幕間②
その日の旅が一段落して、ラヴィは内側の世界に降りていた。
メゾン・ド・ラヴィの居間には、あたたかな灯りがともっている。丸いテーブルを囲んで、それぞれが思い思いに過ごしていた。ミューは椅子の上で膝を抱え、ネオンは壁ぎわに立ち、ピアはいちばん奥の椅子に、いつものように深く沈みこんでいる。
ふと、ラヴィはあることを思い出した。
「ねえ、ピア」
「ん?」
「ピア、ネオンのこと、ときどき『忍の娘』って呼ぶでしょう。——忍って、なに?」
ピアが片眉を上げて、ちらりとネオンを見やる。ネオンは少し気まずそうに目をそらしてから、こほん、と咳ばらいをした。
「……忍、というのは。忍者のことだ」
「にんじゃ」
「影に生きる者のことだ」ネオンは、ゆっくりと言った。「気配を消し、闇にまぎれ、誰にも気づかれずに動く。姿を見られた時点で、もう忍者じゃない。——そういう、生き方をする者のことを、そう呼ぶ」
語るネオンの声には、どこか誇りのようなものがにじんでいた。けれど、その語尾が、ふいにしぼむ。
「……もっとも。私は、あまり、向いてないけどな」
「そう、なの?」
ラヴィが首をかしげると、ネオンは何でもないというふうに肩をすくめた。それ以上は、言わない。
「ふむ。忍者の話か」
そこへ、奥の椅子から、ピアがのんびりと口をはさんだ。指を眼鏡の縁に添えて、にやりと笑っている。
「ならば、ラヴィ。ひとつ、よいことを教えてやろう。——女の忍者をな、クノイチ、という」
「くのいち」
「そうじゃ。そしてな」ピアは、もったいぶるように声をひそめた。「クノイチというのは——お色気で、他人を惑わすのが、仕事なのじゃよ」
「……おい」ネオンの眉が、ぴくりと動いた。「変なことを、教えるな」
「お色気ぇ?」
すかさず食いついたのは、ミューだった。膝を抱えたまま、にやにやと、ネオンを見上げる。
「お色気って、ねえ。——この、ヒョロヒョロが?」
「……は?」
「だってさあ。こんな、棒きれみたいに細っこいのが、お色気で人を惑わすって。ぷっ、無理むり。似合わなーい」
ぴき、と。ネオンのこめかみに、青筋が浮かんだ。
「……おチビちゃんには、まだ分からんだろうな。大人の世界というものが」
「な——っ」ミューの顔が、かっと赤くなる。「おチビって言うな! あたしは、まだ伸びる途中なの!」
「ふふ。さて、どうかな」
「むかつくー!」
ぎゃあぎゃあと、また火花が散りはじめる。ラヴィは、あいだで困ったように笑った。
と。
ピアが、ふいに、ラヴィのほうへ身を寄せてきた。手で口もとを隠して、こそこそと、内緒話の体勢になる。
「のう、ラヴィ。ここだけの話じゃがな」
声を、ひそめる。——けれど、ちっともひそめていない。その声は、居間のすみずみまで、はっきりと響いていた。
「あの、ネオンはな。——実はものすごーく、セクシーで、ダイナマイトな体型を、しておるのじゃぞ」
ぴしり、と。ネオンが固まった。
「な——」
「儂ら吸血鬼の眼はな、人の体のことが、それはもう、よう分かるのじゃ」ピアは、にんまりと続ける。「あやつ、あの黒い装束の下な。さらしで、それはもう過剰なくらい、ぐるぐる巻きにしておる。——でなければ、収まりきらんのじゃろうなあ」
「——っ、や、やめろ!」
ネオンが、悲鳴のような声をあげた。その顔が、見る間に、耳の先まで真っ赤に染まっていく。いつも落ち着きはらっているこの人の、こんなにうろたえた姿は、はじめてだった。
「な、なにを、勝手なことを……っ! べ、べつに、私は……っ!」
「ほほう。図星か」
「ちがう! ……っ、ちがわない、けど……っ!」
ネオンが、両腕で自分の体を、ぎゅっと隠すようにする。——ああ、そうか、とラヴィは思った。ネオンが、自分は忍者に向いていないと言っていたのは。きっと、こういうことも、あるのかもしれない。気配を消したくても、消しきれないものが、この人にはある。
けれど、やがて。ネオンは、観念したように、ふう、と息を吐いた。隠していた腕を、そろそろと下ろす。
「……べつに、いいだろう。好きで、こうなったわけじゃない」
ひらきなおったような、それでいて、どこか寂しげな口ぶりだった。「目立つ体は、忍には向かない。だから、さらしで抑えてる。——それだけだ」
「そう、なんだ」ラヴィは、ぱちりとまばたきをして、それから、ふんわりと笑った。「わたしは、ネオンは今のままでいいと思うよ。ネオン、きれいだから」
「……っ」
こんどは、ネオンが言葉につまった。からかわれるのには身構えていても、まっすぐな言葉には、めっぽう弱いらしい。耳どころか、首すじまで、じわりと赤くしている。
——その様子を、見ていたミューが。
ふと、静かになった。膝を抱えたまま、自分の体を、そっと見下ろす。ぺたんとした、ちいさな体。それから、何を思ったのか、両手で、自分の胸のあたりを、こっそりと、確かめるように触れて。
「…………ねえ」
ぽつりと、ミューが言った。さっきまでの威勢は、どこかへ消えている。
「もう、この話。——やめない?」
「ん? どうした、急に」ネオンが、きょとんとする。
「な、なんでもない! ただ、なんとなく!」
ぷい、と顔をそむけるミュー。その耳が、ほんのり赤い。——どうやら、自分から煽っておいて、最後には、自分がいちばん、こたえてしまったらしい。
