12_始まり
その巨体が、地を蹴った。
これまでの、のろのろと這う虫とは、まるで違った。山のような図体が、信じられない速さで、すり鉢の斜面を駆けのぼってくる。まっすぐ、ラヴィたちめがけて。
ラヴィは、とっさにミューの手をつかみ、走りだした。——けれど、速い。背後の地響きが、みるみる近づいてくる。とても、振り切れない。
「ラヴィ!」胸の奥で、ネオンが叫んだ。「右だ! 倒れた柱の陰へ飛びこめ! あいつは速いぶん、急には曲がれない!」
考える間もなく、ラヴィは従った。ミューを抱き寄せ、横倒しになった太い石柱の陰へ、身を躍らせる。
直後、巨体がすぐ脇を、轟音とともに駆け抜けた。曲がりきれず、勢いのまま、向こうの瓦礫へ突っこんでいく。ネオンの言うとおりだった。
「いまのうちに——」
立ちあがりかけた、そのとき。巨体は、もう身をひるがえしていた。立ちなおりが、速い。ふたつの冷たい目が、柱の陰のラヴィたちを、ぎらりと捉えた。
——見つかった。
地を蹴って、巨体がふたたび突っこんでくる。逃げ場は、ない。
「っ……ミュー!」
そのときだった。
ミューが、ぐっと前に出た。涙のにじんだ目に、ありったけの力をこめて。小さな両手を、ぱっと前にかざす。
「——ミラージュ!」
その指先から、淡い光が、いくつもはじけ飛んだ。
光は、みるみる形を変え——ラヴィとミューの、そっくりな姿になる。何組もの「ふたり」が、左右へ、ばらばらに駆けだしていく。揺らめいて、半分すきとおっているのに、ぱっと見には、本物と見分けがつかない。
巨体が、ぐらりと惑った。どれが本物か、わからないのだ。冷たい目が、いくつもの幻のあいだを、せわしなく泳ぐ。
「……っ、なに、これ」
ラヴィは、思わず目をみはった。ミューに、こんなことが、できたなんて。
「ラヴィ、いまっ! 逃げて!」
ラヴィは、ミューの手を引いて駆けだした。——けれど。
やはり、ミューの足は遅かった。割れた石に足をとられ、つんのめる。それを追うように、いくつもの幻が、ひとつ、またひとつと、淡くかき消えていく。——もう、長くは、もたない。
巨体が、はっと、本物を——こちらを、見据えた。
迫る、山のような影。遅れる、ミューの足。
ラヴィの頭から、迷いが消し飛んだ。
身をかがめ、ミューの背と、膝の下に腕を差しこんで——一息に、抱えあげる。
その、瞬間だった。
——軽い。
信じられないほど、軽々と。ミューの体が、ふわりと宙に浮いた。ラヴィの細い腕に、自分でも知らない力が満ちている。まるで、羽根でも抱きあげるみたいに。
ラヴィは、ミューを胸にしっかりと抱えたまま、地を蹴った。
脱兎。
体が、風になる。倒れた柱を、宙に止まった石を、ぜんぶ後ろへ置き去りにして。ラヴィは、ミューを抱えたまま、すり鉢のふちを一息に駆けあがった。
巨体の咆哮が、背中で遠ざかっていく。
——と。
腕のなかで、ミューが、かああっと、耳まで赤くなっていた。
「ふぁ……っ!? ラ、ラヴィ、これ……お、お姫様だっこ……!?」
「ミュー、舌、噛むよ!」
「で、でも……あたし、こんなの……っ、しあわせ……」
命がけで逃げているさなかだというのに。ミューは、危機などそっちのけで、うっとりと頬を染めていた。張りつめていた糸が、ほんの一瞬、ゆるみかける。
——でも。
風を切って走りながら、ラヴィは戸惑っていた。
いまの力は、なんだったんだろう。わたしの腕は、こんなに強くない。ミューを抱えあげた、あの瞬間。まるで自分のものじゃない力が、ぶわっと湧きあがってきた。
胸の奥で、ネオンも、はっと息をのんでいた。
「……いまのは。私の、術じゃない」
ネオンの声は、戸惑っていた。崩れる広間で、ラヴィの体をひとりでに動かした、あの跳躍。あれは、ネオンの力だった。けれど今のは、ちがう。ネオンにも、覚えのない力だという。
では、いまのは、誰の——?
