17_一瞬
ぱち、と。
まばたきひとつ分の間に、世界が戻ってきた。
冷たい夜気。瓦礫の匂い。崩れた路地の、ざらついた地面の感触。——さっきまで、たしかにいた、あの果てのない薄明かりの空間は、もうどこにもない。
ラヴィは、地に膝をついたまま、腕の中を見た。
ミューが、いた。
ぐったりと、力なく。その小さな体の輪郭が、いまもばちばちと危うく明滅している。消えかけた光は、さっきよりもさらに弱々しくなっていた。もう、ほんとうにぎりぎりだった。いつふっと途切れても、おかしくない。
その消え入りそうな光を見ているだけで、ラヴィの喉の奥が、ぎゅっと締めつけられた。——間に合って。お願いだから、もう少しだけ、そこにいて。祈るような気持ちで、ラヴィはその小さな体を見つめた。
——だいじょうぶ。
ラヴィは、ぎゅっと奥歯を噛んだ。震える腕で、ミューの体を、そっと抱き直す。
胸の奥で、ピアの声がした。
「うむ。——覚悟は、決まったな」
さっきまで、目の前にいたのに。いまは、また、内側からの声。それが、なんだか不思議だった。
「あとは、儂が手を貸す。お前は、ただ、この子のことだけを想うておればよい。——いくぞ」
うん。ラヴィは、こくりと頷いた。
その瞬間だった。
体の奥のほうから。なにか、熱くて、つめたい力が、せりあがってくる。それが、すうっとラヴィの全身に満ちていく。
血の奥が、ことことと沸きたつような感覚。心臓の鼓動が、いつもよりずっと深く、ゆっくりと重くなる。——まるで、自分のなかのもっと古くて、もっと底のほうにあるものが、しずかに目を覚ましていくみたいだった。
視界が、ぐにゃりと変わった。暗い路地が、昼間みたいに、くっきりと見える。あらゆる音が、やけに鮮明に響く。——そして、口のなかで。きゅっと、何かが伸びる感覚があった。
舌先で、そっと触れてみる。——とがった、牙。
自分の体が、自分のものでないものに、作り変えられていく。けれど、こわくはなかった。ピアが、すぐそばで導いてくれているのが、わかったから。
——ただ。
それでも、胸の奥でべつの想いが、ずきりと疼いた。これから自分がしようとしていること。それは、やっぱりどうしようもなく、こわくてかなしいことだった。けれど、もう迷っている時間は、ない。
ラヴィは、ミューの、白い首筋にゆっくりと顔を寄せた。
——と。
「っ……ラヴィ!? お前、なにを……っ!」
胸の奥で、べつの声が、鋭く跳ねた。ネオンだ。
「その牙は……まさか、ミューを……!? やめろ、ラヴィ、正気か!?」
事情を知らないネオンには、それはただ、ラヴィが傷ついたミューに襲いかかっているようにしか見えないのだろう。当然だった。
ネオンも、ミューを大切に思っている。だからこそ、こんなにも必死に止めようとしてくれている。——ごめんね、ネオン。いまは、説明している時間が、ないの。ラヴィは、胸のうちで、そっと詫びた。
「落ち着け、忍の娘」
ピアの声が、悠然と割って入った。
「なに、案ずるな。まあ、黙って見ておれ」
「……っ、誰だ、お前は!? いつから、そこに……!」
ネオンの、うろたえた声。どうやら——胸の奥、ネオンの部屋にピアが現れたらしい。
「後で、たっぷり説明してやる。——いまは、邪魔をするな」
ネオンが、なおも、何か言いつのろうとする気配。けれど、ピアの、有無を言わせぬ落ち着きを前に、その声は、だんだんと勢いを失っていった。
ラヴィは、ふたりのやりとりを、どこか遠くに聞きながら。
ただ、腕の中の、ミューだけを見つめていた。
——ごめんね、ミュー。
こんな形で。あなたに、こんなことを。——でも、消えてほしくない。どこにも、行ってほしくない。だから。
ラヴィは、ぎゅっと目を閉じて——その首筋に、そっと、牙を立てた。
——お願い。
祈り方なんて、知らない。神さまがいるのかも、わからない。それでも、ラヴィは、ありったけの想いをこめた。お願い。消えないで。わたしの中で、生きて。
——もう一度、聞かせて。何度も、何度も、「ラヴィ、ラヴィ」と呼んでくれた、あの声を。なにを見つけても、どこへ行っても、いちばんに、わたしの名を呼んでくれた、あの声を。
——もう一度、見せて。うれしいことがあると、ぴんと立つ、猫の耳を。すねると、ぷうっと、いっぱいにふくらませた、やわらかな頬を。お腹を空かせて、しょんぼりと垂れた、尻尾の先を。
