16_助け舟②
凍りついたまま、ラヴィはようやく声を絞り出した。
「……どういう、こと」
掠れた、ちいさな声だった。
「言葉のとおりじゃ」ピアは表情を変えない。「あの猫娘は——あのままでは、もう助からん。ふつうに手を尽くしたところで、あの傷は塞がらん。お前の、あの光でも、な」
ヒール。さっき何度かけても、ミューに届かなかった、あの光。——それは、ラヴィ自身がいちばん思い知らされたことだった。
「だが、それでも、生かす道がひとつだけある。——お前が、あの猫娘を喰らうことじゃ」
「っ……」
頭が、かっと熱くなった。
「そんな……っ」
うまく言葉が出てこない。意味が、わからない。いや——わかりたくなかった。
「とどめって……食べる、って……? ミューを、わたしが……?」
混乱と怒りで、声がぐちゃぐちゃにふるえた。
「食べるなんて……そんなの……いやだ……っ」
涙が、ぼろぼろとあふれた。あの、無邪気にじゃれついてきた子の顔が、頭から離れない。——なにを言われているのか、まだ、うまく呑みこめずにいた。
「落ち着け」
ピアの声は、やはり静かだった。泣きじゃくるラヴィを、責めるでも、なだめるでもない。
ただ——その深紅の瞳の奥に、ふと遠くを見るような色がよぎった。まるで、いつか自分も、おなじ場所に立ったことがある、とでもいうように。
ピアは、急かさなかった。ラヴィが、ありったけの嘆きを吐き出してしまうまで。そのひとつひとつを、静かに受け止めるように。ただ、そばにいてくれた。
やがて、ラヴィの嗚咽が、すこしおさまったころ。
「……ひととおり、喚いたか」ピアは、ぽつりと言った。その声は、ふしぎと、とがめる響きをもっていなかった。「なら、聞け。儂の話は、まだ終わっておらん」
ラヴィは、しゃくりあげながら、唇を噛んだ。
「儂はな。——吸血鬼じゃ」
ぽつり、と、ピアは言った。
「血を吸う化け物、と言えば、わかりやすかろう。じゃが、儂らの力は、血を啜るだけにはとどまらん。その気になれば——相手の、存在そのものを。記憶も、心も、なにもかも、まるごと吸い尽くすことができる」
存在そのものを、吸い尽くす。——おぞましい言葉のはずだった。なのに、ピアの口ぶりは、あまりにも淡々としていて。それが、かえって、その力の底知れなさを感じさせた。
吸血鬼。血を吸う、化け物。——そんなものが、なぜ、ここに。なぜ、わたしを助けようとするのか。問いたいことは、山ほどあった。けれど、いまは、それをひとつずつ確かめている余裕は、なかった。
「そして、お前じゃ、ラヴィ」
ピアの深紅の瞳が、まっすぐに、ラヴィを射た。
「お前は、自分の内側に、ほかの存在を住まわせておる。あの忍の娘を。——そして、いま、こうして話しておる、この、儂を、な」
ラヴィは、こくりと頷いた。それは、知っている。胸の奥から響く、ネオンの声。そして、目の前のこの人も、たしかに、わたしの内側から現れた。うまくは言えないけれど、なんとなく、わかってはいたのだ。自分の中に、ほかの誰かがいる、ということは。
「どういう理屈で、そんなことができるのか。それは、儂にも、まだ、わからん。じゃが——お前は、そういう、器なのじゃよ。ほかの者を、内に抱え、その内側で生かしておく。そういう、ふしぎな、入れ物じゃ」
器。
その言葉が、胸の奥にふしぎな手応えをもって落ちた。ずっと、もやもやと形にならなかったものに。いま、ピアがひとつの名を与えてくれた気がした。——わたしは、何者なのか。ずっと抱えてきた、その問いのほんのひとかけらに。指先が、触れた。
「わかるか」ピアは続けた。「儂の力で、あの猫娘の存在を、根こそぎ吸い上げる。そして、それを——お前という器の、内側へ移す。うまくいけば。あの娘は、消える代わりに、お前の中で。儂や、忍の娘と、同じように——生きられる、かもしれん」
かもしれん。
その言葉に、ラヴィは、すがるように顔を上げた。
「ほんとう、に……? ミューが、生きられるの……?」
「——確実では、ない」
ピアは、はっきりとそう言った。甘い嘘は、つかなかった。
その、突き放すようでいて、どこまでも正直な言葉に。ラヴィの胸の、こわばっていた何かが、ほんの少しだけほどけた。——この人は、きれいごとを並べて、ラヴィを丸めこもうとはしない。ほんとうのことだけを、ちゃんとこちらの目を見て言ってくれる。
なぜだろう。会ったばかりなのに。この人の言うことなら、信じてみても、いいような気がした。
「やってみねば、わからん。しくじれば、あの娘は、そのまま消える。じゃが——このまま、何もせずとも、どのみち、消える。なら、賭けてみる価値は、あろう」
ピアは、そこで、ふっと肩の力を抜いた。
「とはいえ。——やるか、やらぬか。決めるのは、儂ではない。お前じゃ、ラヴィ」
「……わたし」
「自分の手で、大切な者を、いちど終わらせる。むごい話じゃ。儂は、強いはせん。お前が、いやだと言うなら、それまでよ」
ラヴィは、うつむいた。
胸のなかで、ふたつの思いが、ぐるぐると渦を巻く。
わたしが、この手で。——ずっと、一緒に旅をしてきた、あのピキピキを。
はじめて出会った、傷ついた小さな虫。「ピキピキ」としか鳴けなかった、あの子。それが、ほんとうの姿を取り戻して、ミューになって。お腹を空かせて、じゃれついて、わたしのことを、なにより大切にしてくれた。誰より、そばにいてくれた、あの子を。
終わらせて、食べる。——むごい。こわい。指先が、つめたくなる。そんなこと、できるわけがない。できるわけが——。
——でも。
このまま、何もしなければ。あの子は、ただ消える。さっき、腕の中で、消えそうに揺れていた、あの小さな光が。ふっと、夜の闇に溶けて。二度と、戻らない。
それを、ただ、見ているだけ。指をくわえて、また、何もできずに。
——そっちのほうが。ずっと、ずっと、耐えられなかった。
ラヴィは、ぎゅっと目を閉じた。それから、ゆっくりと顔を上げる。
涙に濡れた、けれど、もう揺れていない目で。
「……他に、方法が、ないのなら」
声が、震えた。それでも、はっきりとラヴィは言った。
「お願い、ピア。——わたし、ミューを、助けたい。力を貸して」
ピアは、しばらくラヴィを見つめた。
その目には、もう、面白がるような色は、なかった。ただ、まっすぐに、ラヴィの覚悟を受け止めて——ひとつ、深く頷いた。
——その、瞬間。
ふいに、まわりの景色が、ぐにゃりとゆらいだ。果てのない薄明かりが、水に落とした絵の具のように、にじみ、とけていく。ピアの姿も、だんだんと薄れて。
意識が、ゆっくりと引き上げられていくのを、ラヴィは感じた。
あの、崩れた路地へ。——消えかけた、ミューのもとへ。




