幕間①
世界から人の姿が消えて、どれくらい経つのだろう。
ラヴィには、わからなかった。目を覚ましたときには、もう、こうだったのだから。
歩いても歩いても、人には出会わない。すれちがうのは、崩れた街と、壊れかけた道と、ときおり地から湧いて出る黒い虫ばかり。世界はしんと静まりかえって、ただ、ラヴィたちの足音だけが響いていた。
けれど——すべてが瓦礫というわけでは、なかった。
崩れた区画を抜けると、ふいに、なんでもない町並みが、ぽつんと残っていることがある。屋根のかたむいた家々。錆びた看板。割れていない窓。まるで、ついさっきまで誰かが暮らしていて、ちょっと出かけただけ、みたいに。——ただ、その「誰か」が、もうどこにもいないだけで。
ラヴィたちは、そういう場所を選んで渡り歩いていた。
夜が近づくと、まだ崩れていない家をひとつ見つけて、戸を開け、なかへ入る。そうして、ひと晩だけ、そこを借りるのだ。
その夜の宿も、そんな家のひとつだった。
ちいさな石造りの家。扉を押すと、ぎい、と低くきしんだ。なかは、ひんやりと埃の匂いがする。けれど、荒らされた様子はない。木のテーブルに、椅子が四つ。棚には、しまわれたままの食器。壁の釘には、ちいさな外套が一着。窓ぎわには、枯れた鉢植えがひとつ。
誰かの暮らしの匂いが、そのまま、しんと残っていた。
ラヴィは、いつものように、そっと頭を下げた。
「……こんばんは。ひと晩だけ、お邪魔します」
返事はない。この家の主は、もういない。それでも、ラヴィはいつもそうしていた。勝手に借りるのだもの。せめて、ひとことくらいは、と思って。
「ねえ、ラヴィ。だれに、しゃべってるの?」
ミューが、きょとんと見上げてくる。——そういえば、この子が言葉を話せるようになってから、こうして「なんで?」と訊かれるのも、はじめてだった。
「えっと……この、お家の人に」
「いないのに?」
「いないけど。……でも、ここ、その人のお家だから」
ミューは、ふうん、とよくわからなそうに首をかしげた。それから、たたっと駆けだして、棚の食器をのぞいたり、外套をつついたり。好奇心のかたまりみたいに、家じゅうをちょこまかと探検してまわる。
ラヴィは、その背中を見ながら、ちいさく笑った。それから、竈に火を熾しにかかる。今夜もここで、ひと晩を過ごすのだ。
その晩のごはんは、ふたりでこしらえた。
道中で見つけた、保存のきく食べもの。瓶詰めの豆に、干した果実、固くなったパン。それを、ミューが見つけてきた古い鍋にあけて、欠けた竈の火で、ことこととあたためる。
ミューは、やけに張りきっていた。
「ラヴィ、これも入れる! こっちも!」
「ま、待って、ミュー。そんなにいっぺんに入れたら……」
「だいじょうぶだいじょうぶ! いっぱいのほうが、おいしいに決まってるもん!」
なんでも鍋に放りこもうとするミューを、ラヴィはあわてて止める。欲ばりなのは、食べものに対してもおなじらしい。それでも、その手つきはどこか楽しげで、ラヴィも、つられて笑ってしまった。
やがて、ちいさな竈の上で、鍋がくつくつと湯気を立てはじめる。
崩れかけた家の、ちいさな食卓。欠けたお皿によそった、あたたかな汁物を、ふたりは向かいあって食べた。
「……おいしい」
ミューが、ほっぺをいっぱいにふくらませて言う。
「ね! あたしが、いっぱい入れたからだよ!」
「うん。ミューのおかげ、だね」
ラヴィが笑うと、ミューは、えっへんと得意げに胸を張った。
胸の奥で、ネオンがぽつりと呟く。
「……よく食う猫だな」
そのあきれたような声がおかしくて、ラヴィはくすりと笑った。
おなかがいっぱいになると、ミューは、てきめんに眠そうになった。
さっきまで、あんなにはしゃいでいたのに。とろん、と目がとろけて、こっくり、こっくりと舟をこぎはじめる。
「ミュー、眠いなら、寝ていいよ」
「ん……だいじょうぶ……あたし、まだ……」
そう言いながらも、まぶたは、もうほとんどふさがっていた。ラヴィが部屋のすみに寝具を敷いてやると、ミューは、ふらふらとそこへもぐりこみ、ことん、とすぐに寝息をたてはじめる。
ほんとうに、あっという間だった。
ラヴィは、その寝顔をしばらく見ていた。まるくなって眠るミューの背中が、呼吸にあわせてゆっくり上下している。あたたかい。——この子は、ちゃんと、生きている。確かに、いま、ここに。
