21_戦う
崩れかけた街を、ラヴィはひとりで歩いていた。
石畳はところどころ表面が失せて、何もない空間が口をあけている。けれど足を下ろせば、見えないはずの地面がちゃんと固く靴の裏を受けとめた。傾いだ建物のあいだを、灰色の風がひゅうと吹き抜けていく。世界は、あいかわらず少しずつほどけていく途中だった。
それでも、この道はちっともさびしくなかった。
「次の角を右じゃ、ラヴィ」
胸の奥から、ピアの声がする。
「うん」
「川沿いに出たら、上流へ。この街を抜ければ、しばらくは開けた道が続く。——もっとも、心当たりの場所はまだずっと先じゃがな」
ピアは、この世界のどこに何があるのか、ふしぎなくらいよく知っていた。記憶のほとんどないラヴィにとって、迷わず行く先を示してくれるその声は、何より心強い。あの、もう一人のわたしがいるかもしれない場所へ。少しずつでも、近づいていける。
「ねえラヴィ、あたしも外に出たいなあ」
不機嫌そうな声でそう言うのはミューだ。「一緒に歩きたいのに。声だけなんて、つまんないよ」
「ふふ。ごめんね」ラヴィは小さく笑った。「でも、ミューがすぐそこにいるって分かるから。わたしは平気」
「あたしは平気じゃないもん」
「騒ぐな。気が散る」
ミューのわがままに、すかさず割って入るのはネオンだった。
「黒いのは黙ってて!」
内側でまた火花が散る。そのにぎやかさを遠くに聞きながら、ラヴィはふと足をゆるめた。
ずっと胸に引っかかっていたことを、口にしてみる。
「ねえピア。——ピアなら、あの、もう一人のわたしと戦えた?」
問いながら、あの日のことがよみがえった。同じ顔をした、もう一人の自分。その掌から放たれたまばゆい光。なすすべもなく吹き飛ばされた、あの圧倒的な力。もしピアの力があれば、あんなふうに一方的にやられずにすんだのだろうか。
ピアは少し間をおいてから答えた。
「あれしきなら、何の問題もなかったじゃろうな」
「えっ」
「じゃが、勘違いするな。アレは本気ではなかった。お前を片手間に払いのけた、それだけのことよ。本気のアレがどれほどのものか、正直、儂にも見当がつかん」
胸の底に、つめたいものが落ちた。
あれだけの力で、あんなにも一方的に。それでまだ、片手間。
「……そっか」
つぶやきは、灰色の風にさらわれて消えた。もっと強くならなきゃ。漠然とした、それでもたしかな焦りが、胸の奥で小さく燻る。いつかあの存在に向き合うのなら、いまのわたしでは、とても足りない。
そのときだった。
ぴた、と足が止まる。
道の先、崩れかけた建物の陰から、なにかがもぞりと這い出してきた。
虫だ。
ラヴィの背丈ほどもある、黒く濡れたような体。何本もの脚が石畳をこすって、ぎち、ぎち、と耳ざわりな音を立てる。表面をときおり、ばちばちと不穏な光が走った。その光が、まっすぐこちらを向く。あきらかな敵意だった。
これまでにも旅の道中で何度か遭遇してきたが、やはりこちらを獲物だと見ている。じり、と脚を寄せてきた。
逃げなきゃ。脱兎で——。
体に染みついた反応で、ラヴィは地を蹴る構えに入った。わたしは戦えない。だから逃げる。それが、これまでのすべてだった。
「逃げずともよい」
ピアの声がしずかに響いた。「お前は戦える、ラヴィ」
「……無理だよ」虫から目を離さず、ラヴィは掠れた声を返す。「力を使ったら、体がこわれちゃう。ちらついて、ばちばちって……」
「ふむ」ピアは急かさなかった。それから、ゆっくりと問うた。「では訊くがな。さっきお前は、ミューの首筋に牙を立てた。——あれは、攻撃ではなかったのか?」
ラヴィの息が止まった。
頭の奥が、しんと鳴る。そうだ。わたしはもう、あの力を使った。ミューを取りこむために。あの吸血鬼の牙で。
牙を立てて、相手をまるごと取りこむ。それはたしかに、ひとつの攻撃なのだ。わたしには、戦うための牙が、はじめから無かっただけ。——でも、無いのなら借りればいい。わたしは、そういう器なのだから。
「取りこむのが……わたしの、戦い方」
「そうじゃ」ピアの声が笑った。「ようやく分かったか」
ラヴィはあらためて虫を見つめた。けれど、すぐに新しい怯えがこみあげる。
「でも……取りこむには、噛みつかなきゃいけないんでしょう。あんなのに、自分から近づくなんて」
