13_邂逅
それは、ラヴィたちの頭上で止まった。
空の彼方から一直線に飛んできた圧が、細い路地の上で、ふいに速度をゆるめた。そして、崩れかけた屋根のすぐ上——見上げれば、はっきりと姿を捉えられる高さまで、ゆっくりと降りてくる。
それでも、地に足を着けようとは、しない。
同じ地に立つことすら、しないというように。ただ、宙に浮いたまま、じっとこちらを見下ろしている。
その視線が触れただけで、あたりの空気がしん、と凍りついた。さっきまであんなに執拗だった怪物の気配も、もうどこにもない。残ったのは、このたったひとつの——けれど、くらべものにならないほど巨大な圧だけだった。
いや。凍るというのとも、ちがった。
見えない、とほうもなく大きな手のひらが、頭上から、ぐうっとのしかかってくるようだった。肩が、背中が、ずしりと重い。息さえ、まともに吸えない。空の一点に、ただ"それ"がいる。たったそれだけのことで、ラヴィの全身が、本能のいちばん奥から悲鳴をあげていた。——逃げろ。近づくな。あれにだけは、関わるな、と。
けれど、足は、根が生えたように動かなかった。
ミューが、ラヴィの服をぎゅっと握りしめた。声も出せずに。
ラヴィは、ごくりと唾を呑んで——おそるおそる、その圧の主を見上げた。
そして。
——息が、止まった。
空に浮かぶ、その者は。
ラヴィと、同じ顔をしていた。
同じ、淡い色の髪。同じ、頭の上の大きなうさぎの耳。耳のあいだには、同じ、ちいさな人参の飾りまで。鏡で見た、あの自分の顔が——そっくりそのまま、そこにあった。
けれど。
——同じなのは、そこまでだった。
その顔に浮かぶものが、ラヴィとはまるで違っていた。冷たく、研ぎ澄まされ、何ひとつ揺らがない。見下ろすまなざしには、温度というものが、まるでなかった。全身を、菫色の——夜気のように深い、紫の光がしんと包んでいる。その奥に、星屑をちりばめたような輝きが、ぞっとするほど美しくまたたいていた。
同じ部品で組み立てられているはずなのに、まるで別の、何か。人の手のとどかない高いところで、たったひとり、完成されてしまった——そんな、ぞっとするものがそこにいた。
風もないのに、長い髪が、菫色の光を受けて、ゆらり、と揺れる。まばたきひとつ、しない。表情は、ひとかけらも動かない。ただ、宙に飾られた一枚の絵のように、静かにそこに在った。生きているもののぬくもりが、まるでない。それが、ラヴィには何よりもこわかった。
その背では、いくつものちいさな光の粒が——菫色に燃える星々が、音もなく、ゆっくりとめぐっていた。まるで、ひとりの体に夜空をまるごと抱えこんでいるみたいに。見ているだけで、目の奥が、じんと痛む。あまりにもまばゆくて、あまりにも遠い。それは、ラヴィのようなちっぽけなものが、見上げてはいけない——そういう種類の、美しさだった。
「な……なに、あれ」
ミューの声が、震えていた。ラヴィの腕にすがりつくようにして、上空を見上げている。
「ラヴィが……ふたり……? なんで……あんなの……」
胸の奥でも、ネオンが鋭く息をのんだ。その声は、これまで聞いたどんなときよりも、張りつめていた。
「……ラヴィ。あれは、まずい。——下手に刺激するな。動くなよ」
ふたりとも、はっきりとおびえていた。とんでもないものを前にしている。それが、痛いほど伝わってくる。
——けれど。
ラヴィの胸を満たしていたのは、恐怖よりも、ただまっしろな困惑だった。
わたしの顔が。わたしの、髪が、耳が、人参が。——わたしじゃない、何かとして。あんな高いところに、浮かんでいる。
鏡のなかで、はじめて見たあの自分の顔。頼りなげで、寂しげで、それでも、なんだか愛おしかった、あの顔と。同じもののはずなのに。いまは、あんなにも冷たく、あんなにも遠くからラヴィを見下ろしている。
どうして。あれは、なに。わたしと、いったいなんの関わりがあるというんだろう。
