14_届かない力
倒れ伏したラヴィの、霞む視界の上で。
もうひとりのラヴィが、ふたたび、片手をかざした。
掌に、また、菫色の光が生まれる。——追い打ち。倒れて動けないラヴィたちに、とどめを刺すつもりなのだ。
逃げなきゃ。庇わなきゃ。——でも、体が動かない。指の一本さえ。ラヴィにできるのは、ただ、腕の中のミューを、きつく抱きしめることだけだった。
——だめ。
そう覚悟しかけた、その刹那。
ラヴィの胸の、いちばん奥から。ぶわっと、光が噴きあがった。
その光が、ラヴィとミューの前で、ひとつの人のかたちを結ぶ。
長身の、女の子だった。黒い装束に身を包んでいる。引き締まった、しなやかな手足。目元の涼しい、凛とした横顔。——忍びの装い。
ラヴィは、霞む意識のなかで、それを見上げた。
知らない姿。なのに、知っている気配。胸の奥からずっと、ラヴィを見守ってくれていた、あのぶっきらぼうな声の——。
ずっと、声だけだった。姿のない、胸の奥の気配だけ。それが、いま、はじめて——ラヴィの目の前に、たしかな背中として、立っている。
「ネオン……?」
その忍の少女は、答えなかった。ただ、すっと、ラヴィとミューを背に庇い、空の上のもうひとりのラヴィへと、鋭く対峙する。両手には、いつのまにか、細い刃が握られていた。
たとえ届かなくても。退く気は、ないというように。
その、つかのまの隙に。ラヴィは、力をふりしぼって、腕の中のミューへ、震える手のひらをかざした。
「……ヒール……っ」
手のひらから、いつものやわらかな光が、こぼれる。ミューの、ぐったりとした体を、つつみこむ。
——けれど。
何も、起きなかった。
いつもなら。傷ついたピキピキも、自分自身も。この光は、すぐに、やさしく癒やしてくれた。乱れた明滅をしずめ、歪んだ輪郭を、もとに戻してくれた。
なのに、いまは。
ミューの、激しく危うい明滅は、すこしもおさまらない。灼かれた傷も、ふさがらない。ラヴィの光は、ミューの体の上を、むなしくすべっていくばかり。まるで、深すぎる傷の前では、なんの力も持たないみたいに。
それどころか。菫色の力に灼かれた跡から、ミューの輪郭が、端から、ぼろぼろとほどけていく。ラヴィの光は、その綻びを、すこしも繕えない。指のあいだからこぼれ落ちる砂を、必死にすくいとめようとするみたいに——ただ、むなしく、こぼれていくだけ。
「……どうして」
ラヴィは、もう一度、ヒールをかける。「ヒール。ヒール……っ、お願い……」
何度くりかえしても、光は、こぼれては消える。ミューには、届かない。あのとほうもない力が刻んだ傷は、ラヴィのちっぽけなヒールなど、まるで寄せつけなかった。
——その一部始終を。
空の上のもうひとりのラヴィは、冷たく見下ろしていた。
果敢に、けれど届かぬ刃を構える、ネオン。むなしく、効かぬ光を注ぎつづける、ラヴィ。消えかけた、ちいさなミュー。
そのすべてを、ひとしきり眺めて——やがて、それは、ぽつりと言った。
「……くだらない」
ただ、それだけ。
虫けらのあがきを見るような。心の動く価値もない、というような。かざしていた手を、すっとおろす。掌の光が、音もなくかき消えた。
そして、もうひとりのラヴィは、もう二度と、ラヴィたちを見なかった。
ゆっくりと向きを変え——目指す方角、空の彼方へと。星屑をまとった姿が、みるみる小さく、遠ざかっていく。やがて、その圧も、気配も、夜の空に溶けて消えた。
あとに残ったのは。
崩れた路地の、深い静けさと。打ちのめされた、ラヴィたちだけだった。
さっきまで、世界をまるごと押し潰していた、あの圧。それが嘘のように消えてしまうと、あとには、こわいくらいの静けさだけが残った。ミューの、かすかな明滅の音だけが、ぱち、ぱち、と、暗がりに頼りなく響いている。
その人影が、構えていた刃を、すっとおろす。それから、ゆっくりと、ラヴィのかたわらに膝をつき、傷ついた背に、そっと手をそえた。いたわるように。
ラヴィは、かすむ目で、その姿を見上げた。
「……ネオン、なんだね」かすれた声で、つぶやく。「……あなた、外にも、出られたんだ」
胸の奥で、ネオンの声が、静かに答えた。
「……ああ。といっても、そこにいるのは、私の分身だがな。とっさに、ありったけをふりしぼって、出したらしい。——守ると、決めていたのに」
その声が、ぐ、と詰まる。
「……間に合わなくて。すまない」
ぶっきらぼうな声の奥に、ラヴィの知らない、古い悔いのようなものが、ふかくにじんでいた。
けれど、ラヴィの目には、もう、ネオンも映っていなかった。
ただ、腕の中の、ミューだけ。
弱々しく、いまにも消えそうに明滅をくりかえす、小さな体。さっきまで、あんなに元気だったのに。お姫様だっこに頬を染めて、しあわせ、と笑っていたのに。
それが、いま。わたしの、せいで。
——わたしのせいだ。
わたしが、弱いから。逃げることと、癒やすことしか、できないから。襲ってくるものに立ち向かうことも、大切な子を守りきることも、できない。
ヒールさえ、こんなときに、なんの役にも立たない。
「……なんで」
ぽろり、と。涙がひとつ、こぼれた。
「なんで……わたしは、こんなに、弱いの……っ」
ぽろぽろと、止めどなく、涙があふれる。ミューの、弱っていく小さな体に、ぽたぽたと落ちていく。
ごめんね。ごめんね、ミュー。守れなくて。こんな弱いわたしで、ごめんね。
ラヴィは、消えかけたミューを、きつく、きつく抱きしめた。まるで、そうしていれば、その光が、消えずにいてくれるとでも、いうように。
——もう、いやだ。
涙の奥で、ラヴィは思う。
こんなふうに、ただ奪われて。ただ、泣くことしかできないなんて。——もう、いやだ。
けれど、その小さな決意の灯さえ、いまは、あふれる涙に、かき消されそうだった。
ミューの光は、なお弱く。
その夜の闇に、ふっと、消えてしまいそうに揺れていた。
——と、そのとき。
「助けが、欲しいか」
ラヴィの内側から、知らない声が響いた。




