19_起床
それから、どれくらいの時が流れただろう。
内なる世界には、外の刻のような目盛りがない。ただ、薄明かりだけが変わらずに満ちている。そのなかで、ラヴィは、寝台のかたわらに膝を抱えて、ずっとミューを見守っていた。
ちいさな胸が、すうすうと規則正しく上下している。眠るその顔は、おだやかで。もう、あの危うい明滅は、どこにもない。けれど——いつ目を覚ますのか、それとも、このままずっと眠りつづけてしまうのか。それが分からないぶん、ラヴィはそばを離れられずにいた。
「そう、根を詰めるな」
胸の奥——いや、いまは、すぐ隣から。ピアの声がした。腕を組み、壁にもたれて、ピアは気だるげに立っている。
「猫娘は、もう、峠を越えた。あとは、ゆるりと目を覚ますだけじゃ。——もっとも、いつ起きるかは、本人次第じゃがな」
「……うん」
「儂は、すこし引っこんでおる。なに、用があれば、いつでも呼べ」
そう言って、ピアの姿が、ふっと薄れる。気を利かせたのか、ただ気まぐれなのか。——たぶん、その両方だろう、とラヴィは思った。この人は、いつも、肝心なところで、そっと場をあけてくれる。
残されたのは、ラヴィと、ネオン。そして、眠るミュー。
ネオンは、何も言わず、すこし離れたところに立っていた。けれど、立ち去ろうとはしない。その無言の付き添いが、ラヴィには、なんだか心強かった。
「……起きる、かな」
「起きるさ」ネオンは、ぼそりと言った。「あれだけ、騒がしいやつだ。いつまでも、おとなしくしているわけが、ないだろう」
その、ぶっきらぼうな言い方が。かえって、ミューの無事を信じているように聞こえて。ラヴィは、ちいさく笑った。
——と。
そのときだった。
ミューのまつげが、ふるりと震えた。
ラヴィの息が、止まる。
ゆっくりと。ほんとうに、ゆっくりと。ミューのまぶたが、持ちあがっていく。とろんとした、寝起きの瞳。それが、宙をさまよって——やがて、ラヴィの顔で、ぴたりと止まった。
焦点が、合う。
「……ら、ヴィ……?」
掠れた、ちいさな声。
「ミュー」
ラヴィの声が、震えた。「ミュー……っ」
その瞬間、ミューの瞳に、みるみる光が戻った。とろんとしていた表情が、くしゃりと崩れる。
「ラヴィ……っ! ラヴィ、ラヴィ……っ!」
がばっと、跳ね起きて。ミューは、まっすぐラヴィの胸に飛びこんできた。ちいさな両腕で、ぎゅうっとしがみつく。
「ラヴィ……っ! あたし……あたし……っ!」
「うん。うん……っ」
ラヴィも、その小さな体を力いっぱい抱きしめ返した。あたたかい。たしかに、ここにいる。ふわふわの髪も、ぱたぱた動く猫耳も。——ぜんぶ、ちゃんと、ここにある。
涙が、こらえきれずにあふれた。あのとき。腕の中で、消えそうに揺れていた、ちいさな光。二度と、戻らないかと思った、あの温もりが。いま、こうして、わんわん泣きながら、しがみついてくれている。
「よかった……っ。ほんとうに、よかった……っ」
「ラヴィぃ……っ。あたし、こわかったぁ……っ!」
ふたりして、ひとしきり、抱き合ったまま泣いた。ネオンは、そっぽを向いて、何も言わずにいてくれた。
やがて。
涙も、すこし落ち着いたころ。ミューは、ぐすぐすと鼻をすすりながら、きょろきょろとあたりを見回しはじめた。
「……ねえ、ラヴィ。ここ……どこ? なんだか、ぼうっと、明るくて。あったかくて……ヘンな、場所」
「ここはね」ラヴィは、ミューの頭を、そっとなでた。「わたしの……内側、なの」
「うちがわ……?」
