15_助け舟①
「助けが、欲しいか」
その声が響いた——次の瞬間。
ラヴィは、見知らぬ場所に立っていた。
さっきまでの、崩れた路地ではない。冷たい夜気も、瓦礫の匂いも、消えている。あたりは、ただしんとした薄明かりに満ちていた。床も、壁も、天井も、よくわからない。ぼんやりとした、果てのないうすぐらい空間。
音が、ない。風も、匂いも、温度すら、ない。ただ、自分の呼吸だけがやけに大きく、耳の奥で響いていた。まるで、世界からすっぽりと切り取られてしまったみたいに。
頭の芯が、しびれたようにうまく働かない。さっきまで、たしかに崩れた路地にいたはずなのに。冷たい地面に膝をつき、腕のなかの消えかけたあの子を、ただ抱きしめていたはずなのに。——それが、どうしてこんなところに。
——どこ、ここ。
ミューは。ミューは、どこ。
ラヴィは、はっと我に返って、あたりを見回した。腕の中にいたはずの、消えかけたあの子の姿が、ない。
「ミュー……! ミュー、どこ……っ!」
声が、上ずる。心臓が、早鐘を打つ。さっきまで、あの子は、この腕の中で、いまにも消えそうに揺れていたのに。それが、どこにも——。
——間に合わなかった、ということなのだろうか。
最悪の想像が、冷たく背を這いのぼってくる。足の力が、すうっと抜けそうになった。
——わたしの、せいだ。
また、その思いが、胸を締めつけた。あんなに無邪気に、しあわせと笑っていた、あの子を。この弱い自分が、守りきれなかった。
「落ち着け、小娘」
ふいに、声がした。
ゆったりとした、低い女の声。さっきの——「助けが、欲しいか」と言った、あの声だ。
ラヴィは、はっとして振り返った。
薄明かりのなかに、ひとりの女が立っていた。
ゆるく結いあげた、金色の髪。細いフレームの眼鏡の奥で、深紅の瞳がけだるげに光っている。血の気の薄い、白い肌。床まで届く、黒いゴシック調の長いコートドレスに身を包んでいた。年の頃は、わからない。若い娘のようにも、ずっと古い何かのようにも見える。指を、そっと眼鏡の縁に添えて、面白がるように、こちらを見ていた。
知らない。こんな人、知らない。——なのに。
その気配は、たしかに、さっきラヴィの内側から響いた、あの声と同じものだった。
この、張りつめた状況のただなかで。その女だけが、ひとり、時の流れの外にいるみたいに、ゆったりとそこに在った。
こわい、とも、ちがう。あやしい、とも。ただ——底が、見えなかった。そのけだるげな佇まいの奥に、どれほどのものが沈んでいるのか、ラヴィには、まるで見当もつかない。
「あなた……だれ……?」
「そう急くな」
女は、ふ、と笑った。鷹揚な、どこか面白がるような笑み。
「いちどに、あれもこれもと訊きたかろう。じゃが——まず、お前。自分の心の臓の音を聞いてみよ」
「……え?」
「どくどくと、うるさかろう。それでは、何ひとつ、まともに考えられん。ほれ。ひとつ、息を吐け。ゆっくりと、な」
わけが、わからなかった。ミューが消えて、知らない場所で、知らない女が、悠長に息を吐けと言う。そんな、のんびりしている場合じゃ——。
「ミューが、死んじゃう……! こんなところで、話してる場合じゃ、ないの……っ!」
「だから、落ち着けと言うておる」
女の声は、低く、けれど不思議と、すっと胸に染みた。
女は、ゆっくりとラヴィのほうへ歩み寄った。あわてず、急かさず。まるで、おびえた小さな獣を、なだめるように。そして、ラヴィの目の高さに、すっと身をかがめる。
「こわいのは、わかる。大切に想っている者が、目の前で消えかけている。——正気で居ろという方が、無理な相談じゃろうな」
その言葉に、ラヴィは、ふいに泣きそうになった。
誰にも弱音を吐けないまま、ずっとひとりでこらえてきた。それを、会ったばかりのこの人が、たったひと言で見抜いてしまった。
「よいか。ここでどれだけ言葉を交わそうと、外の刻は、ほとんど進まん。——ここは、お前の、内側じゃからな。慌てて舌をもつれさせるより、ひと呼吸おいて、儂の話を聞いておけ」
外の刻は、進まない。内側。——意味は、半分も呑みこめなかった。それでも、その声のゆったりとした重みに、つられるように。ラヴィは、ひとつ長く息を吐いた。
すると、ふしぎと。早鐘を打っていた胸が、ほんの少しだけ静かになる。
「……うん。少し、いい」
「上等じゃ」
女は、満足げに頷いた。
「儂の名は、ピア。——と、いま名乗ったところで、お前には、なんのことやら、じゃろうがな」ピアは、軽く肩をすくめた。「こまかい話は、後でいくらでもしてやる。いまは、ひとつだけ。お前が、いちばん知りたいことから片づけよう」
ラヴィは、こくりと頷いた。知りたいこと。それは、決まっている。
「……ミューを。助ける方法が、あるの……?」
「……可能性なら、ある」
確実だ、とは言わなかった。けれど、そのひとことは、たしかな重みをもってラヴィの胸に届いた。
その瞬間、ラヴィの胸に、すがるような光が灯った。
可能性。たとえ、どんなにわずかでも。ゼロでは、ないのなら。——その、細い、細い糸のような希望が、まっくらだった胸の底へ、垂れてくる。ラヴィは、両手で、すがるようにそれを握りしめた。
「ほんとう……っ? どうすれば——」
「ただし」
ピアは、すっと目を細めた。眼鏡の奥の、深紅の瞳が、薄闇のなかでゆらりと揺れる。
「その方法はな。——端的に言えば。お前自身が、あの猫娘にとどめを刺すことじゃ」
——え。
ラヴィのなかで、灯りかけた光が、凍りついた。
とどめを。——わたしが。ミューに。
意味が、わからなかった。いや、ちがう。意味は、わかる。わかって、しまう。だからこそ、頭がそれを受けつけようとしない。
助ける方法。それが——あの子を、わたしが、終わらせる、ということ。
いま、この人は。
なんて、言った。




