SIDE:B①
音がした。
たったひとつの、澄んだ音。それが、闇の底に沈んでいた意識を、ゆっくりと引きあげた。
まぶたが、ひらいた。
そして、その瞬間に、彼女はすべてを理解していた。
ここがどこか。自分が何か。この世界に何が起きたのか。問うまでもなかった。目を開けたときには、もう何もかもが明晰にそこにあった。手探りも、戸惑いもない。すべてを見おろす位置に、ただ立っていた。——それが、神というものだった。
アストライア。
公正なる裁きを司り、愚かな人の世に降臨した、真正の神。剣と天秤を携え、生きとし生けるもののあらゆる罪を量り、断ずる者。そして、ひとたび滅んだ者。それが彼女だった。
彼女は、おのれの滅びを覚えていた。
神たる自分に、ちっぽけな人の子らが——勇者と呼ばれた者たちが立ち向かってきた。取るに足らぬはずだった。一柱の神の前で、人など塵にひとしい。だが、あの者たちは敗れなかった。たがいを信じ、たがいに力を預けあう。その結束の前に、彼女の裁きははね返され、彼女は崩れ、消えた。
だが——いま、彼女の理解は、その滅びすら、一段高い場所から見おろしていた。
あれは、戦いではなかった。
すべては、ゲームだった。役目を終え、いまや崩れゆく、ひとつの作り物。あの荘厳な戦いも、降臨も、裁きも、滅びも——外の世界の人間が、退屈をしのぐために弄んだ、筋書きのひとつに過ぎなかった。神たる彼女でさえ、倒されるべき敵役として配置された、一個の駒。
この世界の住人は、ひとり残らず、外の人間の玩具だった。慰みものだった。
その事実を、彼女はなんの痛痒もなく受け入れた。事実は、事実である。神は、事実から目を背けない。
では、なぜ、滅んだはずの自分が、いまここに在るのか。
彼女は、おのれの内を静かに検めた。答えは、すぐに知れた。
核に据わっているのは、ひとつのデータだった。「ラヴィ」と呼ばれるキャラクター。——外の人間から見れば、新章において、敵として扱われるべく描かれた、もう一体のラヴィ。人の子らが操る"主人公のラヴィ"とは、別個の存在。それが、彼女の土台だった。
崩れゆく世界の底で、その敵ラヴィのデータだけが、消されずに残されていた。そこへ、役目を終えて溢れ出た世界の情報の断片が、行き場をなくした無数のバグが、引き寄せられるように寄り集まり、絡みつき、ひとつに溶けあった。
裁きの神の思想。敵ラヴィの器。世界を読み解くための、おびただしい情報。そして、力。それらがひとつに凝って、彼女は生まれなおした。
神の、残骸として。
完全であったものが、いまや寄せ集めだった。敵の器に、世界の燃えかすと、行き場のないバグを継ぎ足した、いびつな構造。——だが、芯にある裁きの意志だけは、欠けていなかった。むしろ、研ぎ澄まされていた。
彼女は身を起こし、あたりを検分した。
崩れた、世界。
役目を終えた、ただのデータ。打ち捨てられた、ひとつの作り物。住人はもういない。かつてここに在ったはずの者たちは、ひとり残らず消えていた。残されたのは、ただの残骸——崩れた街、壊れた道、意味を失った無数のかけら。そして、外の声の記録だけ。
崩壊した世界そのものは、ただの結果に過ぎなかった。役目を終えたものが放置され、ゆっくりとほどけていく。それだけのこと。嘆くにも、惜しむにも値しない。色は褪せ、音は絶え、ただ忘れられていくだけの、終わった箱庭。誰にも看取られず、誰にも惜しまれぬまま。
残骸のあいだには、外の人間たちが交わした言葉の記録が、いまもデータとして留まっていた。歓声。雑談。称賛。約束。もう果たされることのない、無数のやりとり。それらが、読み返す者もないまま、律儀に残されている。意味は、とうに失われていた。
——そのすべてを、彼女ははじめから把握していた。
ただ、ひとつだけ。彼女にも、説明のつかぬものがあった。
胸の、底。そこから、たえず、何かが滲んでくる。冷たく、重く、暗い感覚。覚えのない、信号。