「うん。ミュー、あのとき……すごく、危なくて。このままじゃ、消えちゃう、ってところで。——わたしの中に、入ってもらったの。そうしないと、助けられなかったから」
ラヴィは、おそるおそる、ミューの顔を見た。こんな形にしてしまった。勝手に、わたしの中に取り込んでしまった。——怒るだろうか。こわがる、だろうか。
けれど。
ミューの反応は、ラヴィの予想とは、まるで違っていた。
「えっ……それって」ミューの目が、まんまるに見開かれて。それから——ぱあっと輝いた。「それって、あたし……ずうっと、ラヴィの中にいられるってこと!?」
「えっ……あ、う、うん。たぶん、そう……だけど」
「やったぁ……っ!」
ミューは、両手をあげて、ぴょんと跳ねた。
「すごい、すごい! じゃあ、あたし、もう、ラヴィと離れなくていいんだ! はぐれることも、迷子になることも、ない! ずうっと、ずうっと、いっしょ!」
「ミュー……」
ラヴィは、ぽかんとミューを見た。——こわがるどころか。後ろめたく思っていた、こちらが、拍子抜けするくらい。ミューは、ただ、まっすぐにそれを喜んでいた。
「だって、あたし、決めたんだもん。ラヴィのそばを、ぜったい離れないって。——なら、ラヴィの中なんて、いちばんの、特等席じゃん!」
えへん、と胸を張る、その顔の、屈託のなさ。
ラヴィの胸の、奥のほうで。後ろめたさが、ふっとほどけていく。代わりに、じんわりとあたたかいものがこみあげた。——ああ。この子は。いつだって、こんなふうに。わたしの、いちばん暗いところに、ためらいなく光を差しこんでくる。
「……ふふ。そっか。特等席、か」
「そうだよ!」
ミューは、得意げに笑って——それから、ふと、何かに気づいたように、きょとんとした。
その視線の先に、ネオンがいた。
「……あれ?」
ミューは、目をぱちぱちさせた。
「ねえ、ラヴィ。そこの……黒いの。だれ?」
「黒いの、って」
ラヴィが、苦笑する。「ネオンだよ。ほら、いつも、わたしの中にいる——」
「ネオン……?」ミューは、首をかしげて。それから、はっと目を見開いた。「ま、まさか……っ! あんた、ラヴィが、ときどき、誰もいないほうを向いて、ひとりでぶつぶつ喋ってた——あの、見えない相手!?」
「悪かったな。見えない相手で」
ネオンが、半眼で言った。
「——っ!? し、しゃべった……!」
ミューが、文字どおり、飛びあがった。
「こ、声が、聞こえる……! ラヴィ、ラヴィ! 黒いのの声が、あたしにも、聞こえるよ!?」
「うん」ラヴィは、笑った。「ここは、わたしの内側だからね。ここでなら、ミューにも、ネオンの声が、ちゃんと届くし……ネオンの姿も、見えるんだよ」
これまで、ミューにはネオンの声は聞こえなかった。姿も、見えなかった。ラヴィがひとり、宙に向かって話しているのを、ふしぎそうに眺めているばかりだった。——それが、いま。はじめて。ふたりは、まっすぐ向かい合っている。
ミューは、まじまじとネオンを見上げた。それから、つかつかと歩み寄って——ぐるりと、その周りを一周した。値踏みするみたいに。
「ふうん……。こいつが、ねえ」
「……なんだ。じろじろと」
「べっつにー。——思ってたより、ひょろい、なって」
「……は?」
「だってさ。ラヴィを、いつも偉そうに、あれこれ言うから。どんなやつかと思ったら。ただの、ひょろっとした、地味な——」
「お前に、地味と言われる筋合いはない。——この、ちんちくりんが」
ぴしゃり、と。ネオンが、言い放った。
一瞬。
しん、と、間があいて。
