10_綱引き
ふたりは袋小路をあとにした。
ミューはもう宙には浮かばない。猫のような足どりで、ラヴィのすぐ横をちょこちょことついてくる。背が低いぶん、歩幅も小さい。少し気を抜けば置いていきそうになって、ラヴィはそのたびに歩みをゆるめた。
「ラヴィ、ラヴィ。ねえ、こっちの道で合ってる?」
「うん。たぶん、こっち」
「ふうん。ラヴィが言うなら、合ってるね!」
ミューは、なんでもないことにまでいちいち嬉しそうに頷いた。ラヴィの袖を、気まぐれに引いてみたり、手のひらにちょいと指をからめてみたり。猫が甘えるように、思いつくたびラヴィにじゃれついた。
——にぎやかだ。
ラヴィはこっそりそう思った。ついこのあいだまで、この子は「ピキピキ」としか鳴けなかった。静かな道を、小さな羽音だけがふわふわとついてきた。それが今は、どうだろう。ひとつ問えば、十も返ってくる。ただ歩くだけの道のりが、急に色のついた音で満たされたようだった。
薄暗い路地は、進むほどに少しずつ表へとひらけていった。肩を寄せ合っていた建物の間が広がり、頭の上の細い灰色の帯がだんだん太くなる。割れた石塀のむこうから、傾いた陽の色がまた差しこみはじめた。背中のほうへ、あの貧しい横丁の影がようやく遠ざかっていく。
足もとの瓦礫も、いつのまにか減っていた。かわりに、つるりとした石畳が顔を出す。ミューは、その継ぎ目をぴょん、ぴょん、と踏んで渡っていく。鼻歌まじりに。よほど機嫌がいいらしい。
——と。
ラヴィの胸の奥で、ぽつりと声がした。
「……おい。さっきから、あの猫。ラヴィにくっつきすぎじゃないか」
ネオンだった。
ラヴィは、つい小声で返してしまう。
「だいじょうぶだよ。ミューは、ただ、うれしいだけだから」
「……そうは、見えないがな」
——そのときだった。
ミューがぴたり、と足を止めた。
じっとラヴィを見上げている。猫耳が、不審そうにぴくりと傾いた。
「……ねえ、ラヴィ」
「ん?」
「ラヴィ。——誰と、喋ってるの?」
ラヴィは、どきりとした。
「えっと……」
「だって、ラヴィ。ときどき、誰もいないほうを向いて、ひとりでぶつぶつ言ってる。さっきも。その前も」
ミューの声に、ほんのりとがったものが混じる。自分のほかに、ラヴィの気を引くものがある。それがどうにも面白くないらしかった。
ラヴィは少し迷ってから、正直に打ち明けることにした。
「あのね、ミュー。……わたしの中に、もうひとり、いるの」
「……は?」
「声、なんだけどね。わたしのずっと奥のほうから、聞こえてくるの。ネオンっていう、女の子」
ミューは、きょとんとした。それから、ラヴィの胸もとをぐっとのぞきこむ。耳をぺたりと押し当てて、じっと聞き耳をたてた。
「……なんにも、聞こえないけど」
「うん。たぶん、ミューには、聞こえないと思う」
「ふうん」
ミューは、つまらなそうに唇をとがらせた。
胸の奥で、ネオンがふん、と鼻を鳴らす。
「聞こえなくて、けっこう。……だいたい、なんなんだ、あの子は。会ったばかりの相手に、あんなにべたべたと。ラヴィ、もう少し警戒したほうがいい」
ラヴィはその言葉を、つい口に出してしまった。
「ネオンが……ミューは、ちょっと、くっつきすぎだって。心配だって」
言ってしまってから、しまった、と思った。
案の定、ミューの目つきがすうっと変わる。
「……は? なによ、それ」
ミューは、ラヴィの胸もとに向かって——つまり、姿の見えないネオンに向かってずいと身を乗り出した。
「ちょっと。聞こえてるんでしょ、そこの。あたしがラヴィにくっつくのに、あんたの許可がいるわけ? ラヴィのことは、あたしが、いちばん分かってるんだから。ぽっと出の居候は、すっこんでてよね!」
胸の奥で、ネオンがむっとするのが伝わってきた。
「居候だと……? 言っておくが、私のほうが、先にここにいたんだぞ。……それに、私は、心配して言ってるんだ。誰かに入れ込みすぎるのは、考えものだと。度が過ぎれば、いつか、相手を困らせることになりかねん。そういうのを、私は——知っているんだ」
ラヴィは、しかたなく、ネオンの言い分をミューに取り次いだ。
「えっと……ネオンが。度が過ぎると、ラヴィを、困らせちゃうかもって……」
「うるさい、うるさい! あたしは、ラヴィを困らせたりなんか、しない! ぜったいに!」
ミューが、ぷんすかと宙に向かって言いつのる。ネオンが、内側で負けじと言い返す。ラヴィはそのあいだで、おろおろと両方の声を行き来した。
「えっと、ネオンが……あ、ミュー、ちょっと待って。ネオンも、そんな言い方しないの。……ね、ふたりとも」
板挟みだった。
——けれど。
不思議と、いやな気分ではなかった。