牙を立てるには、あのぎちぎちと脚を鳴らすものに、抱きつくほど近づかなければならない。そんなこと、できるだろうか。
「では、もうひとつ謎をかけよう」ピアの声は、どこか楽しげだった。「脱兎で地を蹴るのは——地への攻撃では、ないのか?」
地を蹴る。脱兎。逃げるための、あの力。地面を強く蹴って、一息に跳ぶ。
地を、蹴る。
ぱちん、と頭の奥で何かが弾けた。
蹴るのは、地面でなくてもいい。たとえば、あの虫を足場にして。あの速さで、一息に踏みこめば。——脱兎は、逃げるためだけの力じゃなかったんだ。
「……わかった」
ラヴィは腰を落とした。怯えはまだある。それでも、やってみたいという気持ちのほうが勝っていた。
虫が、ぎち、と脚を鳴らして跳びかかってくる。
「——脱兎」
体がふっと軽くなって、風になる。跳んできた虫の牙を、紙一重でかわした。地を蹴って横へ流れ、一瞬で虫の真横へ回りこむ。狙いを外した虫が、勢いあまって前へつんのめる。
いま。
ラヴィは、がら空きになった脇腹を強く蹴った。その勢いのまま宙へ飛び、近くの崩れた壁の上に着地する。間をおかず、そこをもう一度蹴って跳んだ。風になって、虫の背後へ回りこむ。
気づけば、虫のすぐ後ろに立っていた。蹴られた衝撃によろめいた虫は、ラヴィを見失って、見当ちがいの方をぐるぐると探している。——取れる。この体勢なら、牙を。
そこで、ラヴィははたと気づいた。
噛みつかなくても、いい。この速さで翻弄して、一方的に蹴り続ければ。傷ひとつ負わずに、この虫を倒すことができる。
わたしは、戦う術を何ひとつ持っていなかったわけじゃ、なかった。
「……すごい」思わず声がもれる。
「なかなか筋がよいではないか」ピアが感心したように言った。「じゃが、せっかくじゃ。ひとつ取りこんでみよ。お前の力になる」
「……うん」
牙を剥こうとして、ラヴィはふとためらった。
「でもピア。こんな、襲ってくるものを内側に取りこんで……みんなのいるところに。だいじょうぶなの?」
もし内側で暴れだしたら。ミューやネオンに、なにかあったら。
「案ずるな」ピアは半分面白がるように言った。「仮にそやつを吸うて、内で暴れたとてな。こちらにはネオンがおる。そやつ如き、儂が出るまでもないわ。——なあ、ネオン?」
「は!?」
突然名指しされて、ネオンのすっとんきょうな声が跳ねた。「お、おい、急に振るな。……っ、まったく」
そう言いながら、ネオンが慌ただしく刀を取りに走る気配が、内側からありありと伝わってくる。どうやら本気で身構える気らしい。心配性のこの人らしかった。
「……まあ。その程度の相手なら、私でもどうとでもなるが」
刀の柄に手をかけて、ぶっきらぼうにそう言う。
ラヴィは小さく笑った。それでも、まだ少しだけ、ためらいが残っていた。
「……でも、この虫に噛みつくの。ちょっと、イヤかも」
「ならば、両手を儂の牙だと思え」ピアが、こともなげに言った。「とりあえず、何でも試してみることじゃ」
ラヴィは小さくうなずいて、虫の背に、そっと両手をかざした。
ヒールとは、逆向きの感覚だった。あたたかいものを与えるのではなく、静かに内へ引き込む。虫の黒い体がするすると光にほどけて、ラヴィの手のひらから内側へ流れこんでくる。
そして、ラヴィの内側で、それは形をとった。
「わっ、なにこれ!」内側で、ミューの素っ頓狂な声が跳ねた。「街灯だ! きれいな街灯が、いきなり出てきたよ! ねえラヴィ、あの虫、こんなのに変わっちゃった!」
外にいるラヴィには、自分の内側で何が起きたのか、すぐには分からない。ミューの声に促されて、そっと意識を内へ向けた。
メゾン・ド・ラヴィの近く、薄明かりのなかにぽつんと立っていたのは、一本の美しい街灯だった。飴色のやわらかな光を灯した、どこか優しい灯り。さっきまでのあのおぞましい姿は、もうどこにもない。
「街灯……? あの虫が、こんなものに……?」
ピアの声は、さして驚いてもいなかった。
「やはりな。儂の思うた通りじゃ」
「ピア……?」
「ミューを取りこんだ、あのときからな。儂は薄々、察しておった」ピアは静かに言う。「あの虫どもも、お前を襲ったあの大きな化け物も。もとはみな、この世界にまっとうな姿で、ふつうに在ったものなのじゃろう、とな」