「……っ、ちん……!?」ミューの顔が、みるみる赤くなった。「ちんちくりんって、言うなぁ——っ!」
「ちんちくりんを、ちんちくりんと言って、何が悪い」
「あたしは、ちんちくりんじゃない! まだ、伸びる途中なの! 失礼すぎる! ラヴィ、ラヴィ、聞いた!? こいつ、こんなこと言うんだよ!?」
「あ、あはは……」
ラヴィは、おろおろと苦笑するしかない。けれど——その騒がしさが。喧嘩腰の、その掛け合いが。なんだか、ひどくなつかしくて。胸が、あたたかかった。ああ、いつもの、ふたりだ。ちゃんと、戻ってきた。
「やれやれ。にぎやかな所帯になったものじゃな」
ふっと、ピアの姿が、また薄明かりのなかに浮かんだ。ケラケラと、楽しげに笑っている。
「ひゃっ……!?」ミューが、また跳びあがった。「な、なに、この人……っ! いつの間に……っ! ラヴィ、ラヴィ、こんどは、知らない人がいる……!」
「あ、えっと、この人はね。ピア。ミューを……助けるのに、力を貸してくれた人なの」
「……助けて、くれた?」
ミューは、ぱちくりとまばたきして。それから、ピアの周りも、警戒しながらぐるりと回った。さっきと、おなじように。けれど、今度は、興味のほうがすこし勝っているみたいだった。
「ふうん……。きれいな、人。——でも、なんか、あやしい」
「ほう。猫娘め、なかなか、見る目があるではないか」ピアは、面白がるように目を細めた。「あやしい、か。——まあ、当たらずとも、遠からず、じゃな」
「えっ、あやしいの!?」
ミューが、ぱっとラヴィの背中に隠れる。それでいて、ピアのことが気になるのか、ラヴィの肩越しに、ちらちらと様子をうかがっている。その仕草が、よほど面白いのか、ピアは声をあげて楽しげに笑った。
ラヴィは、止めなかった。ピアの、からかうような笑みも。ミューの、ぷりぷりした警戒顔も。——どちらにも、棘はない。むしろ、こうして、誰かと誰かが、賑やかにじゃれ合っているのを眺めているのが、ラヴィは好きだった。
そうして。
気づけば、ラヴィの内側に、三人。——ネオンと、ミューと、ピアと。それに、ラヴィを入れれば、四人。
ちいさな部屋のなかで、誰がどこにいるだの、ミューがネオンに食ってかかるだの、ピアがそれを肴に笑うだの。にぎやかな声が、薄明かりの空間に、ぽんぽんと跳ねている。
——ほんの、すこし前まで。
ラヴィは、ひとりきりだった。崩れかけた世界で、目を覚まして。自分が誰かも分からないまま、ただ、あてもなくさまよっていた。隣には、誰もいなかった。呼びかけても、返してくれる声は、どこにもなかった。
それが、いまは。
こんなにも、にぎやかで。あたたかい。
ラヴィは、その光景を、しばらくただ見つめていた。喧嘩する声も、笑う声も。ぜんぶ、わたしの内側で鳴っている。——ひとりじゃ、ない。もう、どこにもひとりじゃ、ないんだ。
その思いが、胸に、じんと染みた。
もちろん。分かっている。これで、何もかも終わったわけじゃない。強くならなければ。あの、もう一人のわたしのことも、知らなければならない。やるべきことは、まだ山ほどある。
——でも。
いまは、すこしだけ。この、あたたかさのなかに、いさせてほしい。
「ラヴィー! 聞いてよぉ! こいつ、また、あたしのこと——」
「ラヴィ。猫を、少し黙らせてくれないか」
「だれが、猫よ! あたしには、ミューって、名前があるの!」
「……ふふ」
ラヴィは、笑った。ほんとうに、心から。
——こんなにも、自分が笑えるなんて。
ちいさな部屋に、みんなの声が、いつまでも、あたたかく響いていた。




