11_崩れる景色
朝が来て、ふたりと、もうひとりはまた旅に出た。
空き家を出るとき、ラヴィは胸の奥にそっと声をかけた。
「ネオン。お部屋、ちゃんとあった?」
「……ああ。消えては、いなかった」ネオンはぶっきらぼうに答えた。それから、ほんの少しだけ付け足す。「……まあ。悪くない」
ラヴィはくすっと笑った。ゆうべ、ネオンのために出した、あの小さな部屋。ひと晩明けても、ちゃんとネオンのところに残っているらしい。それが、なんだかうれしかった。
ミューは、あいかわらずラヴィのとなりでよく喋った。あれ見て、これ見て、と小さな指であちこちを差してまわる。胸の奥のネオンも、ときおりぼやくように口を挟む。——にぎやかな道行きだった。
けれど。
歩くにつれて、ラヴィはあたりの空気がすこしずつ変わっていくのに気づいた。
崩れた景色には、もう慣れている。表面の色がはがれ、輪郭がにじみ、ぼろぼろとほどけていく。そういう「壊れ方」を、ラヴィはいくつも見てきた。
けれど、この先の壊れ方は、どこかちがった。
うまくは言えない。ただ、肌がざわつく。ミューの口数も、いつのまにか減っていた。
歩くほどに、その感じは強くなった。道ばたの瓦礫は、妙に角が揃っている。割れた壁の模様が、左右で鏡映しのように重なっている。崩れているのに、どこか整えられている。ぼろぼろとほどけていく、いつもの壊れ方とは明らかに毛色がちがった。
それに——いつもなら、どこかしらに漂っているはずの、あの淡い光。誰かの残した声の名残が、ここにはひとつも見あたらなかった。まるで、この場所だけが、世界の記憶からそっと拭い去られてしまったみたいに。
あたりは、ぞっとするほど静かだった。
やがて、行く手の景色がひらけて——ラヴィは、思わず足を止めた。
目の前に、広大な痕跡が横たわっていた。
かつて、ここには何か大きなものが建っていたのだろう。円く、すり鉢のようにくぼんだ、広い広い場所。そのふちを、見上げるほど太い石の柱がぐるりと囲んでいた——いや、囲んで「いた」。柱は、もう一本残らず倒れていた。
ただ、その倒れ方がおかしかった。
どの柱も、中心へ向かって、放射状にきれいに倒れていた。まるで、誰かが定規をあてて並べたみたいに。地を裂く亀裂は、左右対称の模様のよう。割れた石の大きさまで、どこか揃って見える。
そして——崩れ落ちたはずの石くれのいくつかが。宙の途中で、ぴたりと止まっていた。
落ちる途中の姿のまま。重さを忘れたみたいに、何もない空中に、ぽつり、ぽつりと浮かんでいる。まるで、時が、その一点だけで止められてしまったように。
見れば見るほど、背すじが寒くなる。崩れた石の一片までが、まるで誰かの手で、注意ぶかく配されたかのようだった。乱れているのに、その乱れ方にひとつの揺るぎない秩序がある。偶然では、こうはならない。災害でも、こうはならない。
ふと、広間の底へ視線が落ちた。すり鉢のいちばん深いところだけが、光の届かない、濃い影に沈んでいる。その影が、この整いすぎた景色のなかで、たったひとつ、得体の知れない黒い澱みのようにわだかまっていた。
ラヴィは、ぞくりとした。
これは——崩れたんじゃ、ない。
捻れた回廊で感じた、あの感触がよみがえる。壊れて歪んだものには、誰の意思もなかった。ただ、ほどけていくだけだった。けれど、ここはちがう。ひとつひとつの石が、柱が、亀裂が、「こうあれ」と命じられて、この形に収まっている。
これは、誰かが。「こう壊れろ」と、そう仕向けて——この形まで運んできたのだ。
世界をこんなふうにこしらえた手が、たしかにどこかにある。その確信が、はじめて、はっきりとラヴィの胸に落ちた。