ラヴィの胸の、いちばん奥。ネオンのいる、その、もっと奥のほうで。ほんの一瞬、別の誰かの気配が、よぎった気がした。
けれど、それを確かめる暇は、なかった。
ラヴィは、ただ前へ、前へと駆けた。整いすぎた痕跡を抜け、崩れた街並みへ。何度も角を折れ、入り組んだ路地に身を躍らせる。——けれど、背後の地響きは、しつこく追ってきていた。あの巨体は、まだ、あきらめていない。
細い路地のどんづまりに、ラヴィは身をすべりこませた。崩れた壁の陰で、ミューを抱えたまま、息をひそめる。そっと、腕のなかのミューを地におろした。
その、とたんだった。
さっきまで腕に満ちていた、あの不思議な力が——すうっと、潮が引くように抜けていった。あとに残ったのは、いつもの、頼りない細い腕だけ。やっぱり、あれは、自分の力じゃなかったのだ。
荒い息を殺しながら、ラヴィは壁の陰で、じっと身をかためた。
胸の奥で、ネオンが、低く言った。
「……ああいう手合いは、知ってる。執拗で、狡猾だ。下手に隠れても、いずれ嗅ぎつけてくる」
その口ぶりには、ただの当て推量ではない、確かな手応えがあった。何度も、ああいうものと渡りあってきた者の——経験の、響き。
「ネオン……あなた、ああいうのと、戦ったこと、あるの?」
短い沈黙。
「……さあ。どうだったかな」
はぐらかす声。けれど、その奥には、はっきりと、語りたくない何かがあった。ラヴィは、それ以上は訊かなかった。——ただ、この声には、自分の知らない「過去」がある。そのことだけは、確かに伝わってきた。
——と。
そのときだった。
ふいに、あたりの空気が、びりっ、と震えた。
ラヴィの肌が、ぴりぴりと粟立つ。なに、いまの。——次の瞬間。
あれほど濃く、執拗だった、巨体の気配が。
ふっ、と、掻き消えた。
まるで、はじめから、なかったことにされたみたいに。
「……え」ラヴィは、思わず声を漏らした。「消えた……の?」
胸の奥で、ネオンが息をのむのがわかった。その声は、これまでとはまるで違う、硬い緊張をはらんでいた。
「……ちがう。逃げきった、んじゃ、ない。——あれは、消されたんだ。たったいま。もっと、大きな、何かに」
ぞわり、と、ラヴィの全身が粟立った。
あんなに大きく、あんなに執拗だった怪物が。まるで、指先で灯を消すみたいに——あっけなく、消されてしまった。
いったい、何が。
その答えは、すぐにやってきた。
遠い空の彼方で、なにかが、ちかりと光った。
そして——感じた。
これまでの、どんな気配とも、くらべものにならない。冷たく、重く、巨大な——押し潰されそうなほどの、圧。それが、まっすぐに、こちらへ向かって近づいてくる。
ものすごい、速さで。
空を裂くように、一直線に。あの怪物を、一瞬で消し去った"何か"が——いま、ラヴィたちのいる、この場所めがけて。
「……来る」ネオンが、絞りだすように言った。「ラヴィ。……あれは、まずい。あれだけは、だめだ」
ミューが、声も出せずに、ラヴィの服にすがりついた。
ラヴィは、動けなかった。逃げなきゃ、と、頭ではわかっている。——けれど。
その、近づいてくる圧の、ずっと奥に。ラヴィは、なぜか。ありえないはずの、運命じみた何かを——感じていた。
まるで、あれと自分とが、はじめから、どこかで結ばれていたような。
空の彼方の光が、みるみる、大きくなる。
それは、もう、すぐそこまで、来ていた。