ピキピキだったころは、言葉を交わすことも、できなかった。鳴き声と仕草から、その気持ちを察するだけで。それが今は、おなじごはんをおいしいと、笑いあえる。眠くなれば、こてんと、先に寝てしまう。——その、ひとつひとつが、ラヴィには、たまらなくうれしかった。
ラヴィは、ミューの肩まで、そっと寝具をかけてやる。それから、テーブルの椅子に腰を下ろした。
窓の外では、青白い月が、しずかに町を照らしていた。
ミューの寝息だけが、ちいさく聞こえている。ラヴィは、椅子の背に、ことんと体をあずけた。あたたかいごはんに、屋根のある部屋。ここのところ、崩れていない家には、なかなか巡りあえなかった。こんなふうにゆっくり息をつけるのは、ずいぶん久しぶりだった。
ふと、胸の奥のネオンのことを思う。
「……ネオン。起きてる?」
すこし間があって、低い声が返ってきた。
「……ああ。起きてる、というか……まあ、私はいつも、こんなだ」
「ねえ。前から、訊いてみたかったんだけど」
「なんだ」
「ネオンって、いつも、どんなところにいるの?」
ネオンは、言葉に詰まったようだった。
「……どんな、と言われてもな。うまく言えないが……」
しばらく考えてから、ぽつぽつと続ける。
「……なんにもないところだ。広いのか狭いのかも、わからない。明るくも暗くもない。ただ、私がそこに立っている。それだけの場所だ」
「立ってる……ずっと?」
「ああ。立っている。そうしながら、同時に……ラヴィの見ているものが、こっちにも映っている。お前の見る空が、道が、あの猫が。それと、私のいるこの場所と。ふたつを、二重に眺めているような……うまく言えないが、そういう、不思議な感じだ」
ラヴィは、その光景を想像してみた。なんにもない、しんとした場所に、ネオンがたったひとり立っている。そうしながら、ラヴィの目に映るものを、いっしょに見ている。——いまも、きっと、ラヴィの座るこの椅子のことも、見ているのだろう。
なんだか、胸の奥がきゅっとなった。
「それ……辛く、ないの?」
「辛い? いや、べつに。疲れもしないし、腹も減らない。眠くもならない」
ネオンは、こともなげに言った。けれど、すぐにすこし口ごもる。
「……ただ。座ったり、横になったりは、できないんだ。そもそも、床も椅子もない。……いや、空間そのものが、ないというのか。うまく言えないが、だから、ただ立っている、としか言えないんだが……それも、なんだか、ちがう気がする」
ネオンは、ふと、付け足すように言った。
「……さっきから、お前が、その椅子でゆったりしているのも、見えていてな。私のほうは、ずっと、こうして立ったきりだ。……まあ、慣れた、と言えば、慣れたが」
ずっと。
その言葉が、ラヴィの胸にひっかかった。
ラヴィは、いま、こうしてあたたかい部屋で、椅子に座っている。ミューは、すぐそこでぐっすり眠っている。——なのに、ネオンだけが、ずっと、なんにもない場所に、立ったままで。
「ねえ、ネオン。ひとつ、訊いてもいい?」
「なんだ」
「ネオンは、わたしが目を覚ましたときから……ずっと、そこで見ててくれたの?」
短い沈黙のあと、ネオンは記憶をたどるように言った。
「……いや。そんなに前からじゃない。たしか……ラヴィが、あの、水槽のたくさんある建物にいた、あのころだ。あのあたりで、ぼんやりと意識が浮かんできた気がする。気づいたら、ここにいて……お前の見るものが、見えていた」
水族館。
ラヴィは思い返した。砂に沈んだ街の、あの青くゆれる水槽。あそこから、どれだけ歩いてきただろう。捻れた回廊を抜けて、すり鉢の広間で崩落に遭って、あの貧しい横丁でミューが姿を取り戻して。いくつもの景色と、いくつもの誰もいない家が、後ろへ流れていった。——ずいぶん、遠くまで来たんだ。
そのあいだ、ネオンはずっと。なんにもない場所で、立ちっぱなしのまま、わたしを見ていてくれた。
ラヴィは、はっとした。
「……ごめんね、ネオン」
「は? なんで、お前が謝るんだ」
「だって……そんなに前から、ずっと。ネオンに、そんな窮屈な思いを、させちゃってたんだ。わたし、ぜんぜん気づかなくて」
「……べつに。謝るようなことじゃない」
ネオンは、ぶっきらぼうに言った。けれど、その声はさっきより、すこしやわらかい。
