鎌を鳴らし、井戸のほうへずるりと一歩を踏み出した。
「……っ、だめ」
呑まれる。あの光が。ミューに関わる、たったひとつの手がかりが。あの鎌にかかれば、瓦礫とおなじだ。ひとたまりもない。
「ラヴィ」胸の奥で、ネオンの声が鋭くなった。「あれは、まずい。——退こう。お前の脱兎なら、いまならまだ、間に合う」
逃げる。そう。脱兎を使えば、わたしだけは、いつだって逃げきれる。
「……ううん」
ラヴィは、首を横に振った。震える奥歯を、ぎゅっと噛みしめる。
あの光が消えてしまったら。ミューにつながる何かが、わたしが何者かを知る手がかりが、永遠に失われてしまう。それだけは——いやだった。
「ラヴィ……っ」ミューの不安げな声が、内側で揺れる。「いいよ、あんな光。べつに、あたしのことなんて……」
「だいじょうぶ」
ラヴィは、ぐっと腰を落とした。逃げ出したがる足を、叱りつけるように。
「だいじょうぶだよ、ミュー。——わたし、ひとりじゃないもの。みんなが、いてくれる」
胸の奥で、ピアがふっと笑った気配がした。
「上等じゃ。——なら、儂らで、あれを止めるぞ。よいか、ラヴィ。あの虫を喰らうのは、儂の力じゃ。お前ひとりでは、できん。儂が、お前の手を通して、力を流してやる。お前はただ、踏みこんで、触れることだけを考えよ」
「……うん」
「忍の娘。お前は分身で、あやつの鎌を防げ。ラヴィにも、あの光にも、ふれさせるな」ピアの声が、てきぱきと指図を飛ばす。「猫娘。お前の幻で、あやつの目を奪ってやれ。——あの虫は、見えるものしか襲えん。ならば、見えるものを、ふやしてやればよい」
「……っ、う、うん」ミューの声が、ためらいながらも、応えた。
「ラヴィ。お前はその隙に、懐へ踏みこめ。あの鎌と脚を、いくつか喰らえば、あの巨体とて立ってはおれん。——いくぞ」
戦いが、はじまった。
カマキリが、井戸へ向けて二歩目を踏み出す。その瞬間、ラヴィは地を蹴った。光を守らなきゃ。あいだに、割って入る。
駆け出したその動きを、カマキリの複眼がめざとくとらえた。ぎょろり、と三角の頭がめぐる。次の刹那、振りあげられた鎌が、ラヴィめがけて、まっすぐ振りおろされた。
風を裂く音。——速い。
「——脱兎!」
体がふっと軽くなる。ラヴィは紙一重で横へ跳んだ。直後、鎌が、さっきまでラヴィのいた地面を叩き割る。石畳が砕け、破片が雨のように降った。あとには、深い裂け目が走っている。——あんなのに当たったら。背すじが、冷たくなった。
それでも、止まらない。着地と同時に、ふたたび地を蹴って、カマキリの脇へ回りこもうとする。
その行く手をふさぐように、もう一本の鎌が、横ざまに薙ぎ払われた。
「ラヴィ、下だ!」
ネオンの声。考えるより先に、ラヴィは身を伏せた。鎌が、頭上をごう、と通りすぎていく。巻きあげられた風に、髪が、ぶわりとあおられた。
——と。
ラヴィとカマキリのあいだに、黒い影が、いくつも舞いおりた。ネオンの分身だ。ひとつ、ふたつ、みっつ。短い刃をかまえ、振りまわされる鎌へ、横あいから打ちかかる。硬いものがぶつかりあう音が、たてつづけに響いた。分身たちが、その身を盾にして、鎌の動きを押しとどめている。
「いまだ、ミュー!」
「……ミラージュ!」
ミューの、はりつめた声が響いた瞬間。
ラヴィのまわりに、ふっと何人もの"ラヴィ"が湧き出した。寸分たがわぬ、いくつものラヴィ。それらが、いっせいにてんでばらばらの方向へ駆け出していく。
カマキリの複眼が、ぐるりと混乱に揺れた。
——あの虫は、見えるものしか襲えない。
ピアの言葉どおりだった。いくつもの"獲物"が、いちどきに視界を駆けまわる。どれが本物か見さだめられず、カマキリの鎌が、迷うように宙をかいた。あっちの幻へ振りおろしては、すかされ、こっちの幻へ振りなおしては、また空を切る。そのたびに、巨体は大きく前のめりになり、足もとをがら空きにした。