その意味が、どうしても頭に入ってこない。考えがまとまる前に、唇のほうが、勝手に動いていた。
「……あなたは、」
声が、かすれた。それでも、ラヴィは上空へ向かって、問いかけずにいられなかった。
「……あなたは、誰……?」
その者は、ゆっくりと、ラヴィを見下ろした。
地を這う、小さな虫けらでも見るように。
「……なるほど」
ひとりごとのような、冷たい声だった。
「失敗作を追ってきてみれば。……確かに。お前のようなものが存在することも、ありえるか」
なに、を、言って——。
ラヴィが、その言葉の意味を掴みかねているうちに。その者は、こともなげに言い放った。
「私は、ラヴィだ」
どきり、と心臓が跳ねた。
「お前も、そうだろう」
同じ顔から、同じ声で。——ラヴィの名前がこぼれ落ちた。
わたしは、ラヴィ。それは、ネオンに名乗り、ミューに呼ばれ、ようやく自分のものだと思えるようになった、たったひとつのわたしの名前。
なのに。どうして、あれが、それを。同じ顔で、同じ声で、こともなげに——わたしの名を、自分のものだと言ってのけるのか。
足もとが、ぐらりと崩れる気がした。
混乱が、ぐるぐると渦を巻く。
隙だらけのラヴィを、もうひとりのラヴィは、しばらく無言で見下ろしていた。値踏みするように。あるいは、もう見るべきほどのものは何もない、というように。
やがて、それは——ゆっくりと片手を、前へとかざした。
ひらいた掌の中心に、つめたい光が生まれる。菫色の、ちいさな火種。それが、しゅう、しゅう、と空気を吸いこむようにして、みるみるふくれあがっていく。まわりの圧が、いっそう重くなった。
「——っ、ラヴィ!」ネオンが、悲鳴のように叫んだ。「来る……! 逃げろ——!」
「やだ……っ、足が、動かない……!」ミューも、声を引きつらせる。
逃げなきゃ。わかっている。——けれど、ラヴィの体は、あの圧に押さえつけられて、ぴくりとも動かなかった。掌の光は、もうラヴィの頭ほどの大きさにふくれあがっている。
そして、それは——無造作に、放たれた。
菫色の光が、ひとすじの大きな波となって、まっすぐに襲いかかる。
——ミュー!
考えるより先に、体が動いていた。ラヴィは、すぐ横のミューに、ぎゅっと覆いかぶさる。小さな体を、両腕で抱きこんで。背を丸め、自分の体の下に、すっぽりと隠した。
崩れる広間で、ピキピキを庇った、あのときと同じ。——この子だけは。何があっても、この子だけは。
次の瞬間、世界が、いちめん、まっしろに灼けた。
体の芯を、灼けるような衝撃がつらぬく。
ふたりはひとかたまりになって、宙へ吹き飛ばされた。路地の壁に、したたかに叩きつけられ、地面へ、ずるずると崩れ落ちる。
——痛い、なんて。そんな言葉では、とても足りなかった。
全身が、ばらばらに、ほどけていく。輪郭が、じじ、と音を立てて明滅する。庇った背中も、腕も、脚も、もう感覚がない。息のしかたさえ、思い出せない。
それでも、ラヴィは、霞む意識の底で、腕の中を——ミューを、見た。
そして。
——血の気が、引いた。
ミューが、ぐったりと、動かない。
庇いきれなかったのだ。あのとほうもない力は、ラヴィの体ごとつらぬいて、腕の中の、ちいさな体まで、容赦なく灼いていた。
「……ミュー。ミュー……っ」
かすれた声で、呼ぶ。けれど、ミューは答えない。その輪郭が、ばちばちと、激しく、危うく明滅していた。傷ついたピキピキが見せた、あの弱々しいちらつきとは——比べものにならないほど、ひどい。
いまにも、その小さな光が、ふっと、消えてしまいそうだった。
霞む視界の、その上のほうで。
もうひとりのラヴィは、まるで何ごともなかったように、掌の光をすっと収めていた。倒れ伏したふたりに、もう、一片の関心も向けていない。
——いまの一撃でさえ、あれにとっては、ほんの様子見。
そして、ラヴィの腕の中では。たったひとりの、大切な友だちの光が、いま、消えかけていた。




