羽を休めたいだけのバタフライ
「ちょっと、その羽、もうちょっとだけ開けて見せてもらえるかな?」
診療室のテーブルの上、小さな蝶が翅を閉じたまま、静かに身体を震わせている。
「触られない、って約束は、ちゃんと守るから。」
Dr.は診察台の端に腰を下ろし、手をゆっくりテーブルの上に広げた。
「ただ、羽の状態を、遠くから見てるだけじゃ分からないんだ。」
「羽を休めたいだけ、っていう気持ちも、ちゃんと見たい。」
蝶は、その声を聞いたかのように、わずかに頭を傾けた。
翅はまだ閉じたままだけど、足の先が少しだけカーテンの木枠をたたく。
「外だと、羽を開けば、すぐ飛ばなきゃって感じになるでしょ?」
「捕まえられそうになったら、反射的に空気を叩いて、次の瞬間にはどこかへ行っちゃう。」
「でも、ここはそうだ。羽を開いても、追われない。」
蝶は、ふわりと翅を少しだけ持ち上げた。
光が、薄い水色の表面に滑り、一瞬だけ虹色に光る。
「君、羽、疲れてる?」
Dr.は声を落として尋ねた。
「羽を開いてるだけでも、大丈夫なくらいには、まだ元気かな?」
蝶は、その問いに答えられるように、翅をもう少し高く掲げた。
けれど、完全に開き切らず、半分だけ開けたまま、その角度を保つ。
「そこまでかな、今日は。」
Dr.は唇の端を少し上げた。
「羽を閉じる勇気も、開く勇気も、同じくらい大切だよ。」
蝶は、その瞬間、Dr.の指先に向かって、少しだけ前足を伸ばした。
触れることはなかったけれど、その距離感は、まるで「もう少しで、信じられる」寸前みたいだった。
「君の羽は、飛ぶためだけにあるんじゃない。」
「羽を閉じてるとき、君は世界を外側から見ている。」
「羽を開くとき、君は世界を自分の側に呼び込んでいる。」
蝶は、耳を凝らすように、Dr.の声に寄り添った。
身体の震えが、少しずつ静かになっていく。
「羽を休めたいだけ、っていうのは、逃げたいわけじゃないよ。」
「君は、きっと、もう十分、飛んできた。」
「今は、その羽を、もう少し、自分のために使っていい。」
蝶は、その言葉を聞いた瞬間、翅をゆっくり閉じた。
けれど、今度は、逃げるためにではなく、まるで「ここで一旦、終わりにしよう」と決めたような、静かな閉じ方だった。
「羽を休めたいだけ、だけれど、君はそれでも、まだ飛べる。」
Dr.はそっと微笑んだ。
「それなら、いつでも、また、羽を広げていい。」
蝶は、その答えを聞いたかのように、テーブルの上を少しだけ歩き、診療室の窓際へと向かった。
光が差し込む場所に止まり、翅を閉じたまま、その場に静止した。
まるで、
「今日は、羽を休めたいだけ」
と、そっと、言葉を残したかのように。