その一瞬を、ラヴィは見のがさなかった。
幻のあいだを、本物のラヴィが、低くすり抜ける。崩れた壁を蹴り、瓦礫を蹴り、一気にカマキリの足もとへ滑りこんだ。すぐ目の前に、丸太のように太い前脚の、その付け根がある。
「ピア……っ!」
「うむ。——いくぞ」
その瞬間。ラヴィの体の、ずっと奥のほうから、なにかつめたくて、古いものが、ぞわりとせりあがってきた。それが肩を伝い、腕を伝い、手のひらの先へと流れていく。指先が、しん、と冷えた。——ピアの力。借り受けた、吸血鬼の力だ。
ラヴィは、その冷えた両手を、太い脚の付け根へ、ぴたりと押し当てた。
引き込む。
手のひらから、ごう、と何かを吸い出していく感覚。脚が付け根から、するすると淡い光にほどけはじめた。黒い節が、光の粒になって、ラヴィの腕を伝い、内側へとすべりこんでくる。
ずん、と。
支えを失った巨体が、片側へ大きく傾いだ。前脚を一本もがれて、カマキリの動きが、目に見えてにぶる。
「いい調子じゃ! その勢いで、もう何本か——じゃが、深追いはするなよ」
ピアの声に背を押されて、ラヴィはふたたび地を蹴った。
傾いだカマキリが、残った鎌を、めちゃくちゃに振りまわす。さっきまでの、的をしぼった一撃とはちがう。痛みなのか、本能なのか。手あたりしだいに、あたりを薙ぎはらう。瓦礫が吹き飛び、土煙が舞いあがった。
その荒れ狂う刃を、ラヴィは脱兎でかいくぐる。右へ、左へ。分身が壁を作り、幻が目をくらませる、そのわずかな隙間を、縫うように。二本目の脚に手を当て、引き込む。また跳ぶ。三本目の脚へ。引き込む。
連携が、噛み合っていた。陽動と、攪乱と、踏みこみと、吸い込み。ばらばらだったものが、ひとつの大きな流れになっている。——わたし、ひとりじゃ、何ひとつできなかった。なのに、みんなとこうして合わせれば。あんなに大きなものとも、渡りあえる。
胸の奥が、熱くなる。——けれど。
三本目を引き込んだ、そのときだった。
「……っ、あ」
ふいに、視界がぐにゃりとゆがんだ。
手の先が、足の先が、じじ、じじ、といやな音を立ててちらつきはじめている。輪郭が、ほつれて、にじむ。立っているのも、やっとだった。
——使いすぎた。
ピアの力を、立てつづけに借りすぎた。自分のものでない力を、こんなふうに無理に振るいつづければ。——わたしの体のほうが、先に悲鳴をあげる。
「——よさぬか、ラヴィ!」
ピアの声が、鋭く飛んだ。「それ以上はいかん。お前の体は、まだ、儂の力に慣れておらん。これ以上濫用すれば、あの虫より先に、お前のほうがこわれてしまうぞ」
「で、でも……っ」
引けない。いま退いたら、あの巨体は、また光のほうへ向かう。せっかく、ここまで崩したのに。けれど、ほつれた指先は、もう、うまく力を結べなかった。ちらちらと明滅する手を、ラヴィは、奥歯を噛んで握りしめる。
そして——ぐらつき、明滅する、ラヴィのその姿を。
カマキリの複眼が、ぎょろりととらえた。
いくつもの幻のなかで、ただひとつ。ちらついて、にじんでいる、不確かな影。それこそが本物だと、本能が嗅ぎつけたのだ。残った鎌が、ぎちりと、高々と振りあげられる。ラヴィめがけて、まっすぐに。
「——っ、ラヴィ!」
避けなきゃ。そう思うのに、ほつれた足は、もう、いうことを聞かなかった。
振りおろされる、鎌。
その刃とラヴィのあいだに。
黒い影が、つぎつぎと、身を投げ出した。ネオンの分身だ。ひとつ、ふたつ、みっつ。重なりあい、壁になって、その身で鎌を受けとめる。鋭い刃が、分身のひとつを、まともに捉えた。黒い影が、ぱっと霧のように散る。それでも、残った分身が、歯を食いしばるようにして、鎌を押しかえした。