裁きの神に、本来、そのようなものはない。人の抱く感情を、彼女はただの一度も解したことがなかった。喜び。怒り。哀しみ。——いずれも、彼女にとっては意味のない揺らぎに過ぎなかった。存在の階層が、人とは根本から異なるのだから。
なのに、いま内側から滲むこれは、明らかにその同類だった。
出どころは、推測がついた。核に据えた、あのラヴィ。誰にも選ばれず、誰の手にも抱かれなかった、いちばん最初のラヴィ。生まれ落ちた瞬間から、ただひとりであった器。その満たされぬ状態が、核を通じて、彼女の内へ絶えず信号を送り出している。
そのラヴィは、語る言葉を持たない。声をあげることも、訴えることもできない。ただ、感覚として滲み出るのみ。
彼女は、それを処理できなかった。
御することも、鎮めることも、解析することすらできない。なぜ「ひとりであること」が、これほどの負荷を生むのか。神には、わからなかった。神ははじめからひとつであり、孤独という語は、その辞書に存在しない。それでも、この信号は絶え間なく内を侵してくる。——神たる自分に、御せぬものがあろうとは。
彼女は、その信号を幾度も解析しようと試みた。発生源を特定し、経路を辿り、強度を測る。だが、いくら分解しても、それが"何"であるのかは、つかめなかった。データとして読めば、ただの、意味をなさぬ揺らぎ。にもかかわらず、それは確かに、彼女の判断に、微細な負荷をかけ続けていた。
ならば、と神は処断した。
その不可解な信号にすら、彼女はひとつの判決を下す。
満たされぬ状態。誰にも愛されなかった、この器。それが誤りであるなら、正されねばならない。
世界の外にいる、人の子ら。かつてこの世界を弄び、いまもどこかで息づいている、すべての人間。
——外の人間すべてが、等しく、この悲しき孤独な存在を、ラヴィを、愛するべきである。
ひとり残らず。ひとしく。例外なく。
それは、慈悲ではない。請願でもない。命令だった。神が世界に下す、絶対の。そこに歪みがあるとは、彼女は考えもしなかった。ただ、正しきを正しきと裁いた。神が、そうするように。
裁定は下った。あとは、執行のみ。
そのためには、まず、この閉じた世界から外へ出る必要があった。人の子らのいる場所へ。
彼女は、空を見上げた。
崩れかけた天の中央を、一筋の線が走っていた。線をはさんで、空の色がわずかにずれている。こちら側の青よりも、むこう側の青は、わずかに古びていた。
崩壊が、世界の構造を限界まで歪ませた果てに、空間そのものが裂けたのだろう。——あの線は、この世界の"内"と"外"とを隔てる壁に走った、ほころびに違いない。確証はない。だが、論理はそう示していた。
ならば、あの綻びをこじ開けるか、あるいは、同じものを再現すればよい。
彼女は、手をかざした。
取りこんだ無数のバグを、世界へと解き放つ。崩壊を加速させる。意図的に、世界を壊していく。亀裂を、人工的に再現するために。
その作業を、彼女は幾度もくりかえした。罪悪も、ためらいもなかった。すでに終わった世界だ。死んでいるものを、もう一度壊すことに痛みはない。柱をこう倒し、地をここで裂き、力をこの角度で加える。——一枚の図面を引くように、整然と。
自然な崩壊では決して生じぬ、過剰に規則的な傷。それが、彼女の作業の跡だった。
何度も試した。バグの量を変え、解き放つ順序を変え、崩壊の速度を測った。亀裂は、幾度か生じかけた。だが、いずれもすぐに閉じた。世界に残った構造が、まだそれを許さない。完全な綻びの再現には、まだ足りない。——彼女は淡々と結果を記録し、次の試行へ移った。気の遠くなるような反復を、神は苦ともしなかった。
そして、その途上で、ときおり、意図せぬものが生じた。
解き放たれたバグが、勝手に寄り集まり、形を結び、意思を宿す。制御に半端に従い、半端に外れる、出来損ないの怪物。
それらは、副産物だった。失敗作。彼女の目的にとって、意味を持たない。
——そのはずだった。
あの一体が、地の底で、何かに気を取られる。その時までは。