そう気づいたとたん、この広い場所が急にこわくなった。世界をこんなふうに作り変えてしまえる手。それはいったい、どれほど大きいのだろう。ラヴィのような、ちっぽけな存在など、指先ひとつでふっと消してしまえるくらいに——。
——と。
胸の奥で、ネオンがふいに息をのんだ。
「……ここ」
その声は、ひどくこわばっていた。
「どうしたの、ネオン」
「……なんだか。ここ、知ってる気がする」
ラヴィは、まばたきをした。
「知ってる? ネオンが?」
「……わからない。来たことがある、わけじゃない。たぶん。けど……この景色を見ていると、胸の奥が、ざわざわするんだ。なにか思い出しそうで——思い出せない。いやな感じだ」
戸惑いと、隠しきれない警戒が、その声ににじんでいた。ラヴィは、訊きたいことがたくさんあった。けれど、ネオンの張りつめた気配に、それ以上は踏みこめなかった。
かわりに、ラヴィはあたりを見まわして——そして、気づいた。
ここには、あの「気配」が、ある。
旅のあいだ、ときおり感じてきたものだ。どこか遠くから、この世界をじっと眺めているような、薄い視線。水族館で光に触れたとき、ぼんやり察した、あの「高いところにいる、誰か」。
けれど、ここのそれは、まるで質がちがった。
もっと近い。もっと濃い。外からただ眺めるだけの、あの淡い気配とは、似ても似つかない。これは——こちらに、はっきりと狙いを定めている。冷たく、鋭く、ラヴィたちを「見て」いる。
ぴり、と肌が粟立った。
「……ラヴィ」
ミューが、ぎゅっとラヴィの服の裾をつかんだ。さっきまでの陽気さは、すっかり消えている。猫耳をぴんと立てて、おびえたようにあたりをうかがっていた。
「なんか……いる。こっち、見てる。さっきから、ずっと」
その声は、震えていた。ミューにもわかるのだ。このねっとりと絡みつくような視線が。
胸の奥で、ネオンが鋭く言った。
「……ラヴィ。気を抜くな。——なにか、来る」
言い終わるより早く、足の裏に、ずん、と重い震えが伝わってきた。一度。それから、また一度。なにか大きなものが、地を踏みしめながら近づいてくる。
その、直後だった。
すり鉢の、いちばん底。倒れた柱の、その奥の深い影が——ぐらり、と揺れた。
宙に止まっていた石くれが、いっせいにばらばらと地へ落ちる。止められていた時が、堰を切ったように動きだす。
そして、その影のなかから、ゆっくりと立ち上がってくるものがあった。
これまでの地から湧く小さな黒い虫とは——あまりにもちがった。
見上げるほどに、大きい。何匹もの虫を、むりやり継ぎ合わせ、何倍にも引き伸ばしたような姿だった。鎧のような黒い殻が、全身をびっしりと覆っている。節くれだった脚が、左右に何本も生え、その先は、鉤のように鋭く尖っていた。前のほうには、ひときわ太い二本の腕。その先が、獲物をつかみ砕くための、ごつい鋏のかたちに割れていた。打ち鳴らすたび、かち、かち、と硬い音が鳴る。刃物じみた顎が、ぬらりと、よだれを引いていた。
そして、その黒い殻の表面が——ところどころ、ちらちらと明滅していた。出会ったばかりのピキピキが、傷ついてちらついていたのと、おなじように。けれど、こちらは、けた違いに大きく、おぞましい。輪郭がにじみ、ぶれ、ずれては、また結びなおす。まるで、この世界に、むりやりねじこまれた異物のように。
脚の一本が地を踏むたび、ずん、と重い音が腹の底に響いた。それは明らかに、ただ蠢くだけの災害ではなかった。これまで出会った、意思のない小さな虫たち。あれとは、何もかもがちがう。明確なひとつの意思が、その巨体に宿っていた。
顔の半分を占める、ふたつの大きな眼。無数の小さな粒が、びっしりと寄り集まって、ぎらぎらと冷たい光を撥ねかえす。その眼が、ぐるりと、まっすぐにラヴィたちを捉えた。
——狩る、気だ。
その眼と目が合った瞬間、ラヴィの全身がぞっと総毛立った。