ささいな、なんでもない仕草の、ひとつひとつ。そばにいるあいだは、あたりまえみたいに、すぐそこにあったもの。それが、ふっと消えてしまう。そのことが、いまさらのように、たまらなくこわかった。
——だから。どうか、お願い。いなくならないで。わたしの、そばから。
その、瞬間。
ミューの体が、淡く発光した。
そして——ほどけはじめた。固く結ばれていた糸が、端から、するすると手繰られていくように。そのほどけた光が、ラヴィの唇から、内側へと、すうっと流れこんでくる。
あたたかい。
胸の奥に、染みわたっていくのは、ミューの、ぜんぶだった。お腹を空かせて鳴いた声。じゃれついてきた、ちいさな手のひら。しあわせ、と笑った、あの照れた顔。怒ったり、すねたり、甘えたり——ラヴィと過ごした、そのひとつひとつの時間までも。ぜんぶ、まるごと、ラヴィのなかへ。
——溶けて、ひとつになっていく。
ふしぎな感覚だった。かなしいのに、どこか、あたたかい。むごいことをしているはずなのに、まるで、いちばん大切なものを、いちばん近くに抱きしめているような。
腕の中の、小さな体が。みるみる、薄く透けていく。
そして。
ふっ、と。
消えた。
腕に、なんの重みもなくなった。
ついさっきまで、たしかに、そこにあった、ちいさな、あたたかさ。それが、嘘のように消えている。
その空っぽの感触に、ラヴィの心臓がひゅっと縮みあがる。——消えた。ほんとうに、消えてしまった。失敗、だったの? わたしは、ただこの手で、ミューを終わらせただけだったの?
取り返しのつかない後悔が、まっくらな波になって、ラヴィを呑みこもうとした——その時。
「——案ずるな」
ピアの、落ち着いた声が響いた。
「お前の、内側じゃ。——もう、自分で覗くこともできるじゃろう。やってみよ」
言われるままに。ラヴィは、胸の奥へと意識を向けた。
——あの、薄明かりの、内なる世界。その片隅に。
ミューが、いた。
ちいさな体を、まるめて。目を、閉じて。すうすうと、かすかに、息をしている。——眠っているみたいに。あの危うい明滅は、もう止まっていた。
さっきまでの、あのいまにも消えそうな危うさは、どこにもなかった。ただ、すこやかな寝息だけが、しずかに上下している。傷も痛みも、もうないみたいに。——生きて、いる。たしかに、ここで。ラヴィのいちばん近くで。
手を、伸ばしたかった。けれど、ここは、ラヴィの内側。外にいる自分の手は、その小さな体には届かない。それでも、よかった。消えなかった。それだけで、いまは、じゅうぶんだった。
「……ミュー」
「やはりな。儂の、思うた通りじゃ」ピアの声が、どこか得意げに笑った。「安心せい、ラヴィ。猫娘は、ちゃんとここに来たぞ。——消えては、おらん」
消えて、いない。
その言葉が、胸に、じんわりと染みこんだ瞬間。
ラヴィの目から、ぼろぼろと涙がこぼれた。今度は、恐怖からの涙では、なかった。安堵で。よかった、という思いで。胸が、いっぱいになって。
張りつめていたものが、ぜんぶ、ほどけていく。ラヴィは、力なく、崩れた地面に両手をついた。涙が、ぽたぽたとざらついた瓦礫の上に落ちていく。
「……よかった。ほんとうに、よかった……っ」
ひとしきり、泣いて。
「さて、ラヴィ」ピアの声が、ふと調子を変えた。「感動に浸るのも、けっこうじゃが——その前に。自分の身を見てみよ」
「……え?」
言われて、ラヴィは、はっと我に返った。
そういえば。——体が、痛い。ずきずきと全身が悲鳴をあげている。あの、もう一人の自分。その手から放たれた、まばゆい光の一撃。まともに背中で浴びて、地面まで吹き飛ばされた。輪郭は、いまもところどころ、じじ、とほつれていた。ミューのことに必死で、すっかり忘れていた。自分も、ぼろぼろだったということを。
すこし、身じろぎするだけで、灼けるような痛みが走る。よく、こんな体で、起き上がっていられたものだ。——きっと、ミューを助けたい、その一念だけが、ここまでラヴィを支えていたのだろう。
「……うん。そう、だね」
ラヴィは、ひとつ、息を吐いて。傷だらけの自分の体に、そっと手をかざした。
「——ヒール」
やわらかな光が、こぼれて満ちる。今度は、ちゃんと効いた。乱れた輪郭がゆっくりともとに戻り、痛みがすうっと引いていく。