むしろ、どこかくすぐったいくらいだ。だって、ついこのあいだまで、ラヴィの世界には自分ひとりしかいなかったのだ。誰に呼びかけても、振り向いてもらえなかった。それが今は、自分を真ん中にして、ふたりがこんなにも本気で言い合っている。わたしのことで。
その騒がしさが、空っぽだった胸にじんわりとしみた。
ひとしきり言い合って、ミューはふん、とそっぽを向いた。ネオンも、それきりむすっと黙りこむ。けれど、どちらも本気でいがみ合っているわけではなさそうだった。初めて顔を合わせた者どうしが、たがいにすこしだけ身がまえている。それだけのことに思えて、なんだかほほえましかった。
道は、やがてひらけた広場に出た。
崩れた噴水のあとが、まんなかにぽつんと残っている。そのふちに、ラヴィは腰を下ろした。ミューも、すぐとなりにちょこんと腰かける。そして、当たり前みたいに、ラヴィの腕へこてんと寄りかかった。傾いた陽が、ふたりの影を石畳に長くのばしていた。
しばらく、誰も何も言わなかった。
そのしずかな一拍のなかで。
ミューが、ふと、こてんと首をかしげて訊いた。
「ねえ、ラヴィ」
「ん?」
「ラヴィって、さ。——どこから、来たの?」
何気ない問いだった。
ラヴィは、すこし考えて、それからぽつぽつと話しはじめた。
「目が覚めたのはね。……洞窟の、中だったの」
「洞窟?」
「うん。ほら、ミューと、いちばん最初に会った、あの町。——あの近くにある、ちいさな洞窟」
冷たい石の上で、目を覚ました。あたりは暗かった。聞こえていたのは、ただ水の滴る音だけ。ぴちょん、と雫がひとつ落ちた。その音に呼ばれるみたいにして、ラヴィはまぶたを開けたのだ。
「目が覚めたとき、わたし、なんにも知らなかった。自分の名前も。どんな顔をしているのかも。自分が、いったい何なのかも。——それより前のことは、ほんとうに、なんにも。まるで、その瞬間に、世界がはじまったみたいに」
名前は、あとから光の声に教わった。顔は、市場の鏡ではじめて見た。好きなものも、きらいなものも、ひとつずつ旅のなかで知っていった。自分をかたちづくるものは、ぜんぶあとから、外から受け取ってきたものだ。
ラヴィは、それを淡々と話した。寂しいとも、つらいとも思わなかった。それが、ラヴィにとっての当たり前のはじまりだったから。
ミューは、その話をめずらしく静かに聞いていた。
そして——洞窟、と聞いたあたりから。その目が、だんだんときらきらしはじめる。
「……あの町!」
ぱっと顔を輝かせた。
「あたしが、ラヴィに助けてもらった、あそこだ! ……そっか。ラヴィも、あの近くで、目を覚ましたんだ。じゃあ、あたしたち——ほとんど、おんなじ場所が、はじまりなんだね!」
ミューは、それがよほど嬉しかったらしい。ぎゅう、とラヴィの腕に抱きついてきた。
「うれしい。なんだか、すっごく、うれしい」
その無邪気な喜びように、ラヴィもつられてふっと笑った。
胸の奥では、ネオンが何も言わなかった。
さっきまでミューと言い合っていた、あの調子なら。ひとこと茶々を入れてきそうなのに。ネオンは静かにラヴィの話を聞いている。その静けさが、ラヴィにはどこか深く感じられた。
——前に一度、ネオンがふと口をつぐんだことがあった。昔の誰かのことを話しかけて、それきり固く黙ってしまった、あのとき。ネオンもきっと、語らずにいる何かを胸の奥に抱えている。その奥に、ラヴィは、そんな気配をそっと感じ取った。
「……さて」
ラヴィは、服についた砂をぱたぱたとはらって、立ち上がった。
「そろそろ行こうか。陽が、暮れちゃう前に」
「うん!」
ミューが、元気よく立ち上がる。ラヴィの手を、きゅっとにぎってきた。胸の奥では、ネオンがやれやれ、というようにちいさく息をつく。
かたわらに、ひとり。胸の奥に、ひとり。——あわせて、三人。
ずいぶんと、にぎやかな旅になったものだ。
ラヴィはもう一度、暮れかけた空を見上げた。空を走るあの一筋の線は、相変わらず、そこにある。線のむこうの青は、こちら側より、ほんの少し古びて見えた。その遠さの正体は、まだわからない。
——と。
「ねえ、ラヴィ。次は、どこ行くの?」
ミューが、ラヴィの手を引いてせがむように見上げてくる。
「うーん……わからない。どこに何があるのかも、まだ、ぜんぜん。——でも、行ってみれば、きっと何か分かるよ」
「ふうん。じゃあ、どこでもいい。ラヴィが行くところなら、どこへでも」
胸の奥で、ネオンがぽつりと呟いた。「……調子のいい猫だ」。
その声に、ラヴィの口もとが、ついゆるむ。すると、それを目ざとく見つけたミューが、「ねえ、いま! その声、なんか言ったでしょ!?」と、ぷう、と頬をふくらませた。
そのにぎやかなやりとりに——ラヴィは、とうとう声をたてて笑った。
ひとりきりだったころには、思いもしなかった。——自分がこんなにも笑えるなんて。