「そもそも、これがどういうことなのか、私にもよくわからん。なんで、お前の中にいるのか。この場所が、なんなのか。——どっちもわからないことを、お前ひとりが気に病んだって、しかたないだろう」
「でも」
ラヴィは、自分の座る椅子の、木のぬくもりを、そっと手で撫でた。
「……せめて、椅子くらい、あったらいいのにね。ずっと立ちっぱなしなんて、よくないよ」
なんの気なしの、ひとことだった。
——その、ときだった。
「……は?」
ネオンの声が、ふいに裏返った。
「ど、どうしたの?」
「……いや。なんだ、これは。……椅子が」
「椅子?」
「椅子が……いま、ぽん、と。私の目の前に、出てきたぞ。なんの変哲もない、木の椅子が」
ラヴィは、ぱちりとまばたきをした。
椅子。いま、ちょうど、椅子のことを思ったところだった。
「……ねえ、ネオン。もしかして、なんだけど」ラヴィは、おそるおそる口にした。「そこ……わたしの中、なんだよね。だったら……わたしが思ったものが、そこに出てきたり……するのかな?」
「……は?」
「ちょっと、ためしてみてもいい?」
ラヴィは、目を閉じた。そして思いうかべる。あたたかくて、居心地のいい、ちいさな部屋を。
「ねえ、ネオン。どんなお部屋が、好き?」
「お、お部屋? ……いや、急に、なんだ」ネオンは、しどろもどろになった。「す、好きもなにも……まあ、私は、ごちゃごちゃしてるのは苦手で。わりと、シンプルなのが……」
「シンプルな部屋、だね。わかった」
ラヴィは、ふふ、と笑って、思いえがいた。
すっきりとした木の床。ちいさな窓から、やわらかな光が差している。さっき出てきた椅子と、小さな机。壁ぎわには、寝心地のよさそうな寝台をひとつ。よけいなものは、なにもない。けれど、たしかにあたたかな、ちいさな部屋を。
「な——なんだ、これは!」
胸の奥で、ネオンの声が、すっとんきょうに跳ねあがった。
「部屋が……いきなり、部屋ができたぞ! 床も、窓も、寝台まで……! お、おい、ラヴィ! お前、どうなってるんだ!?」
「わ……っ。ほんとに、できちゃった」
ラヴィも、思わず、目をまるくした。ためしに、思いうかべてみただけだったのに。まさか、本当に出てくるなんて。
けれど、ネオンのこの慌てぶりからすると——どうやら、ほんとうに、部屋ができてしまったらしい。
そう思うと、ラヴィの胸に、じわじわとうれしさがこみあげてきた。なんにもなかったネオンの場所に。座るところも、休むところも、ちゃんと、できたのだ。
「……よかった。これで、ネオンも、すこしは楽になるかな」
「……いや、待ってくれ」
ネオンの声は、まだ、ひどくうろたえていた。
「なんで、こんなことが、起きるんだ。お前が、思っただけで……ものが、出てくるなんて。どういう、仕組みなんだ、これは」
「うーん……わかんない。でも、そこ、わたしの中だもん。きっと、そういう、ことなのかも」
「“そういうこと”で、片づけるな……」
ネオンは、それから、しばらく、何かを考えこんでいるようだった。けれど——やがて、はあ、と、大きく息を吐いた。
「……もういい。考えても、わからん。お前のやることは、どうも、私の理解をこえているらしい」
その、降参したような声に、ラヴィは、くすっと笑ってしまった。
「ふふ。……ね、ネオン。せっかくだから、座ってみて?」
短い、間。それから、ふう、と、観念したような息の音が聞こえた。
「……座った」
ぽつりと、ネオンが言う。それきり、しばらく、何も言わなかった。けれど——やがて、ぽつぽつと、こぼすように続けた。
「……どうだ、とは、訊くな。……ただ。立ちっぱなしよりは、ずっと、いい。……すこし、楽になった、気がする」
その声は、もう、強がっても、うろたえてもいなかった。ただ、ほんとうのことを、ひとつずつ、口にしているみたいだった。
「……ありがとう、ラヴィ」
ちいさな、けれど、まっすぐな声だった。
ラヴィの胸の、いちばん奥が、ぽっと、あたたかくなる。
その部屋がどんなふうなのか、ラヴィには見えない。どうして出てきたのかも、わからない。——でも。役に、立てた。ずっとそばで、ラヴィを見ていてくれたこの声に、今夜は、ひとつ、返せた気がした。
窓の外では、月が、しずかに町を照らしている。誰もいない家のなかに、ちいさな寝息と、もうひとつ、ちいさなぬくもりを抱いて。夜は、おだやかに更けていく。




