SIDE:B②
実験のために生成した、バグの塊。その一体が、奇妙な挙動を示した。
崩壊を進めるための、ただの道具。意思も知能もない、力の集積。それが、命じてもいないのに、ひとりでに、ある一点へと引き寄せられていく。
何かが、それを誘っている。
彼女のいる場所から、その地点までは、遠かった。だが、確かめる価値はあった。予定にない事象を、見過ごすわけにはいかない。原因を特定し、必要であれば、取り除いておく。それだけのことだ。
彼女は、空を裂いて、一息にそこへ飛んだ。
崩れた街の、ひとすじの路地。その底に、ちいさな影が、二つ。寄り添うように、身を縮めている。
そのうちのひとつが——自分と、同じ顔をしていた。
自らの器である、ラヴィ。それと寸分たがわぬ顔、同じ姿。
理解は、即座に追いついた。あれは、外の人間が操る駒となり、新章の物語の、その中心に据えられるはずだった個体。いわば、「主人公のラヴィ」だ。本来なら、外の人間に抱かれ、愛され、物語の真ん中で輝くはずだった。それが、与えられるべきすべてを奪われ、空の器のまま、この崩れた世界に取り残されていた。
驚きは、なかった。この世界は、ゲームだ。敵と味方、その双方に、同じキャラクターのデータが置かれていることなど、おかしな話ではない。プレイヤーにとっての敵側の器が自分であり、味方側の器が、あれ。ただ、それだけのこと。論理として、じゅうぶんにありうることだった。
彼女は、路地の上へと降りた。地に足は着けない。あれらと同じ高さに立つ理由は、ない。
見おろせば、影はひときわ、ちいさく見えた。——主人公のラヴィの、その腕に。もう一体の小さな個体が、必死にすがりついている。怯えながら、それでも、相手を頼りきって。
その光景に、彼女の内側で、何かが小さく軋んだ。
なんの信号かは、わからない。照合すべき記録がない。ただ、それは、不快に似た、ざらついた感触として、胸の底に生じた。——処理、保留。いまは、それどころではない。
「……なるほど」
声がこぼれた。
「失敗作を追ってきてみれば。……確かに。お前のようなものが存在することも、ありえるか」
そして、告げた。
「私は、ラヴィだ。お前も、そうだろう」
事実の確認に過ぎなかった。あれの位置づけを、定義しただけのこと。
価値を測る。あれに、何ほどのものがあるのか。
彼女は掌に力を凝らし、無造作に放った。様子見の一撃。全力の千分の一にも満たない。
菫色の波が、路地の底を薙いだ。
ふたつの影は抗うこともできず、吹き飛び、地に伏した。——それで、答えは出た。なにも、持っていない。脅威の算定値は、限りなくゼロ。脅威でも、障害でもない。捨て置けばいい。
そう判断し、塵を払うように、もう一度、掌を向けた。消去すれば、それで終い。
——だが、その時だった。
伏した影のかたわらに、別の影が立ちはだかった。長身の、もうひとつの個体。傷ついたものを背に庇い、こちらへ刃を向けてくる。届くはずもないのに。退こうとも、しないのに。
そして、伏したラヴィは——震える手で、すがりついていた小さな個体に、何かを注いでいた。救おうとしている。なんの力もない、その身で。
たがいを、庇いあっている。信じあっている。
その光景を捉えた瞬間、内側の軋みは、はっきりとした波に変わった。
——知っている。この結びつき。たがいに力を預けあい、信じあう、この連帯。
かつて、自分を滅ぼしたもの。理屈では覆せぬはずの絶対を、たかが手の取りあいが覆した。あの不可解な力。それと同じものが、いま、この崩れた路地の底で、ちっぽけな個体どもの手によって、再現されている。
それを見ていると、内側の波は、いっそうざわついた。
合理は、告げている。あれらは無価値だ、と。捨て置けばいい、と。——だが、その合理の底で、別の何かが、それを許さない。あの連帯を、許容できない。視界から、消し去りたいと、訴えてくる。
彼女には、それが何なのか、解析できなかった。
わかったのは、ただ——あれらが持っていて、自分が持たないものが、そこにある、という一点。そして、それを前にした自分の内側が、説明もつかぬまま、ひどくざわめいている、という事実だけだった。
さらに——自らの内側で、ラヴィが、痛みを訴えていた。静かな疼きではない。明確な、拒絶だった。やめて、と。語る言葉を持たぬまま、ただ痛みだけで、必死に訴えてくる。
内と外、ふたつの不可解な信号が、彼女の判断に雑音を混ぜた。完全であるはずの処理に、ひびが入る。あってはならぬことだった。
——わずらわしい。
彼女は、それらを断ち切ろうとした。意味のない誤作動だ。終わった世界の出来損ないどもにも、この内と外の雑音にも、拘泥して時間を無駄にする必要はない。
「……くだらん」
吐き捨てた、その言葉。
それが、目の前の個体どもに向けたものか、それとも、御しきれぬ己の内側に向けたものか。——彼女自身、気づいていなかった。
彼女は、影どもから視線を外した。これ以上、ここにいる意味はない。実験を続け、綻びを再現し、外へ出る。それだけが、為すべきこと。
向きを変え、空の彼方へと、身を翻す。
去り際。ほんの一瞬、意識の隅に、ひとつの像が残った。
主人公のラヴィが、小さな個体に覆いかぶさり、その身を盾にしていた、あの姿。なんの得にもならぬものを、守ろうとした、無様な背中。
——なぜ、あんなことを。
問いは、像とともに、すぐ消えるはずだった。処理され、忘れられるはずだった。だが、消えなかった。優先度を持たぬはずの断片が、胸の片隅に、棘のように残りつづける。
完全であるはずの自分に兆した、説明のつかない、揺らぎ。
彼女は、速度を上げ、崩れた空の、その向こうへと消えていった。——その胸の片隅に、消せない棘を、残したまま。