街の片隅を照らしていた、一本の街灯。誰かの帰り道を照らしていたのかもしれない、ささやかな灯り。それがいつかこわれて、ほどけて、あのおぞましい虫に成り果てていた。
「こわれて、あんな形になり果てる。じゃが、お前が取りこめば」ピアの声が、ふとやわらいだ。「こうして、こわれる前の姿で、内に戻ってくる。なあラヴィ。——お前は、あの虫を、傷つけたわけでも、害したわけでもない。こわれて、迷うておったものを。元の姿に、救い出してやったのじゃ」
胸の奥で、ずっとこわばっていた何かが、ふっとほどけた。
戦うことが、ずっとこわかった。慣れない力で、誰かに牙を剥いて、傷つけてしまう。そう思うと、足がすくんだ。だから、ためらった。
でも。
わたしのしたことは、傷つけることじゃ、なかった。こわれて、迷子になっていたものを。もとの、きれいな姿に、救い出していた。それだけだったんだ。
街灯の飴色の光を見つめて、ラヴィは目もとをゆるめた。
「……ピア」
それまで黙って身構えていたネオンの声が、すこし低くなる。「お前、分かっていて言ったな」
取りこんだものが、暴れるどころか、害のない姿で戻ってくると。ピアははじめから見抜いていた。それをわざと隠して「内で暴れるかも」などと言い、自分を巻きこんでからかったのだ。ネオンはようやく気づいたらしい。
「さあて。なんのことやら」ピアはしれっととぼけている。
「ねえラヴィ、聞いて!」すかさずミューの楽しそうな声が割りこんだ。「さっき黒いの、ピアにああ言われて、すっごい本気の顔で刀取りに走ってたんだよ! あはは!」
「——っ、おい、余計なことを言うな、ちんちくりん!」
「ちんちくりんって言うな——っ!」
内側でまたにぎやかに火花が散って、ラヴィはこらえきれずに笑った。
笑いながら、ふと気づく。さっきまであんなに張りつめていた焦りが、いつのまにか少しだけ軽くなっている。みんなのこのにぎやかさは、ふしぎと胸の力を抜いてくれた。
「ありがとう、ピア」
ラヴィがそう言うと、ピアは声だけでひらりと笑って受け流した。
建物の陰からは、まだ何匹かの虫がもぞもぞと這い出してきている。ラヴィはそちらへ向き直った。ひとつ取りこんだだけで、体のどこか、ずっと欠けていた部分が、すこし埋まったような気がした。さっきまでよりも、たしかに、手足が言うことを聞く。
地を蹴る。脱兎で虫のあいだを駆けぬけ、かわし、背後を取り、足場にして跳ぶ。一匹、また一匹と、流れるように取りこんでいく。そのたびに内側へ、ささやかなものが戻ってきた。割れた植木鉢。錆びたベンチ。名も知らない、一輪の花。どれも、こわれる前の姿で。
けれど、四匹目を取りこんだあたりで、ふいに体がぐらりと傾いだ。
視界がばちばちと明滅する。手の先が、足の先が、じじ、と音を立てて輪郭をほどきはじめていた。
「そこまでじゃ、ラヴィ」ピアの声がぴしゃりと止めた。「欲張るな。お前の器が、まだその力に追いついておらん。使いすぎれば、お前自身がほつれてこわれる。それでは本末転倒じゃろう」
「……うん。ごめん」
肩で息をしながら、ラヴィはほつれかけた手のひらに、もう片方の手をかざした。
「——ヒール」
やわらかな光がこぼれて、ちらついていた輪郭が、ゆっくりともとの線を結びなおしていく。長い息を、ひとつ吐いた。
残った虫は、いつのまにか散り散りに逃げたらしい。あたりはまた静かになっていた。崩れた街を、灰色の風がひゅうと抜けていく。
ラヴィはその場に、ぺたんと座りこんだ。体はくたくただった。けれど、胸の奥には、じんわりとあたたかいものが広がっていく。
戦えた。
ずっと、自分は戦えないのだと思っていた。逃げることと、癒すことしかできなくて。守られて、かばわれて、その後ろでただ立ちすくむだけの存在なのだと。
そうじゃ、なかったのかもしれない。
まだぎこちなくて、すぐにこわれそうで、あの、もう一人のわたしには遠く届かない。それでも、ほんの一歩だけ、たしかに前へ出られた気がした。
「……みんな、ありがとう」
声に出すと、内側がほんの少し、照れたように静かになった。それから、また何事もなかったように、ミューとネオンが言い合いをはじめる。ピアがそれを肴に笑っている。
ラヴィは立ちあがって、膝についた砂を払った。体の芯には、さっきまで知らなかった、小さな熱が火種のように残っている。