「私たちが、支える」ネオンの声がした。いつもの、ぶっきらぼうな声。けれど、その奥に、たしかな熱があった。「ラヴィ。——お前は、最後の一撃に集中しろ。後ろは、まかせろ」
「黒いのばっかりに……っ、いい格好、させないんだから!」
ミューの声も、響く。ぐらつくラヴィをかばうように、残った幻のすべてが、カマキリの複眼の前で、いっせいに駆けめぐった。これまでで、いちばんたくさんの幻。視界をめちゃくちゃに塗りつぶしていく。カマキリの頭が、混乱に激しく揺れ、振りあげた鎌が、ふたたび本物を見失った。
——みんなが、わたしを守ってくれている。
ぼろぼろの体の、その芯に。あたたかいものが、ぐっと満ちた。
だったら。応えなきゃ。こんなところで、倒れていられない。
「……ピア。最後に、もう一度だけ。——力を、貸して」
「ふん。——世話の焼ける娘じゃ。よかろう。ありったけ、くれてやる」
つめたい力が、どっと満ちてくる。ほつれかけた指先に、最後の熱が宿った。
ラヴィは、地を蹴った。最後の脱兎。
分身たちの作る壁を飛び越えて。乱れ舞う幻の、そのただなかを、まっすぐに突っ切って。傾いで、もがくカマキリの、いちばん奥。細い首と、胸とのつなぎめ。そこで、ぬらぬらと、いちばん大きく脈打っている——核。そこへ、一息に踏みこんだ。
両手を、かざす。
「もう、だいじょうぶ。——こわくないよ。いっしょに、ほんとうの姿に、戻ろう」
ありったけの力をこめて、引き込んだ。
カマキリが、びくん、と大きく震えた。それから——首から、胸から、端からするすると、ほどけはじめる。あの大きな体が、無数の淡い光の粒になって、ラヴィの内側へ。とめどなく、流れこんでくる。
目につくものを、片端からつかみ、噛み砕いていた、大きな災い。それが、しずかに、しずかにほどけて——溶けるように、消えていった。
あとには。
崩れた街と、灰色の風と。膝をついた、ぼろぼろのラヴィだけが、残された。
「……はあ……っ、はあ……っ」
肩で、大きく息をする。全身が、ちらついて痛い。それでも、ラヴィは顔をあげ、まっさきに井戸のほうへ目をやった。
光は。
——あった。
涸れた井戸のうえで、あの大きな光の塊が、消えもせず、ちゃんと脈打っている。守りきった。呑まれずに、すんだ。
「……よかった」
詰めていた息が、ふっとほどける。それから、ラヴィは、ちらつく自分の手を、もう片方の手でそっと包んだ。
「ヒール」
やわらかな光がこぼれ、満ちる。ほつれていた輪郭が、ゆっくりともとの線を結びなおしていった。灼けるようだった痛みが、すうっと引いていく。
——わたしも、守れたんだ。
ふと、胸の奥が、じん、と熱くなった。
あの日。崩れた路地で。わたしは、ミューを守れなかった。なにもできずに、ただ、喰らうことしか。守られて、かばわれて、その後ろで、立ちすくむだけの——そんな自分が、くやしくてならなかった。
なのに、いまは。みんなと、いっしょなら。こわされかけたものを、この手で、すくいあげることができる。
ささやかな、けれど、たしかな誇りが、胸に灯った。
ラヴィは、ふらつく足でゆっくりと立ちあがる。そして、あの光のほうへ——いまも、ミューに向かって、しきりに呼びかけている、あの脈打つ光のほうへ、歩きだした。
一歩、また一歩。近づくほどに、光は、いっそう強く揺れる。ラヴィの内側の、ミューに向かって。なにかを伝えたくて、たまらない、というように。
「…………ラヴィ」
ミューの声がした。ちいさく、震えている。
「……うん」
ラヴィは、光の前に立った。こぶしほどの、淡い塊が、目の前で、しずかに脈を打っている。手をのばせば、届く。
そっと、指をのばす。
胸の奥で、ピアが。何も言わずに、静かに目を伏せた気配がした。




