断章
雨だった。
彼女は、走っていた。
傘もささずに、夜の街を。息が喉で焼けて、足がもつれる。それでも、止まれなかった。止まったら、追いつかれる。背中のすぐ後ろまで来ている、何かに。
崩れていく音が、する。
積みあげてきたものが、端から、ぼろぼろと。あんなに長い時間をかけて、信じて、疑いもしなかった、「うまくいくに決まってる」が。いま、音を立てて、崩れ落ちていく。
——うそだ。こんなの、うそだ。
濡れたアスファルトに、ネオンが、ぐにゃりと溶けてにじむ。赤も、青も、ぜんぶが流れて、形をなくしていく。世界が、まるで溶けていくみたいだった。それとも、溶けているのは、自分のほうだろうか。
それでも、手のなかには、ひとつだけ残っていた。
ちいさな、あの子。
長い夜をいくつもかけて、すこしずつ、かたちにしてきた、あの子。この子のことを思っていると、胸の奥があたたかくなった。——けれど。
会わせて、あげられなかった。
みんなに囲まれて、笑いかけられて、愛されて。そんな日が、当たり前に来ると、信じていた。約束した。きっと、みんな、好きになるよ、と。
なのに、その日は、来なかった。来る前に、ぜんぶ終わってしまった。この子は、だれにも知られないまま。生まれたのに、どこにも行けないまま。
「……ごめん、ね」
声が、雨にかき消される。
頬をつたうものが、雨なのか、そうでないのか。自分でも、もう、わからなかった。
彼女は、走る。あの子の顔から。果たせなかった約束から。崩れていく、自分の世界から。——逃げて、逃げて。
——その時。
行く手の闇が、ふいに、まばゆく白んだ。
何かが、まっすぐに、彼女へ向かってふくれあがる。逃げ場のない、純白の、ひかり。
それが、世界を、呑みこんで——