それに気づいたのか。ネオンの口もとが、ふっと、ゆるんだ。仕返し、というふうでもなく。
「……まあ、気にするな。——お前くらい身軽なのは、うらやましいくらいだ」
「……っ。う、うるさい!」
ぷりぷりと言い返しながらも。ミューの声は、さっきまでより、ずっと、やわらかかった。
ラヴィは、そのやりとりを、あたたかい気持ちで見ていた。——なんだかんだ言って。このふたりは、ほんとうは、けっこう、仲がいいのかもしれない。
※
——ぱち、と。
ラヴィが目を開けると、崩れかけた街の、ひとけのない片すみだった。
その日の旅を切りあげて、腰を下ろしていた場所。崩れた壁を背に、瓦礫の段差に、ちょこんと座りこんでいる。灰色の風が、頬を撫でていく。さっきまでのあたたかな居間が、もう遠い。けれど、胸の奥には、まだあの賑わいの余熱が、ぽかぽかと残っていた。ラヴィは、座ったまま、ひとつ、大きく伸びをした。
——その、ときだった。
「ねえ、ラヴィ! 見て見てっ!」
その声は、いつものように胸の奥から——ではなかった。すぐ、目の前から、聞こえた。
「えっ……」
ラヴィは、目を見開いた。
宙に、ぷかりと、ちいさな影が浮かんでいる。何本かの脚を持つ、蜘蛛のような、淡く光る妖精のようなもの。——ピキピキ。はじめて出会ったころの、ミューの、あの姿だった。
「えへんっ。どう、どう?」
ちいさなピキピキが、得意げに、ラヴィの顔の前で、ぴょこぴょこと跳ねまわる。その小さな体の、いったいどこから出ているのか。声だけは、すっかりいつものミューのものだった。
「あたし、外に出られちゃった! すごいでしょっ?」
「ミュー……? ミューなの……? どうして、外に……っ!」
「あたしにも、よく分かんない!」ピキピキが、くるりと宙で一回転する。「でもね、ラヴィと一緒に歩きたいなーって、ずーっと思ってたの。そしたら、気づいたら——ぽんっ、て!」
外に出たい。ラヴィと、一緒に、歩きたい。——きっと、その一念だけで、出られてしまったのだ。本人にも、よく分かっていないらしい。ただ、うれしくて、しかたがないようだった。ラヴィの肩に、ちょこんと乗ったり、頭のてっぺんに乗ったり、また宙へ跳ねたり。落ち着きなく、はしゃぎ回っている。
「ふふっ。よかったね、ミュー。外に出られて」
ラヴィの胸が、じんわりとあたたかくなる。その声が、すぐそばにあった。胸の奥からではなく、手をのばせば届くところに。こうして、ミューと、また一緒に。
「えへへ。でしょー? ねえねえ、こんなことも、できるよっ!」
うれしさのあまり、ミューの動きが、どんどん大きくなっていく。ぐるんぐるんと、ラヴィの周りを高速で回りはじめ、しまいには、崩れた建物の壁すれすれを、危なっかしく飛び回りはじめた。
「あっ、ミュー、危ないよ! そんなに飛び回ったら——」
「だいじょーぶ、だいじょぶっ! あはははっ!」
聞いちゃいない。すっかり舞いあがって、暴走している。
——と。
ふっ、と。ラヴィの体から、黒い影が、すうっと滑り出た。
それは、見慣れた、黒い装束。ネオンの分身だった。音もなく宙に身を躍らせると、はしゃぎ回るピキピキの真上に回りこんで。
ごつん。
「ぴぎゃっ!?」
容赦のないげんこつが、ピキピキのてっぺんに、ひとつ落ちた。
「……まったく。少しは、落ち着け」
「いったぁい! なにするのよ、黒いのっ!」
「うるさい。ほら、戻るぞ」ネオンの分身は、じたばたと暴れるピキピキを、ひょいと小脇に抱えこんだ。「はしゃぐのは勝手だが。ラヴィを転ばせでもしたら、どうする」
「やだやだっ、もっと外にいたいーっ! 離してよーっ!」
「だめだ」
抗議もむなしく、ネオンの分身は、じたばたするピキピキを抱えたまま、すうっとラヴィの内側へ戻っていく。ミューの不満の声が、だんだん遠く、内側へと、引っこんでいった。
あとには、灰色の風だけが、しんと残った。
「……ふふ」
ラヴィは、ひとり、笑った。にぎやかだなあ、と思う。けれど、その騒がしさが、いまはただ、いとおしかった。
※
内側では。
ピアが、自室の椅子から、その一部始終を、愉快そうに眺めていた。
ぴょこぴょこと、外で跳ねまわるピキピキ。慌てて飛び出していった、忍の娘の分身。——まったく、にぎやかなことじゃ。くつくつと、肩を揺らして笑う。
けれど。
ふと、その笑みが、止まった。
ピアは、わずかに、目を細める。
——いまの、猫娘。
誰の手も借りておらん。ラヴィが、出してやったわけでもない。あの娘はただ、外に出たいと願った。それだけで——ひとりでに、外へ、こぼれ出た。
ピアの、深紅の瞳の奥が、しずかに、揺れた。
内なる者を、内に取りこむだけではない。今度は逆に。——内なる者が、外へ。
「……ふむ」
それは、まだ、ほんの綻びのような、ささやかな兆しだった。けれど。
この娘の力は、また少し、新しい方へ、芽を伸ばしはじめている。
ピアは、それきり、何も言わなかった。椅子の背に、深く身をあずけ、半ば、瞳を伏せる。その表情からは、いつものからかうような笑みが、もう消えている。ただ、ひとり、なにか深い思いをめぐらせるような色だけが、静かに残っていた。




